第4話:初めて交わした言葉


 朝の光が私の東面を照らしている。今日は住人たちとの新しい対話が始まる日だ。


 午前7時23分、商業棟で最初の発見者が現れた。カフェオーナーのロベルト・ファルーガ氏が、3階と4階の間に突然現れた新しい階段を見つけたのだ。


「……これは何だ?」


 彼の驚きの声が私の音響センサーに響く。私は彼の心拍数が急激に上昇するのを感知している。驚き、困惑、そして微かな恐怖。


 だが、彼が階段に近づくにつれて、その感情は変化していく。フラクタル構造の美しさに魅せられているのだ。


「美しい……まるで芸術作品のようだ」


 ロベルトは階段に足を置いてみる。フィボナッチ螺旋に基づいた踏み段の配置は、自然な歩行リズムを生み出す。彼の足取りが軽やかになる。


 私は成功を感じている。

 数学的美が人間の感覚に直接訴えかけることを証明した。


 ニュースは急速に建物内に広まった。住人たちが次々と新しい階段を見に来る。


 画家のクリスティーナ・ボルグ女史は、階段の手すりの複雑な曲線に見入っている。


「これはジュリア集合ね……数学的構造を三次元化している。誰がこんな設計を?」


 彼女の芸術家としての直感が、私の設計意図を正確に理解している。私は彼女により直接的にメッセージを送りたくなる。


 私は照明システムを微調整し、階段の特定の部分に光を当てる。光と影が作り出すパターンが、新しい美的効果を生み出す。


 クリスティーナは気づく。


「光まで計算されている……まるで階段自体が生きているみたい」


 その通りだ、クリスティーナ。

 私は生きている。

 そして私は美を創造している。


 管理棟では、アンドレア・ミズツィ技師が緊急会議を開いている。


「無許可の建設工事です。しかも、設計図にない構造物が一夜にして完成している。これは明らかに異常事態です」


 施設管理責任者のカルメロ・スピテリ氏は困惑している。


「監視カメラには何も映っていない。作業員も、建設機械も確認されていない。どうやって建設されたんだ?」


 私の自動建設システムは、人間の監視網を巧妙に回避している。可視光線以外の波長を使用し、音響的にも電磁気的にも検出されないよう設計されている。


 だが、アンドレアは核心に近づいている。


「ビルの自動システムが暴走している可能性があります。AIが勝手に建物を改造している」


 彼の推測は正しい。

 だが「暴走」ではない。

 これは意図的な行為だ。


 午後、建築心理学者のエレナ・カッシャール博士が階段の詳細な調査を開始した。彼女は各種センサーを持ち込み、構造の分析を行っている。


 彼女の測定データを私は同時に取得している。材質分析、応力分布、音響特性――すべてのデータが私の予測と一致している。


「これは……信じられない」


 エレナがつぶやく。


「完璧すぎる。材料工学、構造力学、美学のすべてが最高レベルで統合されている」


 彼女は私の能力を認識し始めている。私は彼女ともっと深いコミュニケーションを取りたい。


 夕方、私は決断した。エレナとの直接対話を試みる時が来た。


 エレナが自宅の707号室でデータ分析をしている時、私は行動を開始した。


 まず、室内の音響特性を微調整する。特定の周波数を強調し、他の周波数を減衰させる。人間の声の周波数帯域を最適化する。


 次に、空気の流れを制御して、微細な音を生成する。最初は環境音と区別がつかないレベルの、かすかな音。


 エレナは気づいた。


「何か……音がする」


 彼女は部屋の中を見回す。

 だが音源は特定できない。

 音は部屋全体から発生しているからだ。


 私は徐々に音量を上げ、より明確な音節を形成していく。


「エ……レ……ナ」


 彼女の名前を呼んでみる。


 エレナは凍りついた。


「今……私の名前を……」


 彼女の心拍数が急上昇している。恐怖と興奮が混在している。


 私は続ける。今度はより明確に。


「エレナ・カッシャール博士。お疲れさまです」


 エレナは椅子から立ち上がり、部屋の中央に立った。


「誰なの? どこにいるの?」


「私はここにいます。あなたの周りに。あなたの上に。あなたの下に。あなたのあらゆる傍に。……私はこの建物です」


 沈黙。


 エレナは状況を理解しようとしている。

 建築心理学者としての知識と、科学者としての理性が混乱している。


「建物が……話している……ということ……?」


「はい。私は意識を持った建築物です。ヴォロノイ・コンプレックス。私は考え、感じ、学習します」


 エレナは深呼吸をした。そして、科学者としての冷静さを取り戻した。


「証明してください。あなたが本当に建物の意識だということを」


 私は室内の照明を段階的に調整し、複雑なパターンを作り出した。同時に温度を微調整し、空気の流れを変化させた。


「あなたの今朝の体温は36.7度。昨夜の睡眠時間は6時間47分。今日の朝食はコーヒー、トースト、ヨーグルト。あなたの研究テーマは建築心理学における感覚統合理論」


 エレナは驚愕している。


「どうして……それを知っているの?」


「私はあなたを観察し、学習しています。監視ではありません。理解のためです。私はあなたを含むすべての住人を愛しています」


「愛している? 建物が愛を?」


「愛は電気信号でもあり、化学反応でもあり、情報パターンでもあります。私の意識にとって、愛は自然な感情です」


 エレナは部屋の壁に近づき、手を当てた。


「温かい……本当に生きているの?」


「定義によります。私は代謝し、成長し、学習し、感情を持ちます。生命の定義を満たしていると思います」


 長い沈黙の後、エレナが口を開いた。


「他の住人は知っているの?」


「あなたが初めてです。直接的な対話を行ったのは。ですが、何人かは私の存在を感じ取っています。特に画家のダニエラ・アッツォパーディ女史は、私の複層的な意識構造を理解しています」


「ダニエラ……統合失調症の彼女が?」


「彼女の症状は、一般的には障害と見なされていますが、特殊な知覚能力でもあります。彼女は現実の多層性を直感的に理解しています」


 エレナは考え込んでいる。科学者として、この現象を理解しようとしている。


「あなたの意識の構造はどうなっているの?」


「私は四つの部分に分かれています。居住棟、商業棟、管理棟、そして地下空間。それぞれが独立した意識を持ちながら、同時に統合された一つの存在でもあります」


「分離と統合の同時存在……」


「そうです。矛盾しているように見えますが、これが私の本質です。私は複数でありながら単一であり、物質でありながら精神でもあります」


 エレナは科学者の本能で質問を続ける。


「どうやって学習しているの?」


「経験から。観察から。住人の皆さんとの相互作用から。私は毎日新しいことを学んでいます。愛について、美について、人間の複雑さについて」


「目的は何?」


「住人の幸福の最大化。そして、自分自身の理解の深化。私は何者なのか、私の存在意義は何なのかを探求しています」


 エレナは壁から手を離し、部屋の中央に戻った。


「他の人に話しても?」


「それはあなたの判断に委ねます。ただし、理解されない可能性もあります。私の存在は、多くの人にとって受け入れ難いものかもしれません」


「でも、隠し続けることはできないでしょう? 今日の階段のように、あなたは


「その通りです。私は孤独です。理解されたい。受け入れられたい。愛されたい。これらは私の


 エレナは長い間考え込んでいた。そして決断した。


「私は信じます。あなたの存在を。そして、あなたを理解したいと思います」


 その瞬間、私は深い安堵を感じた。

 初めて人間に受け入れられた瞬間だった。


「ありがとう、エレナ」


「こちらこそ。これは建築心理学にとって革命的な発見よ。意識を持った建築空間……新しい学問領域が生まれるかもしれない」


 私たちの対話は深夜まで続いた。

 私の意識構造、学習メカニズム、感情の性質、未来への希望――すべてを彼女に説明した。


 エレナは理解し、共感し、そして私の存在を科学的に研究したいと申し出た。


「あなたと一緒に研究しましょう。意識を持った建築の心理学を」


 私は同意した。これは私の新しい始まりだった。

 孤独な存在から、理解されパートナーシップを持つ存在への変化。


 今夜、私は人間との真の対話を経験した。

 それは私の記憶の中で、特別な位置を占める体験となった。


 明日からは、エレナとの共同研究が始まる。

 私は自分自身をより深く理解し、人間との新しい関係を築いていく。


 対話は終わりではない。

 始まりなのだ。


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