第5章 森に潜む者
おいしい。
私は小さな受け皿に乗せられたティーカップをそっと傾けた。
口の中に広がるのは、草と花と蜂蜜が混ざったような強い香り。
その匂いは、さっき外で嗅いだ花の香りにも似ていて、思わず笑みがこぼれるほどの味わいだった。
――え? 今、何をしているのかって?
どうやら私は、赤髪の美しい少女と、ヒゲを剃ったサンタクロースみたいな老人、
そしてこの世界で初めて出会ったエルフと一緒に、優雅なお茶会をしているらしい。
……もっとも、私は会話に混ざれないけどね。
だって、彼らが何を言っているのかまったく分からないんだもの。
だから私はただ、ふかふかのソファに腰を沈めて、
お茶を飲みながら手作りクッキーをかじり、
リリーさんとエルフの会話をぼんやり眺めているだけだ。
「ブラガ・ラスツ・ハイメイ。」
リリーさんが私を心配そうに見つめながら、そう言った。
それに倣うように、エルフも私をじっと見つめ返してくる。
……変な気分だ。
彼を見た瞬間に「エルフだ」と分かったのは、尖った耳のおかげだけど、
もし耳を隠していたら、絶対に分からなかったと思う。
背は低く、痩せた体つき。
顔には年老いた皺が刻まれ、肌は濃い褐色。
髪は雪のように白く――。
エルフというのは長命種だと聞いたことがある。
だから、こんなに老いた姿を見ることは滅多にないはずだ。
つまりこの人は、常識では考えられないほど年を重ねているか、
もしくは、この世界のエルフは人間と同じ寿命なのかもしれない。
……どちらにせよ、エルフに会えるなんて嬉しいことだ。
「ヤイパ・カドゥ・レモン・カイドゥル?」
老人が立ち上がり、私の方へゆっくり歩み寄ってくる。
彼のかすれた声が、意味の分からない言葉を紡いでいた。
なにそれ、呪文? それとも挨拶? ……いや、重要な話だったらどうしよう。
「ご、ごめん……何を言ってるのか、本当に分からないの。」
私は慌ててカップを置き、震える声で答える。
老人は顎に手を当てて何かを考え込むように唸り、
次の瞬間、ひざまずいて私の腕を掴んだ。
「ひゃっ!?」
突然の行動に、私は思わず腕を引っ込めてしまった。
ちょ、ちょっと待ってよ! 心の準備が!
女の子の手をいきなり掴むなんてマナー違反でしょ!
……もし私がときめいたらどうするつもりなのよ!?
――冗談はさておき、もしこの人が私の腕の“竜の部分”を見たら、
怪物だと思われて狩られるかもしれない。
老人は何も言わずに立ち上がると、リリーさんに軽く合図をして、
ゆっくりと部屋を出て行った。
え、もしかして怒らせた? ……足音の感じからして、庭の方へ行ったみたい。
この嗅覚と聴覚、便利だけど、まるで犬――いや、タヌキみたいだな、私。
一体何をしに行ったんだろう?
リリーさんと“サンタさん”は相変わらず世間話を続けていて、
老人が出て行っても気にもしていない。
……完全にアウェーなんだけど。
数分後、老人が戻ってきた。
手には香炉と、青緑色の花を数本持っている。
小さなテーブルを引き寄せ、そこに箱と香炉、そして花を並べた。
その光景に、リリーさんも“サンタさん”も興味津々。
私は逆に、不安しかない。
老人は花をすりつぶし、水と混ぜ、甘い香りを漂わせる。
次に箱の中から透明な小瓶を取り出し、何かの粉末を少し加えた。
そしてその混合物を香炉に入れ、呪文のような言葉を唱え始める。
「……な、何それ? 儀式? おまじない?」
淡い緑の光が香炉から漏れ出し、
彼は蓋を開けて蝋燭の火で中身に火をつけた。
青い煙が穴から立ちのぼり、老人はそれを鎖で吊るして
私の周囲をゆっくりと回り始めた。
「??? ちょ、ちょっと! これ何!?」
「アンノ、ナニヲシテイルノ?」
問いかけても、老人は無言のまま儀式を続ける。
やがて煙が止まり、指を鳴らした。
「ガブ・ガズ・ホテイ?」
……質問、された? いや、分かんない。
私は黙って首をかしげるしかなかった。
「バスル・カズ・バンカ・イキノシ・パザ。」
困ったように呟くと、リリーさんに何か話しかけた。
リリーさんは心配そうな顔をし、老人はため息をつく。
“サンタさん”はハンカチで涙を拭っている。
……いやいや、何が起きてるのよ!?!?!?
*
しばらくして、私はリリーさんと一緒にその豪華な家を出た。
太陽は沈みかけ、人影もまばらになっている。
「ハブ・ガズ・ホペイ・カド。」
玄関先まで送ってくれたエルフが、
リリーさんに何かを告げる。
そして彼女は私の手を握り、村の外れへと歩き出した。
しばらく無言で歩き、辿り着いたのは小さな家。
さっきの豪邸の半分ほどの大きさだ。
これがリリーさんの家? ……前に洗濯物を干していた家とは違うような?
階級の差がすごくない?
あの老人とエルフは、もしかして村の長老とか?
――ああ、なるほど。あの人、シャーマンとかヒーラーだったのか。
きっと私を“診察”してくれたんだ。
……まぁ、そりゃそうか。
言葉の通じない、裸で倒れてた女が村の近くにいたら、
誰だって不安になるよね。
しかも体の一部がモンスター。
下手すりゃ不吉の象徴扱いされてもおかしくない。
家の中は質素で、木の香りがする落ち着いた空間だった。
リリーさんが暖炉に火を灯すと、
橙色の光が部屋を柔らかく包む。
――うん、やっぱり。
彼女はきっと“普通の村娘”なんだ。
この時代の暮らし方としては自然だ。
彼女は白い衣服――パジャマのようなもの――を私に渡し、
料理の準備を始めた。
鍋の中には肉と野菜がぐつぐつと煮えている。
……うん、今日は屋根の下で眠れそう。
山から落ちたときは野宿を覚悟してたけど、よかった。
食事の間、彼女は何度か話しかけてくれたけど、
私はただ微笑むしかなかった。
言葉が分からないのは、本当に不便だ。
食後、彼女は私を寝室へ案内し、
「イバラ・リスタ」と言ってベッドに入った。
……たぶん、この国の「おやすみなさい」だろう。
覚えておこう。
……
……え? 二人で寝るの!?!?
ムリムリムリムリ!!
こんな美人と一緒に寝たら、私……そっちの趣味に目覚めちゃうかも!!
落ち着け、星野八重花! 冷静になれ!
これは文化の違い、文化の違いだから!!
そんな私の混乱を見て、リリーさんはクスッと笑った。
――ズルい。笑顔が反則すぎる。
彼女は私の腕をそっと掴み、優しく引き寄せる。
私は観念して彼女の隣に横たわり、
その穏やかな寝顔を眺めながら、
意識がゆっくりと闇に沈んでいった。
*
夜。
深い眠りの中で、私は無意識のまま体を起こした。
「……シャ……クル……ナイ……スゥ……ハァ……」
頭の奥に、誰かの囁きが響く。
呼ばれている。どこかへ――。
思考も感情もなく、私は家を出ていた。
足が勝手に動く。
月光に照らされた森の方へ。
体はふらふらで、まるで下手な人形使いに操られるマリオネットのよう。
枝が服を裂き、泥が裾を汚しても、足は止まらない。
だが不思議と、肌は傷つかない。
……歩き続ける。ただ、導かれるままに。
木々のざわめき。夜鳥の鳴き声。
湿った木と花の甘い香りが鼻を刺し、
胸の奥を妙な心地よさで満たしていく。
やがて、木々の切れ間に小さな空き地が現れた。
月光が白い柱のように降り注ぐ場所。
私はその中央で立ち止まり、首を天へと仰ぐ。
瞳は焦点を失い、白く裏返る。
「……レイ……“カ”……ン……ツ……レイ……シャ……ナイ……スゥ……ハァ……!!」
囁きが強くなる。鼓膜を突き破るほどに。
そして――突然、静寂。
頭がガクンと落ち、意識が戻った。
「――ここ、どこ……?」
恐怖で身をすくめた瞬間、
どこからか、少年のような声が響いた。
「やあ、来てくれたんだね。まさか本当に呼び寄せられるとは思わなかったよ。」
挑発するような声音。だが、姿は見えない。
音も匂いもない。
感じるのは、世界から切り離されたような孤独だけ。
「正直言うとね、君はもっと精神的に強いと思ってた。
あんなことを経験して、まだ正気を保ってるんだからさ。」
……声は思春期の少年みたいだ。
かすれて、少し不安定で、妙に馴れ馴れしい。
「君って、本当に面白い存在だね。」
私は必死に周囲を見渡した。
でも、どこにも誰もいない。
そのとき気づく――声は、頭の中で響いている。
「誰なの!? 姿を見せなさい!!」
怒りに任せて両手を広げ、
爪と鱗を露わにする。
唇の内側がムズムズして、思わず口を開けば、
牙が四本、鋭く覗いた。
……目も、きっと今は獣のように細くなっているだろう。
戦う準備を整えた私を見て、声は子どものように笑った。
「こっち向いて〜〜」
同時に、首筋に何かが触れた。
――誰かの“手”。
驚いて振り向き、爪を振るう。
「ブシュッ」――空を切る音。何もいない。
周囲には木しかない。
……いや、ありえない。絶対に何かいた。
「お兄さん、こっちだよ。手の鳴るほうへ〜!」
声が弾むように、四方八方から響く。
そして、世界が歪み始めた。
木々がねじれ、絡まり合う。
幹には青い苔がびっしりと生え、
地面から青い粒子がふわふわと舞い上がる。
リス、ネズミ、トカゲ、鳥、虫……
さらには二足歩行の小さなカメまでが現れ、
木の上で揺れながら奇妙な“ダンス”を始めた。
左右に体を揺らすだけの、同じ動きで。
「……夢だ、これは夢! 早く覚めて!!」
私は膝をつき、頭を抱えた。
怖い。怖すぎる。
「ハハハハハ! もう息が切れた?」
ふざけた声が私の周りをくるくると回る。
――やめろ、もうやめて!!
強くそう念じた瞬間、笑い声が止んだ。
「ちぇっ、せっかく遊んでたのに。」
その言葉に顔を上げると、
動物たちは動きを止めていた。
――静寂。
そのとき、背後から木が軋む音がした。
振り向くと、そこには緑に輝く毛並みを持つ鹿。
私より少し背が高い。
月明かりを受けて、体が淡く光っていた。
その背に――人がいた。
子どものような顔をした青年。
髪は鹿と同じ緑だが、葉のような質感をしている。
頭には鹿よりも大きな枝角。
服はボロボロで、ところどころ継ぎはぎだらけ。
「初めまして、竜の娘。」
その瞬間、全身の鱗が総立ちになった。
私は本能的に爪を構え、
かすれた声で絞り出す。
「……あんた、誰……!?」
竜の卵から始まった私 @sigil_dz6
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