第14話 火の信仰、魂の共鳴
永禄二十四年(一五五五年)、甲斐の国。信虎が築き上げた泰平の世は、揺るぎない安定を誇っていた。春には、御政馬の蹄が大地を軽やかに踏み締め、広大な田畑には虎御膳の稲穂が風に揺れる。夏には、水路を巡る澄んだ水が田を潤し、大豆や雑穀が豊かに実った。秋には、虎判金を手に、豊かな収穫を喜ぶ農夫たちの歌声が響き渡り、冬には、温かい囲炉裏端で味噌汁の湯気が立ち上る。轍路を虎車が行き交い、国の隅々まで物資が滞りなく運ばれる様は、まさに絵に描いたような泰平の世であった。飢える者なく、病に倒れる者も稀。家臣たちは家柄ではなく才覚で登用され、民の声は「百姓衆の会」で政に届く。もはや、この地には戦の気配すら微塵も感じられなかった。
しかし、その完璧なまでに静かなる秩序は、信長の内にある「火」の衝動を、日に日に苛立たせていた。彼は、信虎の「理」が、この国のすべてを制御し、人の情熱や狂気を排除していく様を、肌で感じていた。それは、まるで、燃えることを許されず、ただ鎮火されることを義務付けられた炎のようだった。信長は、武田館の庭を歩きながら、胸の奥で燻る感情を、どうすることもできなかった。
その日の午後、信長は、甲府の町で奇妙な噂を耳にした。
「聞いたか。南蛮渡来の火薬に魅せられた者たちがいるとか…」
「なんでも、火を信仰し、戦こそ神意と申しておるらしい」
町人の囁き声は、静かな風に乗って信長の耳に届いた。南蛮の火薬。その言葉に、信長の胸は、微かに、しかし確かに脈打った。彼は、信虎がこの国から排除しようとしている「戦」と「火」の存在に、抗いがたい魅力を感じていた。
その夜、信長は、月明かりの下、一人、武田館を抜け出した。彼は、噂の火薬信仰者たち、すなわち「紅焔衆」が潜伏していると目される、甲府の山奥へと向かった。道のりは険しく、足元は枯れ葉に埋もれ、霜柱が音もなく崩れていく。冷たい空気は、信長の肌を刺し、彼の内に秘めた熱とは対照的だった。
やがて、信長は、山奥の谷間に隠された、簡素な小屋を見つけ出した。小屋の窓から漏れる光は、火薬の燻る匂いとともに、信長の嗅覚を刺激した。信長は、音もなく小屋の陰に身を潜め、中の様子を窺った。小屋の中には、数人の男たちが集まっていた。彼らは皆、黒い頭巾を深く被り、その手には、南蛮渡来の精巧な火縄銃が握られていた。
「火こそ、神の息吹。この世の穢れを焼き尽くす、唯一の神の息吹」
その言葉は、紅焔衆の若き首領のものだった。彼の低い声は、しかし、狂信的な熱を帯びていた。首領は、火縄銃の火皿に、祈るように火薬の黒い粉を注ぎ込んだ。その粉の匂いは、信長にとって、故郷の尾張の匂いだった。戦の火薬の匂い。破壊と創造の匂いだ。
信長は、紅焔衆の思想に、深い共感を覚えた。信虎の「理」が、すべてを制御し、完璧な平和を築こうとしている一方で、紅焔衆は、人の根源的な衝動である「破壊」と「創造」を、神聖なものとして崇めていた。信長は、彼らの思想に、自らの「火」の衝動と同じものを感じた。それは、信虎の「理」とは明確に異なる、もう一つの道だった。
信長は、小屋の戸を、静かに、しかし力強く開いた。小屋の中の男たちは、一斉に振り返り、信長に銃口を向けた。
「…面白い」
信長は、笑みを浮かべた。その笑みは、緊張した空気を、一瞬にして切り裂いた。
「そなたら、火を神と信じるとか。その火は、この甲斐の地で、一体何を起こそうとしておる」
紅焔衆の首領は、信長をじっと見つめ、ゆっくりと銃口を下げた。
「我らは、この世の偽りを焼き尽くす者。この甲斐の地にある、偽りの平和をな」
「偽りの平和か…」
信長は、首領の言葉を反芻した。信虎が築いた平和は、確かに完璧なまでに計算され尽くした、冷たい「理」の産物だった。そこには、人の感情や衝動が入り込む余地はなかった。信長は、その「偽り」という言葉に、自らの心に潜む疑念が、そのまま言葉になったかのような感覚を覚えた。
「そなたの言うことは、わかる。だが、お前たちの火は、どこへ向かう?」
信長の問いに、首領はきっぱりと答えた。
「我らの火は、魂を救済する。この腐りきった乱世を終わらせるには、より大きな火で、すべてを焼き尽くすしかない」
「焼き尽くすか…」
信長の瞳の奥に、炎が宿った。それは、紅焔衆の思想に共鳴した、熱狂の炎だった。
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翌日、信長は信虎の執務室を訪れた。信虎は、卓上で、各地から集められた報告書を丹念に読み込んでいた。その報告書には、紅焔衆が起こした小規模な騒乱の報が、克明に記されていた。
「…南蛮の火薬に魅せられた、狂信者たちがいると聞きました。彼らは、この国の平和を乱す、忌まわしい存在です。武力で制圧すべきではございませぬか」
信長は、信虎にそう進言した。その言葉は、紅焔衆の思想に共鳴しつつも、信虎の「理」による支配を試すかのような、挑発的な響きを持っていた。
信虎は、報告書から目を上げ、静かに信長を見つめた。
「彼らを武力で制圧すれば、一時的な静けさは訪れよう。だが、彼らが持つ火薬の技術と、火を信仰する心は、別の場所で、再び燃え上がる。それは、真の解決にはならぬ」
信虎の言葉は、信長の予想を遥かに超えていた。信虎は、紅焔衆を敵として見なすのではなく、彼らが持つ「火の力」を、この国の発展のために利用しようとしていたのだ。
「…では、いかにして、彼らを制御なさるのですか?」
信長の問いに、信虎は、静かに答えた。
「火もまた、我が器に注ぐ水とならん」
信虎は、紅焔衆の火薬技術を、治水工事における岩盤の破砕や、鉱山開発における採掘の効率化に転用する策を練っていた。彼らの「火」を、破壊ではなく、創造へと導く。それが、信虎の「理」による解決策だった。
信長は、信虎の言葉に、衝撃を覚えた。自身の「火」の衝動が、信虎の「理」によって、手のひらで転がされているかのような感覚に襲われた。信虎の思惑は、信長の内なる「火」を、単なる破壊の力としてではなく、制御された創造の力として利用しようとしているのだ。
信長は、胸の奥で、激しい葛藤に苛まれた。紅焔衆の思想に共感し、その「火」の力を、天下統一の武器としたいという衝動。そして、信虎の「理」によって、その「火」を制御され、利用されることへの反発。二つの異なる哲学が、信長の内面で、激しくぶつかり合っていた。
(俺の火は、信虎の庭を焼き尽くすか、それとも、庭を照らす灯火となるか…)
信長の瞳は、燃え盛る炎と、静かなる理の光の間で、激しく揺れ動いていた。それは、信長が、自らの進むべき道を、自らの意志で選び取る、最初の試練であった。
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奥日記:火と理の交錯
永禄二十四年(一五五五年)、師走十日、冷える夜
奥にも、不穏な報が届き始めました。
南蛮の火薬に魅せられた者たちが、再び騒ぎを起こしているとか。「紅焔衆」と申されるとか。殿が築き上げられた静かなる平和に、またもや火種が投げ込まれたようでございます。
殿は、変わらず静かですが、そのお顔には、深い思索の色が浮かんでおります。争いを避け、理で国を治める殿の御心。しかし、火を信仰する者たちに、その「理」が通じるのでしょうか。
信長様も、思い悩んでおられるご様子。先日、殿と何かを深く語り合われた後、奥の庭で、一人、遠くの山々を見つめておられました。
武をもってしか鎮められぬものもある、そうお考えになられているのかもしれませぬ。
わたくしの心にも、この平和が、いつまで続くのか、一抹の不安がよぎります。しかし、殿の御心は、きっと、この嵐の先に広がる、より大きな平和を見通しておられるのでしょう。そう信じて、わたくしは、ただ、静かに祈るばかりでございます。
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