制度と人間の狭間で
共創民主の会
第1話 紙の破れる音
午前十時、商店街に入ると、蝉の声より先に、紙を破る音が聞こえた。
「ちくしょう、こんなもんわかるわけねえだろ」
老舗「若松屋」の軒先で、山崎さんが紙の束を引き裂いていた。六十五年の人生で培った指先が、見慣れない青色の申告書を力任せに破る。抹茶の粉が、夏の陽射しに舞う。
「山崎さん、それ……」
「ああ、川口ちゃんか。ごらんよ、これがデジタル化だとさ」
破られた紙片には「QRコード読取欄」と印刷されていた。山崎さんの手は震えていた。五十年続いた和菓子屋の主人が、小豆の産地なら口を開けば語れるのに、スマホの画面には指が滑るだけだ。
「税務署の説明会、行かれたんですか?」
「三日連続で行きたいほど暇じゃねえよ。朝六時に釜を火に入れて、夜八時に締めて……それが商売だ」
店の奥から練り切りの甘い匂いが漂う。棚には、今年度分の申告書が抹茶の粉を被って黄ばんでいた。
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午後二時、自治会事務所。エアコンの効きすぎた部屋で、本田会長がデータを広げた。
「高齢店主の七割が様式変更を知らなかった。市役所は『周知徹底』って言うけどな」
ノートパソコンの画面には、エクセルシートが並ぶ。七十有四の会長が、一つひとつ電話で確認した結果だ。
「これ、見せてもらえますか?」
「いいけど……非公開だからな」
会長が差し出したのは、市役所との交渉記録。五回にわたる要望書には、「猶予期間の設定」「出張相談の実施」という文字が並ぶ。すべて「検討します」の一言で片づけられていた。
「川口ちゃん、ここに書けないことがある」
会長の声が低くなった。
「実は……税務署が動き出した。高齢者宅への出張指導を」
心臓が高鳴った。これはスクープだ。
「本当ですか?いつから?」
「来週から試行で十件。でも……」
会長の目が泳いだ。
「オフレコにしてくれ。店主たちが不安がってる」
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午後五時、編集会議。ホワイトボードに「条例施行の功罪」と書いても、雰囲気は冷たい。
「デジタル化率八五パーセント達成」
佐藤編集長が市発表の数字を指差す。
「川口、お前の話は面白いが、数字がねえ」
「でも現場では……」
「現場?」
編集長の言葉は、税務署の様式用紙のように角が立っていた。
「山崎さんという店主が、紙の申告書を破っただけか?それが記事になるか」
先輩記者が肩をすくめた。
「お前、税務署のHP見た?『利便性向上』って書いてあるだろ」
会議室の時計が五時半を指す。締切まで十二時間。
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夜九時、居酒屋「田むら」。会長が焼酎のお湯割りを口にした。
「出張指導、本当ですか?」
「ああ。でも書くなよ。まだ内々だ」
テーブルにこぼれた焼酎が、蛍光灯の光を反射している。制度の冷たさと、人の温もりの狭間だ。
「なあ、川口ちゃん。お前はどっちを写す?」
「どっちって?」
「制度の失敗か、救済の光か」
スマホのタイマーが00:00を指した。締切だ。
私は原稿用紙に向かった。タイトルは迷ったが、結局、あの日聞いた音を選んだ。
「紙の破れる音――デジタル化が切り裂く商店街」
署名欄に名前を書く前に、もう一枚の原稿用紙に別の見出しを書いた。
「出張指導、始まる――高齢者の不安に寄り添う税務署」
どちらが真実か。私にはわからない。ただ、山崎さんの震える手と、会長の沈黙の重さは、数字では測れない。
原稿をファックスで送ると、夜明けの商店街に朝の匂いが漂っていた。今日も誰かが釜を火に入れ、誰かがスマホに戸惑う。
私はノートに書いた。次の特集のために。
「制度と人間の、まだ見ぬ物語」
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