第3話 南海の波、異文化の難題

永禄九年(一五六六年)の夏、駿河の清水港は、家康の知るどの湊とも異なる混沌とした活気に満ちていた。信虎の命により、南蛮との交易を任された家康は、その巨大な波の前に立っていた。肌を刺すような潮風が運ぶのは、生臭い魚の匂いだけではない。東南アジアの鬱蒼とした森の湿気と、そこに咲く夜の花のような、甘く、しかしどこか神経を逆撫でするような香料の香りが混ざり合い、鼻腔の奥にへばりつく。その香りは、武田の堅固な秩序にはない、未知の粘り気を家康の心にまとわりつかせるようだった。


活気ある人々の声は、海から帰った船大工の金槌が木材を叩く乾いた音、競り人の怒鳴り声、魚を捌く包丁がまな板を叩く湿った音、そして遠くの寺から微かに響く鐘の音と、複雑なハーモニーを奏でていた。子供たちが楽しそうに真似る異国の言葉の響きは、まるで異なる周波数の波のように、聞き慣れた日本語の海にいくつも小さな波紋を描いては消える。停泊する南蛮船の巨大な船体が波に揺られ、そのたびにギシギシと鈍いきしむ音が遠くから聞こえてくる。分厚い帆の影が、町の土壁や瓦屋根に巨大な黒いシミを作り、ゆっくりと滑るように動いていく。その圧倒的な存在感は、武田の誇る騎馬軍団の威容にも劣らないように思えた。


しかし、この異文化との交流は、単なる富の流入だけではなかった。それは、家康が信虎から学んだ合理的な経済理論、武田の堅固な秩序に対する、根本的な問いかけだった。複雑に入り組んだ流通網の構築、言葉の壁を超えた南蛮商人の商慣習、そして彼らが要求する前例のない新たな税制への対応。これらは、家康が持つ「堅牢な器」としての能力を試すには十分すぎる難題だった。彼の脳内では、駿河館の書斎で信虎が説いた、完璧に論理的な経済の「点」と「線」が、目の前の異文化という予測不能な「面」と激しくぶつかり合っていた。紙の上に並んだ数字は寸分狂わず完璧なのに、現実の交渉は、まるで予測不能な嵐に翻弄される船のように、揺れ動く。


その日、家康は、豪快な笑みを浮かべるポルトガル商人の強引な要求に直面し、思わず眉をひそめた。男の衣は、香料とワインの香りが染みついており、鮮やかな色の鳥の羽根が異国風の帽子を飾っている。彼は家康の返答を待たず、まるで魔法でも見せるかのように、手のひらで金貨を弄び、軽快な音を立てていた。その底知れぬ笑みと、計算では測れぬような荒い身振り手振りに、家康の心には僅かな動揺が走る。


「……武田が、もしこの南蛮の交易を独占したらどうなる?」

家康の思考は、その男の笑い声に誘われるように暴走を始めた。

「武田は天下に比類なき富を得て、他の大名を圧倒できるだろう。だが、もし南蛮に頼り切り、その要求をすべて呑んでしまえば…武田の刀は鈍り、規律は弛み、秩序は破壊されるのではないか?」

富と引き換えに、武田の根幹が揺らぐ恐怖。しかし同時に、

「いや、逆にこの富は、武田の統一事業を加速させる。弱体化した大名から、理不尽な抵抗を排除し、平和へと最短距離でたどり着けるのではないか…?」

異文化の力が武田の秩序を壊す恐怖と、富をもたらすことで逆に天下泰平への道を切り拓くかもしれないという期待。二つの相反する未来が、家康の脳裏で激しく衝突する。


家康は、目の前の商人が弄ぶ金貨の音を、まるで遠い異国の波の音のように聞きながら、静かに口を開いた。彼の瞳は、もはや目の前の男ではなく、はるか遠い未来の武田の姿を見据えているようだった。「あなたの言う富は、我が父、信虎公が築いた武田の信用があって初めて成り立つもの。その信用は、武田の民の汗と、血と、そして何よりも秩序によって支えられている」と、金貨ではなく、帳簿を指差して応じた。家康の言葉は、感情的な応酬ではなく、あくまで論理と事実に基づいていた。しかし、その内には、合理だけでは割り切れない、人間の感情や不確実性という「点」が大きく膨らんでいた。


その夜、家康は駿河の宿で、蝋燭の炎を揺らしながら帳簿と睨み合っていた。紙の向こうに、亡き父・広忠の穏やかな面影と、信虎の厳格な理の顔が交互に浮かぶ。

「父の教えだけでは測り切れぬものもある…」

家康は、かすかにそう呟いた。合理的な数字は嘘をつかない。しかし、その数字を動かすのは人間の欲望と感情だ。そして、異国の商人は、その欲望の波を巧みに操る。

「理と感情、どちらもこの器に収めねばならぬ」

家康の額には、いつしか苦悩からくる汗が滲んでいた。しかし、その瞳には、異文化という新たな試練を前にしても揺るぎない、次なる一歩への静かな決意の光が宿っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る