第9話 知の海、父の言葉
永禄八年(一五六五年)の秋。甲府の武田館は、静かな緊張感に包まれていた。千代は、信虎の書院に隣接する小部屋で、静かに膝を立てていた。書院からは、信虎と異国の宣教師、ルイス・フロイスの声が、障子を通して微かに聞こえてくる。その声は、甲斐の山々を吹き抜ける風のように、千代の耳に届いた。千代の傍らには、通訳を務める息子、朝政が控えていた。まだ幼い朝政の、緊張した息づかいが聞こえる。千代は、息をひそめ、耳を澄ました。
「我らがデウスは、万物を創造し、万人に等しく救いを与える。その法は、日の本のいかなる法よりも普遍である」
フロイスの言葉が、朝政の声を通して響いてくる。千代は、その言葉に、胸の奥がざわつくのを感じた。普遍。それは、京の雅にも、甲斐の武にも、共通するものではない。千代の知る世界は、常に移ろい、形を変えていくものだった。桜の花の散り際、紅葉の燃えるような赤、雪の白。それらはどれも美しかったが、一瞬の輝きであり、永遠ではなかった。だが、フロイスが語る神は、永遠で、絶対だという。
「……そなたらの神は、戦をも禁ずるのか」
信虎の、冷たく澄んだ声が、障子の向こうから聞こえてきた。その声は、問いであり、同時に、鋭い刃を突きつけるような響きを帯びていた。フロイスは、神の教えを、熱心に説き続けた。千代の心に、戸惑いが募っていく。この異国の神の教えは、千代の知る世界の秩序を、根底から揺るがすものだった。まるで、これまで見てきたすべての景色が、一夜にして幻だったと告げられたかのようだ。千代は、自身の心の底に、固く積み重ねてきた京の雅、武田の武、そしてこの奥の平穏が、音もなく崩れていくのを感じていた。
やがて、対話は、千代が最も興味を抱いた、南蛮の品々に及んだ。
「この地に、火薬を広めることについて、どのようにお考えか」
信虎が問いかけた。千代の耳が、ぴくりと動く。それは、千代が奥に届けられた異国の品々を前に、思考を巡らせた、最も根源的な問いだった。
「火薬は、破壊をもたらす。我らがデウスは、争いを望みませぬ」
フロイスは、きっぱりと答えた。だが、千代の思考は、そこで静止しなかった。彼女の思考は、まるで堰を切ったかのように溢れ出した。この火薬を、もし、戦場に焚いたらどうなるだろう。敵を混乱させるためではない。兵たちの心を落ち着かせ、勇気を奮い立たせるために。信虎様は、香道もまた、人の心を操る術だとお考えになった。この香料は、破壊ではなく、人の心を鼓舞するための道具となる。いや、それだけではない。この香りの元は、薬にもなるかもしれない。未来の医術は、このような異国の薬草で発展するのか。もし南蛮の菓子が甲斐に伝わったら、どうなるだろうか。砂糖をふんだんに使った、信虎様の甘味を好む性格にぴったりの菓子だ。子供たちは、その甘さに夢中になる。町人は、新しい菓子を作って商売を始める。それは、民の生活を豊かにし、笑顔を増やす。菓子は、ただの食べ物ではない。民の心をつなぎ、国を豊かにする文化となる。そして、その南蛮船は、恐ろしき火器をも運んできていると聞く。この火器の力があれば、信長様は、天下を武力で統一できるだろう。信長様の火の衝動は、この火器と共鳴するに違いない。だが、信虎様は、火器を「封印」している。火器の力は、信仰と結びつき、新たな争いを引き起こすかもしれない。宣教師たちが語る「デウス」という神は、この甲斐の地に、どのような波紋を投げかけるのだろうか。この布と香りは、ただの品ではない。それは、火器や宗教といった、未来の脅威と可能性の象徴なのか。千代の思考は、未来の幻影を次々と生み出し、彼女の心をかき乱した。
この光沢と香りは、一体何なのだろう。私の知っている美とは、まるで違う。京の雅は、自然の摂理に従い、季節の移ろいを愛でる心だった。それは、磨き上げられた石のような、揺るぎない美意識だった。だが、この異国の品々は、その石に降り注ぐ、乾いた砂のようだ。石の表面をゆっくりと削り、私の知る美を、少しずつ変えていこうとしている。私は、この変化を、受け入れて良いのだろうか。
この美は、まこと、道具なのか。信虎様は、この品々を、ただの文化として受け入れているのではない。交易という形で、自らの支配を広げるための道具として、利用しようとしている。私の愛する京の文化も、故郷の美も、信虎様の天下布武のための道具にすぎないというのか。この乾いた砂は、私の心の奥底にまで入り込み、反発の炎を燃やし始めた。私は、この炎を、どうすれば良いのだろう。信虎様の描く平和のためには、この反発の炎を、消さねばならないのか。
いや、違う。この炎は、消すべきものではない。この反発こそが、私の心の中にある、譲れぬ美意識の証だ。信虎様がこの異国の品々を道具として利用するならば、私もまた、この炎を道具として使う。京の雅が持つ静謐な美と、南蛮の品々が持つ華やかな美を、一つに融和させる。京の文化が、甲斐という地で、南蛮の文化と出会い、新しい美を生み出す。それは、故郷の文化を、甲斐という地に根付かせる、私にしかできない使命だ。私の心の中で、反発の炎は、静かな決意の光へと変わった。その光は、遠い海の向こうを照らし、未来の扉を開く、小さな松明となった。
信虎の書院での対話は、夜遅くまで続いた。千代は、その間、ずっと息をひそめて聞いていた。信虎がフロイスに問いかける言葉、フロイスが熱心に答える言葉、そして、朝政がその全てを正確に伝える言葉。それは、千代の心の内に、新たな知の海を広げていった。
この夜、千代は自室に戻ると、静かに奥日記を広げた。
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奥日記:知の海、父の言葉
永禄八年(一五六五年)、霜月五日、晴れ渡る空
本日、殿の書院で、南蛮の宣教師がお目見えになった。わたくしは、朝政がその言葉を通訳するのを、奥から聞いておりました。宣教師は「唯一絶対の神」を語り、殿は「理」を問うておられました。わたくしには、その言葉の全ては分かりませぬ。しかし、あの場に満ちる、殿の御心と、異国の理との衝突を、わたくしは、肌で感じておりました。
殿の御顔には、いつものように感情はございません。ただ、静かに、遠くを見つめておられるだけ。しかし、その瞳の奥には、新たな問いが宿っているように見えます。この日の本が、海の向こうの異国と、いかなる線を結んでいくのか。わたくしには、まだ、見当もつきませぬ。
ただ、わたくしの心には、この新しい知の波が、静かに、しかし確かに押し寄せている。まるで、広い海へと、一歩、足を踏み出したかのようです。
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