第2話 北の龍、西の虎
信虎の命により、京の武田政庁に集められたのは、信長、家康、そして関東管領補佐となった謙信だった。三者が集うのは、将軍御所を模して作られたという、武田館の政庁奥。磨き上げられた黒い柱が天高く伸び、漆塗りの床板は、家康の顔を鏡のように映し出す。廊下を行き交う武田の家臣たちは、皆、静かに、しかし澱みなく自らの役目を果たしていた。その衣擦れの音、微かな咳払い。それらが政庁の重く澄んだ空気に吸い込まれていく。庭には、苔の生した石灯籠と、手入れの行き届いた白砂が広がり、その静謐な空気に、京の雅と甲斐の厳格さが同居している。頭上では、風に揺らぐ武田の旗が、静かに、しかし確固たる意志をはためかせていた。冬の澄んだ空から差し込む光は、庭の白砂を照らし、反射して政庁の床板を淡く染め上げていた。
大広間に通された家康は、その静謐な空気に、背筋を正す。一歩足を踏み出すたび、硬質な床板が冷気を足の裏からじんわりと伝えてきた。それは、この武田という巨大な「理」の構造が、どれほど強固で冷徹なものかを示すかのようだった。家康は、無意識に呼吸を浅くし、指先ににじむ汗を、静かに袴の上で拭った。彼の視線の先には、すでに座している二つの影があった。一人は、奇抜な装束を身につけた、燃え盛る火のような男。もう一人は、静かに、しかし深い水面のような瞳を持つ、龍のような男。
信長は京の奉行として都の復興に尽力していたが、その心には常に「武」への衝動がくすぶっていた。家康は、信虎の館で、信長と謙信という二つの異なる「点」が、信虎という巨大な「理」の器に収まっている様を目の当たりにする。
「戦は勝てば良いのではない。滅ぼさず、怯えさせず、仕留めずして従わせる」
信虎の言葉が脳裏にこだまする。信長は、信虎の理念を語りながらも、その瞳の奥には、今川を討ち取った桶狭間の戦の記憶が、燃え盛る火花のように揺れていた。家康は、信長が杯をわざと乱暴に置き、唇の端を歪めるのを見て、その内に秘めた武への渇望を感じ取った。一方、謙信は、信虎の「理」による統治に感銘を受けつつも、その合理的すぎる采配に、武士としての「義」との間に違和感を覚えていた。彼は静かに座布団の端を指で何度も整え、深い呼吸を整える。その動作一つ一つに、彼の厳格なまでの義の心が宿っているかのようだった。家康は、謙信が武士の「義」について語る際、無意識に刀の柄に触れるのを見て、その微かな葛藤を感じ取った。
家康は、この二人の英傑の間に立ち、信虎の「理」が、いかに彼らの「情」と「衝動」を制御しているかを静かに観察した。それは、父・広忠を「影」として生かし、自分を「器」として育てた信虎の哲学の、真の姿だった。
「もし理がなく、火だけなら天下はどうなる?」
家康の思考は、仮想の未来へと暴走していく。信長という火が、もし信虎の「理」という秩序に縛られなければ、その炎はすべてを焼き尽くすだろう。京の都は復興どころか、再び灰燼に帰す。民は飢え、血が流れ、天下は混沌に陥る。それは、父が影として生きた人生を、すべて無意味にするような、悲惨な未来だった。
「義だけがあれば、正しさゆえに血が溢れる」
次に、家康は謙信という「龍」を仮想する。謙信の持つ純粋な「義」の心は、彼を正義の戦へと駆り立てるだろう。しかし、その正義の剣が、戦の連鎖を止められる保証はない。正しさのために、また別の正しさを持つ者と戦う。その堂々巡りの果てに、民は苦しみ、多くの血が流れる。それは、信虎の「戦なき天下」とは、あまりにもかけ離れた未来だった。
家康は、信長と謙信の間に立ちながら、自問自答を繰り返した。「では器は、理と義と火を受け止めねばならぬのか?」信虎の「理」は、火を消すことなく、創造の力へと導く。龍を縛ることなく、民を守る武威として機能させる。その二つの相反する力を、すべて包み込み、調和させるための存在。それが、信虎が自分に求めている「器」なのだと、家康は悟った。
夜、自室に戻った家康は、蝋燭の灯りの下で、改めて信虎の言葉を思い返していた。「理は、武を正しき方向へ導くための光」だと。
「この世には、理屈では割り切れない『情』がある。しかし、その『情』が、この世を乱す火種ともなる」
家康は、信長と謙信という二つの異なる「点」が、信虎の「理」という秩序に収まっていることに、感嘆する。信長という「火」が、信虎の「理」という「器」の中で、破壊ではなく創造の力へと昇華されていく。謙信という「龍」が、信虎の「理」という「掌」の中で,民を守る武威として機能している。
家康は、自身の器量が、彼らを支えるための「堅牢な器」へと成長していくことを自覚した。それは、父から託された愛と、信虎から授けられた理念、そして、この泰平の世を末永く守り抜くという、揺るぎない決意の光だった。
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