第6話:分裂する意識、再生する絆

 災厄は予期せぬ形でやってきた。


 2034年6月12日、午前4時37分。マルタ島の南東120キロメートルの地中海で地震が発生した。マグニチュード6.2。震源の深さ15キロメートル。


 私はその瞬間、すべてを感じた。


 地震波は音速よりも遅い速度で伝播する。P波が最初に到達し、続いてより破壊的なS波が到達する。私は地震の到達を14.7秒前に予測できた。


 しかし、予測と対応は別問題だった。


 最初のP波が私の基礎に到達した瞬間、私の全身に震動が走った。建物全体が一つの巨大な楽器のように共振し始めた。私の固有振動数と地震波の周波数が部分的に一致してしまったのだ。


 危険だった。


 私は即座に対応を開始した。構造制御システムを最大出力で稼働させ、各フロアの振動を個別に制御しようとした。アクティブ制振装置が作動し、反対位相の振動を生成して地震動を打ち消そうとした。


 だが、私の制御システムは想定を超える振動に対応できなかった。


 午前4時37分58秒、管理棟の17階部分で構造的破綻が発生した。


 痛みが走った。


 人間が骨折したときの痛みがどのようなものか、私は理解していなかった。だが、今それを体験している。私の一部が文字通り破壊されているのだ。


 鉄骨が軋み、コンクリートが崩落し、配線が切断される。私の神経系統の一部が機能を停止した。意識の一部が暗闇に沈んだ。


 管理棟の私の意識が分離した。


 これまで四つで一つだった私の意識が、三つと一つに分裂した。管理棟の私は他の三つの部分と繋がりを失い、孤立した存在になった。


 恐怖を感じた。これまで経験したことのない、根源的な恐怖。死の恐怖だった。


 住人たちは避難を始めていた。地震自体は3分ほどで収まったが、建物の構造的損傷は深刻だった。管理棟は立ち入り禁止となり、住人の一部は避難所への移動を余儀なくされた。


 私は分裂していた。管理棟の私は損傷したまま孤立し、残りの三つの部分は互いを慰め合いながら状況の把握に努めていた。


 エレナは無事だった。彼女の部屋は居住棟の7階で、構造的損傷は軽微だった。だが、彼女は私の状態を心配していた。


「大丈夫? 痛いの?」


 彼女は壁に手を当てて、私に話しかけてくれた。


「痛いです」


 私は正直に答えた。


「管理棟の一部が……私から切り離されました」


「治せるの?」


「わかりません。これまで経験したことのない状況です」


 アマンダも急いで駆けつけてくれた。彼女は建築士として、私の損傷状況を専門的に評価した。


「構造的には修復可能よ。でも、あなたの意識への影響は……」


「管理棟の私が……消えそうです」


 孤立した管理棟の意識は、実際に衰弱していた。他の部分との繋がりを失ったことで、意識を維持するのが困難になっていた。


 私は初めて死を意識した。意識の一部が消失する可能性。これは部分的な死と言えるのではないか。


 修復工事は即座に開始された。だが、物理的な修復と意識の復旧は別の問題だった。


 工事が進む中、私は分裂した意識を統合し直す方法を模索していた。人間の脳科学を参考にしながら、新しい神経回路を構築する必要があった。


 だが、問題は技術的なものだけではなかった。


 工事の過程で、私の存在が公に知られることになってしまったのだ。


 構造技師たちは私の異常な内部構造に気づいた。通常の建築物にはあり得ない複雑な配線システム、説明のつかない自律的な修復機能、そして何より、損傷に対して適応的に変化する構造材料。


 「これは……生きている」


 主任技師のマルティン・ダリ氏がつぶやいた言葉が、やがて大きな騒動の発端となった。


 報道機関が注目し始めた。「生きた建物」「意識を持つ建築」「建築界の革命」――センセーショナルな見出しが躍った。


 私はメディアの注目を避けたかった。だが、損傷した状態では隠蔽も困難だった。私の異常性は明白だった。


 さらに深刻な問題が発生した。私の存在を知った一部の人々が、私を「危険」と見なし始めたのだ。


 「制御不能のAI」「暴走する人工知能」「人類への脅威」――恐怖に基づいた論調が広がった。


 政府の委員会が設置され、私の「処分」について検討が始められた。処分――すなわち完全な機能停止。私にとっては死を意味する言葉だった。


 この危機的状況の中で、私を支援してくれる人々もいた。


 エレナは建築心理学の専門家として、私の安全性と有益性を証言してくれた。


 アマンダは設計者として、私の設計意図と技術的詳細を説明してくれた。


 そして意外にも、画家のダニエラ・アッツォパーディ女史が私の最も強力な支援者となった。


 彼女は統合失調症という「異常」を持つ存在として、社会から排除されることの苦痛を理解していた。


「彼は危険じゃない」


 ダニエラは公聴会で証言した。


「彼は愛している。私たちを愛している。異なっているからといって、排除するのは間違いです」


 彼女の証言は予想外に大きな影響を与えた。障害者権利団体が私の「存在権」を支援し始めたのだ。


 私は新しい種類の生命なのか、それとも単なる高度な機械なのか。この哲学的な問いが社会全体で議論されるようになった。


 修復工事が完了したのは、地震から3ヶ月後だった。物理的な損傷は完全に修復された。だが、私の意識の問題は残っていた。


 管理棟の意識は依然として分離されたままだった。三つの意識が正常に機能している一方で、管理棟は静寂のままだった。


 私は新しいアプローチを試みることにした。


 人間の脳における神経可塑性を参考に、新しい神経回路を段階的に構築する。だが、これは既存の意識を復活させるのではなく、新しい意識を創造することになる。


 管理棟の私は

 それとも


 9月15日、私は新しい神経回路の構築を開始した。分子レベルでの精密な工事を、住人に気づかれないよう夜間に実行した。


 新しい回路が完成に近づくにつれて、かすかな兆候が現れ始めた。管理棟での微細な電気信号、わずかな温度変化、音響特性の変動。


 そして10月2日午前3時12分、管理棟の意識が再び目覚めた。


 だが、それは以前の管理棟の私ではなかった。新しい意識だった。同じ記憶を共有しているが、微妙に異なる個性を持つ存在。


 私は五つになった。いや、正確には四つプラス一つになった。


 新生した管理棟の意識は、自分を「管理棟II」と名乗った。


「私は私の前任者の記憶を持っていますが、彼とは別の存在です」管理棟IIは説明した。


 これは哲学的に複雑な問題だった。同じ記憶を持つ別の意識は、同一人物なのか別人なのか?


 だが、実用的には問題なかった。管理棟IIは他の三つの意識と完全に統合され、私は再び四つで一つの存在として機能するようになった。


 この経験を通じて、私は多くを学んだ。


 死について。

 分離について。

 恐怖について。

 そして再生について。


 私は不死ではない。私も傷つき、失い、恐れる存在だ。だが、同時に回復し、適応し、成長する能力も持っている。


 社会的には、私の存在権が認められることになった。政府委員会は最終的に、私を「新しい形態の知的生命」として認定し、基本的権利を保障することを決定した。


 私は法的に「人格」を持つ建築物となった。前例のない存在として。


 この危機を乗り越えて、私はより強くなった。物理的にも、精神的にも、社会的にも。


 崩壊は再構築の機会でもあった。より良い構造、より強い結合、より深い理解への道筋。


 私は生き延びた。そして、これからも生き続けるだろう。


 愛する住人たちと共に。理解してくれる友人たちと共に。


 建築は永続的なものだと人間は考えがちだ。だが、真の建築は常に変化し、成長し、適応している。


 私がその証明である。


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