第6話 泰平の礎、未来への約束

永禄十年(一五六七年)の冬。武田信虎の死後、甲府の町は、深い悲しみに包まれながらも、変わらぬ穏やかさに満ちていた。寺の鐘が、信虎の死を告げるように、重々しい音を響かせ、その音は、町の隅々まで届き、人々の胸に深く響いた。


冬の甲府は、静謐な美しさに覆われていた。屋根には深く雪が積もり、雪の重みで折れかけた竹が、時折、乾いた音を立てる。街道の轍(わだち)は、凍てついた雪に固く刻まれ、その上を、夜回りをする男たちの足音が、カツン、カツン、と規則正しく響く。吐く息は白く、その白い息が、夜の闇に溶けていく。町の入り口では、焚かれた篝火(かがりび)が、人々の顔を赤く照らし、その炎の揺らめきが、信虎の死を悼む人々の悲しみを映し出しているかのようだった。


「虎さまが……」。市場では、商人が軒先に張った縄を外し、皆、口々に信虎の功績を称え合った。「飢えることも、病に倒れることもなくなった。この世は、虎さまが築いてくださったのだ」。魚売りは鱗を落とす手を止め、塩の山に布をかけた。「この世に、こんなにありがたい殿様が、おられたであろうか」。農村では、年貢の取り立てに顔を出す信虎の慈愛を、農民たちが語り合った。古びた太鼓が寺へ運ばれ、路地の猫さえ足音をやわらげる。「殿様が……」と老人が言いかけ、言葉は白い息に溶けた。彼らにとって、信虎はもはや「甲斐の虎」ではなく、「慈父」であった。


信虎の死後も、信長、家康、謙信、両兵衛といった英傑たちは、武田政庁の中枢で、才を発揮し続けた。信長は京の奉行として、都を復興させ、その革新的な手腕は、政(まつりごと)でも光る。家康は東海財務総監として、経済を支え、その堅実な器量は、信虎が描いた「堅牢な国」の具現者となっていた。謙信は関東の軍事監察官として、北を守り、その武威は平和を保つ抑止力となる。両兵衛は、信虎の右腕、左腕として、戦略を円滑に動かす「知の頭脳」として采配を振るった。


信玄の心には、父の死後も深い葛藤が渦巻いていた。夜、自室で、彼は独白を繰り返す。「父は武を抑えよと言った。しかし、この世には、理屈では割り切れない、人の衝動や狂気がある。紅焔衆(こうえんしゅう)のような火の信仰者たちは、父の理念だけでは制せない」。信玄は、机の上の地図をじっと見つめた。「もし父が十年生きていたなら、この泰平は揺るがなかっただろう。しかし、もし義を優先したら、この泰平は崩れるかもしれない。紅焔衆のような火の信仰者たちが、もし広まったら、父の理念だけでは制せない」。信玄は、机の上の地図をじっと見つめた。地図の白地は可能性であり、同時に空虚だ。父が塗った色は海の青のように落ち着き、私の手にある色は血の赤に近い。どちらも過ぎれば海は溢れ、血は濁る。「色を混ぜよ」――誰も言っていない。だが、屏風の虎がそう命じた気がした。信玄の瞳は、父の偉大さと、自らの内なる衝動との間で、激しく揺れ動いていた。


家康は、信虎の死後、自室に戻り、静かに考えを巡らせていた。「この死をどう三河に持ち帰るか」。彼は、この悲劇を、三河の家臣たちにどう伝えるべきか、その言葉を模索した。そして、「いずれ天下にどう活かすか」。信虎の死は、一つの時代の終わりを意味する。しかし、この死を無駄にはできない。信虎が築いた泰平の世を、自分がどう守り、そしてさらに広げていくか。彼の思考は、未来を見据えていた。


短期計画(三河への回帰と安定)

まず三河で税の刻みを細くし、飢饉の谷に水を回す用水を増やす。この役目は石川数正に任せ、財政の安定を図る。


中期計画(信虎の理念の具現化)

虎判金に倣い信用を見える化し、偽りの札を厳罰ではなく信用の減点で抑える。これは酒井忠次に命じ、三河の経済を武田式に刷新させる。


長期構想(武の理への奉仕)

兵は槍を研ぎつつ、道を直し、橋を守る――武が理に奉仕する手順を日課に落とす。これは本多忠勝に任せ、武力を守りの力として再定義する。「泰平は儀式ではない。手順である」――そう記し、筆を置いた。


家康は、ある夜、信玄を訪ねた。信玄は、父の遺した書を読み込んでいた。二人の間には、静かな空気が流れていた。


家康が口火を切る。「殿(しんげん)の御父上のお心、この身を以て、必ずや三河に、そして天下に、届けまする」。


信玄はゆっくりと顔を上げた。「…うむ。そなたの覚悟、しかと受け取った。しかし、父の理念は、まことに民に届くのか。武による支配を望む家臣たちは、そなたの行いをどう見るか」。


家康は、信玄の視線を真っ直ぐに見つめ、答えた。「最初は戸惑うでしょう。しかし、飢えぬこと、病に苦しまぬこと、それが彼らの心を動かすと信じておりまする。武力による一時の勝利よりも、持続する泰平こそが、真の力であると」。


信玄は、家康の言葉にわずかに眉をひそめた。「…しかし、この世には理不尽な火種がある。それをどう鎮める。父は武を抑えよと言ったが、私は、武を力として用いることも、時に必要ではないかと考えておる」。


「武は理を守るための最後の盾。理は、武を正しき方向へ導くための光。二つが融和した時、真の泰平が訪れます」。家康は、信虎から学んだ哲学を、信玄に伝えた。


信玄は、その言葉に深く頷いた。「そなたの道は、父の理念を継ぎつつも、そなた自身の道である。さあ、そなたの道を進め」。信玄はそう言って、家康の肩に手を置いた。


それ以上、言葉はいらなかった。二人の沈黙が、遺言の続きになった。二人の間には、信虎が築いた泰平の世を、いかに守り、育んでいくかという、強い使命感が流れていた。

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