音楽室の約束

朱雀

第一部 放課後の音楽室

 わたし高校一年こうこういちねんのときに自己紹介じこしょうかいでミスをして、クラスのみんなからきらわれるようになった。あの日のことは今でもはっきりとおぼえている。教壇きょうだんに立った瞬間しゅんかん教室中きょうしつじゅう視線しせんが私に集中しゅうちゅうして、心臓しんぞうが激しく鼓動こどうを打った。

斎藤希砂さいとうきずなです。趣味しゅみは...ピアノです」

そう言った途端とたん、教室がざわついた。音楽おんがくの時間になると、先生は当然のように私に伴奏を頼んできた。でも、人前に出ると指が震えて、いつものように弾くことができない。結局、途中で止まってしまい、恥ずかしさで顔が真っ赤になった。

その日から、クラスメイトたちの私を見る目が変わった。廊下ですれ違っても、小さくひそひそ話をする声が聞こえてくる。一人で過ごすことが多くなり、休み時間は図書室か、誰もいない音楽室で過ごすようになった。

だがそれも今日で終わる。二年生に上がり、クラス替えがあるのだ。今度こそ、新しいスタートが切れるはず。今日からまた楽しい学校生活が送れる。そう自分に言い聞かせながら、春の暖かい朝の廊下を歩いていた。

新しいクラスの発表を見に行くと、確かにクラス替えはあった。でも、一年の時同じクラスだった生徒が半数もいる。その中には、私の失敗を知っている何人かの顔も混じっていた。胸の奥がきゅっと締め付けられる。

またクラスからハブられる運命なんだろう。そう思いながら、重い足取りで新しい教室に向かった。新学期の希望は、現実の前であっという間にしぼんでしまった。教室の扉の前で立ち止まり、小さくため息をつく。

でも、歩みを止めるわけにはいかない。私は静かに教室の扉を開けた。

教室に足を踏み入れた瞬間、胸のざわめきがひどくなった。新しい席に座った同級生たちの視線が、まるで針のように私の肌を刺す。一年生の時の記憶が蘇り、呼吸が浅くなっていく。このままでは教室にいることすら厳しい。

私はそっと席を立ち、保健室に向かった。廊下を歩く足音が妙に大きく響いて聞こえる。保健室のドアをそっと開けると、中には誰もいなかった。養護の先生はまだ来ていないようだ。どこか静かな場所で心を落ち着かせたい。

そう思った私は、迷わず音楽室に向かった。ここなら一人になれる。音楽室に近づくと、中から物音が聞こえてきた。そっとドアを覗くと、音楽の加藤雪先生が授業の準備をしていた。

「先生、おはようございます」

小さく声をかけると、加藤先生は振り返って優しく微笑んだ。

「あら、斎藤さん。どうしたの?」

私は事情を話した。新しいクラスに馴染めそうにないこと、教室にいると息苦しくなってしまうこと。加藤先生は静かに頷きながら聞いてくれて、担任の先生にも事情を伝えてくれることを約束してくれた。

「音楽準備室で過ごしてもいいわよ。静かだし、落ち着けると思うから」

その日は音楽準備室で一日を過ごした。窓から見える桜のつぼみが、春の訪れを静かに告げていた。

放課後になり、学校が静寂に包まれると、私はいつもの日課であるピアノに向かった。誰もいない音楽室で、ようやく心が安らぐのを感じながら、そっと鍵盤に指を置いた。

鍵盤を弾き始めてまだ数分も経たないうちに、音楽室のドアが勢いよく開かれた。振り返ると、担任の田村先生が立っていた。私の手は反射的に鍵盤から離れ、心臓が早鐘を打った。

「斎藤、なぜクラスメイトのことを嫌うんだ」

先生はいきなりそう言って、私を責めるような口調で問い詰めてきた。あまりに唐突で一方的な言葉に、私は困惑した。クラスメイトを嫌う?そんなことをした覚えはない。

「知りません」

私は小さく首を振って答えた。本当に身に覚えがなかった。すると田村先生は眉をひそめて、さらに厳しい表情を見せた。

「同じクラスの生徒から聞いたんだ。お前が他の生徒を避けているって」

私の胸に重いものが落ちたような感覚があった。避けているのではない、避けられているのに。でも、それを説明する言葉が見つからない。私は静かに立ち上がって、先生を見つめた。

「私は本当に身に覚えがありません。話にならないので、出て行ってください」

自分でも驚くほどはっきりとした声で言った。田村先生は一瞬呆気に取られたような顔をしたが、不満そうに音楽室を出て行った。

一人になった音楽室で、私は再び鍵盤の前に座った。指先が微かに震えている。

それでも私は震えながら鍵盤を弾き続けた。音楽だけが、今の私を支えてくれる唯一のものだった。しばらくすると、遠くから階段を上がる足音が聞こえてきた。加藤先生が戻ってきたのかもしれない。私は演奏を続けた。

ところが、音楽室に入ってきたのは加藤先生ではなかった。そこにいたのは、歌手として活動していて、クラスの中心にいる有元紗月ありもとさつきだった。彼女は急ぎ足で音楽室に入ってきて、誰もいないと思っていたのか、私を見つけて少し驚いたような表情を見せた。

「あ...ごめんなさい、誰もいないと思って」

紗月は私の方を見て、申し訳なさそうに言った。私は演奏の手を止めて振り返った。

「ここで何してたの?」

彼女の素直な問いかけに、私は少し戸惑いながら答えた。

「ただ...自分が作詞作曲している曲を弾いていただけです」

紗月の目が輝いた。彼女は一歩近づいてきて、興味深そうに私を見つめた。

「作詞作曲?すごいじゃない。実は私、歌手として活動してるんだけど、新しい楽曲を探してるの。もしよかったら、私に合う曲を一緒に作ってくれない?」

突然の提案に、私は驚いた。断る理由は特になかったし、何より紗月の真剣な眼差しに心を動かされた。

「...いいですよ」

私の答えを聞いて、紗月は嬉しそうに微笑んだ。

「本当?ありがとう!じゃあ、明日から放課後、音楽室に来てください。待ってます」

そう言って、紗月は軽やかに音楽室を出て行った。一人残された私は、まだ信じられない気持ちで鍵盤を見つめていた。

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