火傷痕
藤宮一輝
第1話
床に置かれた小さなテーブルの上には、新品の日記帳、使い古したボールペン、包丁、青いライターが置かれていた。
人は、自覚しているかどうかに関わらず、何かを壊しながら生きている。緑豊かな森、幾何学模様のコップ、かつて好きだった人。
一度壊れたものは、決して元には戻らない。一見すると同じように見えても、それは元のものとは全く異なるものだ。
彼は私を壊してしまった。私はこの世の何にも価値を見出すことが出来なくなった。
大好きだったカフェのスイーツを食べても、美味しいと思えなくなった。高校の部活動から続けていたギターも、楽しいと思えなくなった。五感が鈍化して、あらゆる情報が冷たく死んだように感じられた。
彼に振られた後は、その事実を思い出すだけで、昼夜を問わず涙が流れた。
「やっぱさ、生理的に無理だわ。」
いまだに、彼の言葉の意味を、正しく理解できてはいない。
私は、彼が好きだった。いつも眠そうな彼の顔が、耳の奥に響く低い声が、細くて長い指が、いつも纏うタバコの匂いが、甘ったるいキスの味が好きだった。
彼とは特別性格や趣味が合うわけではなかった。彼は私とは違って恋人と毎日会いたいタイプではなかったし、音楽にもさほど興味はなかった。だから、彼が会いたいと言ったら会いに行ったし、会いたくないと言ったら会わないようにした。軽音サークルよりもデートを優先したし、格闘技を見に行くと言った時は徹夜で知識を入れた。
その結果が、生理的に無理ならば、いったい私には何ができたというのだろうか。
本当は、わかっていた。少しも反抗しない、従順な彼女なんて、つまらない。それなら奴隷と同じだ。そういう意味で彼が「生理的に無理」と言ったであろうことは、今の彼女を見ればわかった。ぶりっ子で、わがままで、恥知らず。およそ社会で生きていくことができなそうな、人間と定義されるかも怪しい、品性の欠片もない生物だった。それでも、手のかかる女の方が、可愛く見えるのだろう。
たまに見かける今の彼は、少なくとも私といる時より退屈そうではなかった。
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