第5話 師の死、そして継承

永禄十年(一五六七年)の秋。甲斐の国は、黄金色の稲穂が風に揺れ、収穫の喜びと平和に満ちていた。しかし、その穏やかな光景とは対照的に、武田信虎の命の灯火は、静かに、しかし確実に消えようとしていた。信虎の病床は、深い夜の闇に包まれていた。


廊下は長く、夜気は薄く冷たい。張られた綱の上を歩くように、家康は足の裏で畳の目を数えた。侍女が運ぶ湯桶は表面だけ白く湯気を立て、その下に沈黙の影を映している。風が障子紙をやさしく押し、紙はたわみ、すぐに平らへ戻る――その呼吸は、誰かの最期をまねるかのようだ。


部屋には、伽羅(きゃら)の香が微かに漂い、その香りは、信虎が築いた泰平の世の穏やかさを象徴しているかのようだった。しかし、その香りに混じり、薬草の苦い匂いと、死がもたらす冷たさが、徐々に部屋を満たしていく。香の烟は糸のように天井へのぼり、梁の節でほどけて消える。燭台の炎が、ゆらゆらと揺れ、壁に影が歪み、その影が畳の目を這い、やがて信虎の頬の皺にかすかな光を落とした。炎がわずかに伸びたとき、皺の谷が浅くなり、縮んだとき、谷は深くなる――顔に映る地形図が、呼吸ごとに更新される。屏風には、金泥の毛並みに月の欠片を抱いた虎が描かれ、目だけが生きている。


枕元には、二人の若き将が座している。嫡男である武田信玄(晴信)と、信虎がその「器」として育てた徳川家康だ。障子の隙間から、秋の風がそっと吹き込み、二人の肌を撫でる。その風は、外の平和を伝える一方、信虎の命の終焉を告げているかのようだった。信玄は、父の顔を見つめ、ただ静かに座っていた。彼の心には、父の死という「子」としての悲しみという一点が、大きく膨らみ、武田の未来を担う「将」としての重責と複雑に連鎖反応を起こしていた。この悲劇が、彼をさらに深く、そして強い「線」へと分裂させていく。信玄は、無意識に、手のひらで畳の目を強く握りしめた。


たったひとつの記憶が、不意に胸を打つ。まだ幼いころ、冬の庭で雪玉を投げ合い、父はわざと負けた。その掌が初陣の日には鋼のように硬く、褒め言葉は少なく、背だけを押した。いま、その掌がどこへ消えるのか――子は泣きたい。将は泣けない。両者が喉もとでせめぎ合う。


信虎は、かすれる声で信玄に最後の言葉を託す。「戦なき世を、法と心で治めよ。わしの夢は、そなたに託す……」。それは、父から子へ、天下の哲学が継承される瞬間であった。信玄は、父の言葉を深く胸に刻み、静かに頷いた。その瞳には、父への敬意と、来るべき己の時代への決意が宿っていた。


次に、信虎は家康へと視線を向けた。その目は、言葉を多く語らずとも、家康がその器として、いかに成長したかを認める光を宿していた。家康は、その視線を受け止め、心に深く刻み込む。彼の脳内では、思考が暴走していた。「もし信虎がなお健在なら、この泰平は揺るがぬ。もし信虎が、この死の直前に新たな策を授けるとしたら?もし、この病床に伏しているのが、父・広忠だったとしたら、自分は何をすべきだったのだろうか」。この仮想の未来が、彼の心に複雑な感情の渦を巻き起こす。信虎の死という一点が、「師を失う悲しみ」と「自己の存在意義」という二つの異なる「線」へと分裂していく。家康は、その複雑な感情の渦に、静かに涙を流した。その涙は、師への感謝、父への想い、そして、揺るぎない忠誠を誓う涙だった。


一息が細く、さらに細くなる。松風のような釜の音が、遠くの雪崩のように遅れて届く。蠟の滴が一つ落ちる。落ちる。まだ落ちない。落ちた――その刹那、二人は同時に顔を上げた。信虎が静かに息を引き取ると、部屋に満ちていた生命の香りが、一瞬にして冷たい空気へと変わった。その静寂は、一つの時代の終焉を告げ、新たな時代の始まりを告げていた。


信虎の死後、甲府の町は、深い悲しみに包まれた。井戸端では桶を抱えた女が口をつぐみ、子は声を潜める遊びを覚える。魚売りは鱗を落とす手を止め、塩の山に布をかけた。古びた太鼓が寺へ運ばれ、路地の猫さえ足音をやわらげる。「虎さまは……」と老人が言いかけ、言葉は白い息に溶けた。


葬儀の日、武田家の家臣団は皆、深い喪に服し、その顔には悲しみと、未来への不安が入り混じっていた。鐘は九度。響きは山裾にたまり、谷へと落ちる。黒い旗の縁に金糸の縫いが走り、風に煽られては、また静まる。行列の靴が石畳で一定の拍を刻み、泣き声は拍のあいだを流れる水のように掬われてはこぼれる。老臣は口を結び、頬の斑点が涙の跡で濃く見える。若武者は拳を握り、爪が掌に刺さるほどに力をこめる。祈祷僧は数珠を繰る指を速め、珠の触れ合いが細雨のように絶え間なく続く。


信玄の心には、父の死後も深い葛藤が渦巻いていた。夜、自室で、彼は独白を繰り返す。「父は武を抑えよと言った。しかし、この世には、理屈では割り切れない、人の衝動や狂気がある。紅焔衆(こうえんしゅう)のような火の信仰者たちは、父の理念だけでは制せない。武田の家臣は、武による勝利を望む。彼らの期待に応え、武田の伝統を守るには、やはり己の武を研ぎ澄ますしかないのではないか」。信玄は、机の上の地図をじっと見つめた。地図の白地は可能性であり、同時に空虚だ。父が塗った色は海の青のように落ち着き、私の手にある色は血の赤に近い。どちらも過ぎれば海は溢れ、血は濁る。「色を混ぜよ」――誰も言っていない。だが、屏風の虎がそう命じた気がした。


家康は、信虎の死後、自室に戻り、静かに考えを巡らせていた。「この死をどう三河に持ち帰るか」。彼は、この悲劇を、三河の家臣たちにどう伝えるべきか、その言葉を模索した。そして、「いずれ天下にどう活かすか」。信虎の死は、一つの時代の終わりを意味する。しかし、この死を無駄にはできない。信虎が築いた泰平の世を、自分がどう守り、そしてさらに広げていくか。彼の思考は、未来を見据えていた。


もし信虎公が五年生きたなら――泰平は仕上がった。もしこの座に父・広忠があれば――私は器ではなく、ただの子として泣いた。もし私がここで旗を掲げれば――器は器ではなくなる。器が内容を求めて吠えた瞬間に、器は割れる。


まず三河で税の刻みを細くし、飢饉の谷に水を回す用水を増やす。虎判金に倣い信用を見える化し、偽りの札を厳罰ではなく信用の減点で抑える。兵は槍を研ぎつつ、道を直し、橋を守る――武が理に奉仕する手順を日課に落とす。「泰平は儀式ではない。手順である」――そう記し、筆を置いた。


「必ず、届かせます」家康の低い声に、信玄は短く頷いた。それ以上、言葉はいらなかった。二人の沈黙が、遺言の続きになった。

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