若狭武田の姫・千代の物語:海を越える視野
第7話 都の風、甲斐の庭
永禄十年(一五六七年)の冬。京の都の文化を身につけた若狭武田の姫、千代は、信虎の館へと輿入れした。甲斐の山々は、深く雪に閉ざされ、その静謐な空気は、京の雅やかな賑わいとは、まるで異なるものだった。輿から降り立った千代の前に広がる武田の庭は、信虎の命で整えられた枯山水の庭園。京の庭が、色とりどりの花と緑で「命」を表現するのに対し、武田の庭は、白砂と岩で「永遠」を表現しているかのようだった。
千代は、その庭を眺め、背筋に冷たいものが走るのを感じた。この庭は、美しい。しかし、その美しさの奥に、計算し尽くされた冷徹な「理」が潜んでいるのを感じたのだ。都の文化は、人の心を潤すためのもの。しかし、信虎の治める甲斐では、その文化が「国の設計図」の一部として利用されているのではないか。千代は、自身の故郷の文化が、単なる「道具」として扱われることへの、わずかな、しかし静かな反発を覚えた。
奥で開かれる茶会は、千代の違和感をさらに強めた。茶室は、京の雅を模しているものの、そこに集う女性たちの会話は、単なる和歌や香道の嗜みにとどまらない。彼女たちは、茶を点て、静かに香を聞きながら、他国の情勢や、武田の経済戦略について語り合っている。千代は、言葉を失った。この茶会は、外交の場であり、情報収集の中枢なのだ。彼女が学んできた雅な世界は、この甲斐の奥では、すべて「政(まつりごと)」に繋がっていた。美しく整えられた庭が、実は緻密な計算で造られているように、奥の文化もまた、信虎の壮大な戦略のために機能している。千代の心は、都の雅と、甲斐の冷徹な理の狭間で、激しく揺れ動いた。
千代を迎え入れたのは、大井夫人を筆頭に、家康の姉妹・於愛(おあい)や信長の妹、そして奥の女中たちだった。彼女たちは、皆、歓迎の笑顔を浮かべていたが、その瞳の奥には、千代を値踏みし、その器量を探ろうとする鋭い光が宿っていた。
「まあ、都の姫君は、やはりお美しいこと」。於愛がにこやかに言うが、その視線は、千代の着物や帯の結び方、そして髪飾りを細かく観察している。千代は、その視線に、わずかな緊張感を覚えた。この奥は、単なる女性たちの社交場ではない。皆、信虎の理念を理解し、その一端を担う、したたかな「将」なのだ。
「都の香がするわね」。奥女中のひとりが、わざとらしい声でささやいた。「ええ、だが香は風に散りやすいもの」。別の女中が、笑いながら応える。その言葉の裏には、「都の文化は、この甲斐では通用しない」という、静かな棘が隠されていた。千代は、その言葉に、わずかな孤立感を覚えた。この甲斐の奥では、笑顔の裏に、見えざる探り合いが存在する。
夜、自室に戻った千代は、故郷から持ってきた和歌集を手に取った。そこには、都で詠まれた、愛や別れ、自然の美しさを歌った歌が綴られている。千代は、その歌を読みながら、涙がこぼれるのを止められなかった。京では、この和歌を、四季の移ろいを慈しみ、心の機微を分かち合うために詠んだ。祇園祭では、山鉾(やまぼこ)が夜の都を練り歩き、夜空を灯籠が照らす中で、人々は皆、和歌を口ずさみ、歌声と笛の音が夜空に響き渡った。しかし、この甲斐では、この歌も、ただの「教養」として、外交の場で相手の心を測る「道具」として扱われるのだろうか。
千代の心は、故郷を失った悲しみと、信虎の理念への戸惑い、そして、この異質な世界を理解したいという好奇心で、複雑に渦巻いていた。彼女の心の中では、「都の雅」という一点が、大きく膨らみ、武田の「理」という一点とぶつかり、その衝突から、「奥を外交中枢として理解し、積極的に関与する」という新たな「線」が生まれようとしていた。
千代は、自らの内に秘めた決意を、静かに独白する。「もし私が沈黙して従えば、私はこの庭の石のように、永遠に動かぬ存在となるだろう。もし私が声を上げれば、この白砂に自らの足跡を刻むことができるはず……」。その決意が、千代の心に、静かな、しかし確かな光を灯した。彼女は、この甲斐の奥を生き抜き、都の文化を、ただの「道具」ではなく、武田の天下を潤す「血脈」として昇華させることを誓った。
そして、千代は、夜空を見上げ、独り言のようにつぶやいた。「もし、この甲斐で歌を詠めば、どうなるだろう。風は砂を消し、石は苔に覆われる。だが、声は人に残る。いずれ、和歌を用いて、この奥の女性たちの心を和らげ、諸侯や夫人の心を繋ぐこともあるだろう」。それは、千代が、単なる政略の駒ではなく、自らの意志で、この甲斐の奥を生き抜くことを決意する、静かなる自覚の芽生えだった。
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