第15話 理と欲、二つの道
永禄二十四年(一五五五年)、甲斐の山奥深く、人里離れた谷間に、秘匿された村があった。そこには、武田信虎の命により、全国から集められた優秀な職人たちが、日夜、研究に勤しんでいた。彼らの手元には、南蛮渡来の技術。そして、影書院の資料が示唆する、未来の知識が与えられていた。それは、火薬と、その威力を最大限に引き出す、鉄砲の製造技術だった。信虎は、この技術を「封印」していた。職人たちは、特定の命令が下されるまで、量産や改良を厳しく制限されていた。
その日、尾張から甲府に戻っていた信長は、信虎の命を受け、この鉄砲工房を訪れた。工房の入口は厳重に警備され、内部は異様な熱気に包まれていた。信長は、職人たちが作り出す、精巧な火縄銃の部品を手に取った。その滑らかな金属の質感、合理的に設計された構造に、信長の目は輝いた。職人たちは、信虎から授けられた知識に基づき、火薬の調合比率を微調整し、銃身の強度を高める研究を続けていた。西洋の鉄砲技術と、日本の職人の技が、ここで融合され、これまでの火縄銃の常識を覆すような、破壊力を持つ鉄砲が生み出されようとしていた。
信長は、その圧倒的な破壊力を想像し、武人としての本能が激しく揺さぶられた。彼の内なる「天下を武で統一したい」という衝動が、大きく、大きく膨らんだ。信長の指先が、無意識に震える。瞳の奥には、抑えきれない炎が宿っていた。
信長は、工房の奥へ進み、職人たちに一つの火縄銃の試射を命じた。職人たちは戸惑ったが、信長の目に宿る熱に押され、小さな的を設置した。職人が火蓋を開け、火薬に火を点ける。信長は、息をのんで見守った。
轟音。耳をつんざくような甲高い破裂音が谷間に響き渡る。
硝煙。銃口から吐き出された白い煙が、周囲の空気を一瞬で満たす。
衝撃。的は、信長が想像していたよりも遥かに強く、まるで粉々に砕け散った。その破片が、木片の匂いと共に、周囲に飛び散る。
信長は、その圧倒的な破壊力に言葉を失った。
(これだ。この力があれば、すべてを焼き尽くせる。今川も、武田も、天下のすべてを。一瞬にして、この世を俺のものにできる…)
信長の内なる衝動は、歓喜の炎となって燃え上がった。信虎の「理」による静かな支配など、この「火」の前では無力に思えた。
信長は、工房の隅で、一人、静かに火縄銃の部品を磨いている職人を見つけた。職人は、信長に気づくと、そっと頭を下げた。信長は、その職人に問いかけた。
「そなたは、この火の力を、どう思っておる?」
職人は、顔を上げ、静かに答えた。
「これは、恐ろしき力でございます。しかし、同時に、これまでにないものを作り出す、神の御業とも思えます。殿(信虎)は、この力を、戦のためだけではない、新たな世を創るために用いるべきだと、お考えのようです」
信長は、その言葉に、胸を衝かれた。信虎の「理」は、火薬という破壊の力を、創造の力へと転換させようとしていたのだ。それは、信長がこれまで考えていた、武力による天下統一とは、全く異なる発想だった。信長は、自分の内に秘めた「天下を武で統一したい」という衝動と、信虎の「理」による平和な世を築くという理念の間で、激しい葛藤に苛まれた。
(…信虎は、この火を、未来を照らす灯火にしようとしている。だが、俺は、この火で、すべてを焼き尽くしたい。これは、ただの火薬ではない。これは、俺の魂の炎だ…)
信長は、信虎の思考を理解しようと努めた。信虎は、武力による支配を否定し、論理と恩義、そして技術という経済的優位で、静かに隣国を屈服させていった。彼の治世は、血を流さず、民を安堵させるものだった。信長は、その「理」の力を認めざるを得なかった。だが、同時に、その「理」が、信長の内に燃える「火」を、抑えつけようとしているようにも感じられた。
信長は、工房の奥で、職人たちが火薬を調合しているのを目にした。様々な粉末が、緻密な比率で混ぜ合わされ、やがて、火薬が完成する。それは、信長が知る火薬よりも、遥かに強力なものだった。信長の瞳は、その圧倒的な力に魅せられ、同時に、その力を「封印」する信虎への、畏怖にも似た感情を抱いた。
信虎の「理」と、自身の「欲」という二つの点が、信長の内面で激しくぶつかり合い、新たな道へと分裂していく様を表していた。「この力があれば、すべてを焼き尽くせる」信長は、そう確信した。同時に、この力を「封印」する信虎への、畏怖にも似た感情を抱いた。
信長は、工房を出て、月明かりの下、一人、武田館へと戻った。彼の心は、晴れなかった。信虎の「理」は、完璧だった。だが、完璧すぎるゆえに、信長の心を苛んだ。信長は、信虎の「理」に従い、平和な世を築くか、それとも、自らの「欲」に従い、天下を武で統一するか、その二つの道の間で、深く、深く、苦悩していた。それは、信長が、自らの進むべき道を、自らの意志で選び取る、最初の試練であった。
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奥日記:火の沈黙
永禄二十四年(一五五五年)、葉月十日、薄曇り
本日、信長様が、奥の山中にございます「火の工房」を、ご視察されたと聞きました。
小姓が伝えたところによれば、その工房には、南蛮渡来の奇妙な武器、「鉄砲」なるものがございましたとか。その威力は、城をも砕くほどと。まこと、恐ろしきことでございます。
しかし、殿(との)の御命で、その技術は厳重に封印されていると聞き、奥の女中たちは皆、安堵の息を漏らしました。殿は、そのような恐ろしき力を、決して安易に世に出されませぬ。
信長様は、その火に魅せられたと聞きます。殿は火を封じ、信長様は火に魅せられた。同じ力を見ても、二人の御心は、全く異なる道を選ばれたようでございます。
殿は、信長様のその火を、いかにして制御なさるのでしょう。わたくしには、この国の未来が、殿の御手の中で、静かに、しかし確実に、定められていくように思えてなりません。
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