第8話 異文化の波紋、南蛮の香り

永禄八年(一五六五年)の秋。京の都では決して触れることのなかった、異国の香りが、千代の部屋を満たしていた。南蛮船の来航後、信虎の命により、交易で得られた珍しい品々が、甲府の奥にも届けられたのだ。千代は、大井夫人とともに、それらを一つひとつ、静かに検分していた。


部屋に満ちる香りは、伽羅や白檀が持つ、深く静かな香りとはまるで違う。甘く、しかしどこか刺激的で、異質な香りが、千代の鼻腔をくすぐった。それは、この甲斐の山々には存在しない、遠い海の匂い。海を越えて、はるか南の国々から運ばれてきた、太陽と潮風と、そして人々の熱意が凝縮されたような、力強い香りだった。千代は思わず息を吸い込んだ。香りは鼻の奥から喉の奥へと広がり、熱い液体が胸の内に広がるかのような感覚を覚えた。やがて、その香りは千代の衣に染みつき、微かな残り香となって、彼女の周りを柔らかな膜のように包み込んだ。それは、まるで目に見えぬ異国の者が、千代のすぐ傍に立っているかのようだった。


「これは、南蛮の布にございます」


侍女の一人が、黒檀の盆に載せられた布を千代の前に差し出した。それは、日の本の絹とも木綿とも違う、滑らかな手触りの布だった。陽光の下で揺らすと、見たこともない鮮やかな緑が、玉虫色に輝く。千代は、指先でその布の表面をゆっくりとなぞった。触れた瞬間に感じるひんやりとした冷たさ。それがやがて、千代の体温を吸い込み、温かさを帯びていく。布が動くたびに、わずかに「サラリ」と擦れる音がする。それは絹ずれの音とは違い、乾いて軽やかな、異国の風の音のようだった。その感触は、彼女の好奇心を刺激し、まだ見ぬ海の向こうの世界へと、想像の翼を広げさせた。それは、未知の文化への触覚的な体験であり、彼女の海を越える視野をさらに刺激した。


この布の不思議な光沢を目にして、千代は故郷の京を思い出していた。京の春は、桜だった。御所の庭に舞い散る花びらを、姫君たちが競うように和歌に詠む。千代もまた、墨をすり、筆を走らせた。「花の色はうつりにけりな」と歌を詠む声は、桜の淡い色と、散りゆくはかなさそのものだった。あの頃の美は、移ろいゆくものの中にこそ宿っていた。夏は、祇園祭。都大路に響き渡る、笛や太鼓の祭り囃子。秋は、紅葉狩り。大堰川のほとりで、扇を手に連歌を興じる。そして冬は、雪見の座敷。深々と雪が降り積もる庭を眺めながら、琴の音色を聴く。静寂の中で、己と向き合う。それが、都の文化だった。


「わあ……」


小瓶に入れられた香料の蓋を開けた瞬間、後ろに控えていた侍女たちが、思わず声を上げた。彼女たちの間では、早速、その異国の品々を巡る意見が飛び交っていた。


「まあ、なんて良い香り!伽羅よりも甘うございます。これを衣に焚けば、京のお方々も、きっと振り返りますわ!」


若く華やかな顔立ちの侍女が、目を輝かせる。その言葉に、別の娘が頷いた。


「ええ、ええ。この布の色も、なんとも言えぬ美しさ。まるで、天女の衣のようではございませぬか。殿がおっしゃる『新しい世』とは、きっとこのような華やかな世のことですわ!」


しかし、奥にはこの華やかさを警戒する者もいた。


「……あまり騒ぎなさんな。伽羅や白檀は、心を落ち着かせるもの。このような刺激的な香りは、心を惑わすやもしれませぬ。」


老女官が厳しい表情で忠告する。その言葉に、別の老女官が続いた。


「その布も、見たことのない色をしています。毒を塗ってあるやもしれぬ。素性の知れぬものを、安易に身につけるものではありませんよ。」


一方で、別の視点を持つ者もいた。


「わたくしは、この布の織り方が気になります。この滑らかさ、一体どうやって織り上げたのでしょうか。この技術があれば、甲斐の織物も、より丈夫に、より美しくなるやもしれません。」


機織り担当の女官が、真剣な眼差しで布を検分している。奥の薬師もまた、小瓶の香料に興味を示した。


「この香料は、薬の調合にも使えるかもしれません。もし、この香りの原料が分かれば、甲斐の山で似たような薬草を探せるかもしれませんね。」


奥の女性たちのざわめきを、千代は静かに聞いていた。


「この布は、いかがでございましょうか」


大井夫人が、千代の顔を覗き込んだ。その眼差しは、単なる感想を求めているのではない。千代が、この異国の品々に、いかなる意味を見出すかを探っている。


「……まことに、美しい布でございます。日の本にはない、不思議な光沢と色合いです」


千代は、布を手に取り、まじまじと見つめた。その滑らかな感触は、彼女の指先に、未知の情報を伝えてくるようだった。


「この香りは……心に、新しい風を吹き込むようです」


千代は、小瓶の香りを深く吸い込み、微笑んだ。彼女の言葉は、ただの感想ではない。奥の女性たちが、異国の文化をどのように受け止め、いかに活用すべきかを示す、外交官としての千代の役割を自覚した上での発言だった。この奥での異文化体験が、武田の外交を、より柔軟で多角的なものへと進化させていく。


千代は、異国の品々が持つ意味と、それがもたらすであろう未来を、信虎の哲学に沿って理解しようと努めた。それは、単なる好奇心を満たすだけでなく、彼女自身の成長を促す、新たな学びの機会でもあった。異国の品々がもたらす「波紋」は、千代の心に「海を越える視野」という新たな章を書き加えていく。


この光沢と香りは、一体何なのだろう。私の知っている美とは、まるで違う。京の雅は、自然の摂理に従い、季節の移ろいを愛でる心だった。それは、磨き上げられた石のような、揺るぎない美意識だった。だが、この異国の品々は、その石に降り注ぐ、乾いた砂のようだ。石の表面をゆっくりと削り、私の知る美を、少しずつ変えていこうとしている。私は、この変化を、受け入れて良いのだろうか。


この美は、まこと、道具なのか。信虎様は、この品々を、ただの文化として受け入れているのではない。交易という形で、自らの支配を広げるための道具として、利用しようとしている。私の愛する京の文化も、故郷の美も、信虎様の天下布武のための道具にすぎないというのか。この乾いた砂は、私の心の奥底にまで入り込み、反発の炎を燃やし始めた。私は、この炎を、どうすれば良いのだろう。信虎様の描く平和のためには、この反発の炎を、消さねばならないのか。


いや、違う。この炎は、消すべきものではない。この反発こそが、私の心の中にある、譲れぬ美意識の証だ。信虎様がこの異国の品々を道具として利用するならば、私もまた、この炎を道具として使う。京の雅が持つ静謐な美と、南蛮の品々が持つ華やかな美を、一つに融和させる。京の文化が、甲斐という地で、南蛮の文化と出会い、新しい美を生み出す。それは、故郷の文化を、甲斐という地に根付かせる、私にしかできない使命だ。私の心の中で、反発の炎は、静かな決意の光へと変わった。その光は、遠い海の向こうを照らし、未来の扉を開く、小さな松明となった。


この夜、千代は自室に戻ると、静かに奥日記を広げた。


「海の向こうには、日の本とは異なる文化と人々がいる。その理を理解することこそが、信虎様の目指す『和合』の道なのだろうか」


そう記し、千代は自らの探求心が、信虎の「理」と重なり合うことを感じていた。異国の香りは、彼女の心に、遠い海の向こうへの憧憬と、自身の使命を静かに燃え上がらせていた。

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