復学 ~80年の空白~
数金都夢(Hugo)Kirara3500
復学
ある日私は病室のベッドのようなところで目覚めた。そこにいた「看護師」に「お帰りなさい」と言われた。私は彼女に助けられながら壁の手すりに手をかけて外に向かって歩こうとした。そのとき見えた枕からは一本のケーブルが下に向かって伸びていた。そしてなんとか隣の部屋に行って歩行の練習をした。それが終わった後、そこにある机の上にあったものを掴む練習をした。鉛筆、ボールペン、スプーン、ボール、本、ノート、新聞、そして何個かある見たことのない謎の物体。その新聞ももうほそぼそと刷られているだけで見たことがないという人も少なくないと、私を指導していた「看護師」に言われた。それを開くと上の端に「二〇五五年十月三日」と書かれていた。
「看護師」に「なにか話してみて」と言われて、初めて声を出したとき、その声があまりに綺麗すぎて戸惑った。自分の声とはとても思えなかった。その「看護師」だけど、癖で「看護婦」と口を滑らせてしまうと、「その言葉を使っちゃ駄目よ。『看護師』と言いなさい」と口を酸っぱくして言われた。そんな日々の後、何日かかかって体が不自由なく動かせるようになった。そして長い座学の時間が始まった。
まず今の世の中の日常生活をざっと数時間に渡って記録したビデオを見せられた。それは額縁がまるでテレビのようになっているようなものに映し出されていた。それはベッドから起き上がるところから始まった。朝食のシーンになって、普通にご飯を食べている人と身体に壁のコンセントから伸びているケーブルのようなものを差している人も写っている。きっと将来の私なのでしょう。カメラはその家の近くのコンビニと呼ばれている小さな店の中に入った。そこに並んでいたのはプラスチックの瓶に入っている様々なドリンク。瓶コーラなんてどこにもない。缶ジュースもあったけど、そのふたは押し込んで開くようになっていて外れない。そして、カメラは「家」の近くにあるという駅に着いた。しかし、その入口にいるはずの切符を扱う駅員はいなかった。そのかわりに人々はそこにずらりと並んだ機械に手帳のようなものを当ててドアを開けて通り過ぎていった。その電車の中では移動するたびに次の駅が代わる代わる表示されるようになっていてそれを見た私は驚いた。そして学校に着くと、壁に黒板の代わりの画像が映されて、先生が何かを書くことはなかった。
夜、カメラは家に戻る。リビングの壁際にはその「テレビとして使われている額縁」が置かれていた。そして子供部屋に移ると、謎だった物体を使って宿題を解いているシーンだった。二つ折りのプラスチックの板のようなものを開くと片側には画像が映り、もう片方には文字が書かれたボタンがたくさんあった。
そして次の日からは「この時代」の家を丸ごと再現したスタジオで生活の訓練が始まった。最初にリビング、そしてキッチンに行きました。それらは意外に変化はなかったので合わせて一日程度で済みました。そしていよいよ、「この時代」に「生きる」ために必ず必要になる「ノートパソコン」と呼ばれる「二つ折りのプラスチックの板のようなもの」や「スマートフォン」と呼ばれる「手帳のようなもの」の使い方講習でした。
寝る直前に鏡の前に立って自分の姿を見ていると、あの頃の姿を忠実に受け継いでいた。希望に満ちていたはずのあの頃。それがなぜ……
そういった訓練を二ヶ月くらい済ませてから妹・
私達三人は京都府宇治市にある愛理さんの家に向かうため、私が「生まれた」工場を出て駅に向かった。私の体の故郷、濃尾ヒューマノテック大垣工場。大垣駅から徒歩十数分のところにある、第二次世界大戦の直後に建った築百年を超える古い工場。もともとは紡績工場だったらしいけど今は最新のハイテク機器で一新されていた。
私達は電車を乗り継いで京都駅に着いた。うらぶれていて小汚いディーゼルカーが一時間に一本来るかどうかでほとんど乗ったことがなかった奈良線のホームは人で溢れかえっていて、電車の中もすし詰め状態だった。そして乗客の多くは外国人で、私はその変わりぶりに、驚きを通り越してただ顔の「筋肉」が固まったまま車内を見渡した。その外国人たちの多くは稲荷駅で降りて、電車内はがらんとした。私は何か用があるときはほとんど待たずに乗れた京阪宇治線に乗っていたので、愛理さんが「奈良線に乗る」と言われたときは耳を疑いました。
私達が愛理さんの家に着いた後、まず一つの部屋に通された。なんとか関西で仕事が見つかって東京に行かなくて済んだという結生ちゃんが「そこでずっと過ごして。充電枕とかもちゃんとあって、それを使えば『お腹をすかせる』こともないから」と言ってくれた。そしてその私に割り当てられた部屋のベッドで横になった。そして過去のことを薄っすらと思い出した。私はあの日、大学近くの下宿で泥棒と鉢合わせた。そして、私の中から何かが床に流れ出した。その後の警察署で面会したときのお母さんの泣きじゃくる姿を見ても何も話せなかったことがもう悲しくて悔しかった。
次の日、愛理さんに案内されて、私達は夏子のいる老人ホームの玄関をくぐった。その館内は静かで、廊下には甘いお茶の匂いが漂っていた。受付を済ませてしばらく歩くと、ひとつの部屋の前で立ち止まった。
「お母さんは、あなたの体を注文してから一日千秋の思いで会いたがってたんだって。私は、『お母さんもアンドロイドになったら?』って言ってみたけど。それを聞いた後はどうしようかと迷っていて、まだ結論が出ていないみたい」
と、愛理さんはささやくように私に言った。
私は緊張で手のひらに汗をかいたような感覚がした。八十年の空白を抱えたまま、私は妹と向き合うことになるのだ。目の前の扉が開き、私は足を踏み入れた。そこには白髪を後ろに束ね、ベッドに腰掛けている女性がいた。背筋は少し曲がっているけれど、目の奥のきらめきと唇の動かし方は、私の知る夏子のままだった。
「姉さん?」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が震えた。私は思わず駆け寄り、その手を取った。骨ばってしわだらけになっていたけれど、確かに私の妹の手だった。
「夏子……私よ。文子」
彼女の瞳に涙が浮かんだ。
「ほんとに……若いままの姉さん……。私、夢でも見てるのかしら」
「夢じゃないよ。ようやく会えたの」
私は抱きしめようとしたが、体の大きさも体力も、もう昔とは違っていた。そっと背中に手を添えると、夏子は小さな子どものように私に寄りかかった。
「八十年も待たされたんだから、私もずいぶんおばあちゃんになっちゃったわ」
自嘲気味に言った夏子に、私は思わず口をついて出た。
「でも、やっぱり夏子の笑い方は昔のまま」
二人で声を上げて笑った。けれど笑いながら、涙がこぼれ落ちた。
「ごめんね、ずっとそばにいてあげられなくて」
「ううん。今こうして会えたんだもの、それでいいの」
そのあと、愛理さんと結生ちゃんが席を外してくれた。部屋には私と夏子だけが残され、静かに時間が流れていった。言葉は少なくても、互いの手の温もりが、八十年分の空白を埋めてくれるようだった。
その後、私達は車に乗ってあるところに行くと言われた。その車の窓がボタンを押すだけでウイーンと開くのにもまた驚いた。車は山の奥に進んで、やがて止まった。私達はそこから少し歩くと開けた場所があって、そこにはいくつかの石碑があった。私は愛理さんに指を差されたその一つの前に立った。そしてそこに刻まれた文字をぼんやりと眺めた。
「麗顔妙笑信女・俗名 須藤文子・昭和五十年十月二十一日 没・享年 二十一才」
そして数秒後、私はその文字に少し恥ずかしくなって真っ赤になって顔を背けた。お坊さんの気持ちは十分わかるんだけどねぇ……。ここにいた頃の思い出といえば、地下の暗い小部屋でずっと横になっていた。もう飽きた。退屈だった。暇だった。で終わってしまう。よくこんなところで八十年も過ごしたものだと自分でも思う。帰り際、私はその石碑をそっと撫でた。
更に時間が過ぎて、手続きが済んだということで私は学校に行った。私にとっての空白期間だった八十年。その間に一部の建物は建て替えられていたけど、見覚えのある建物もあった。「復学」後最初の科目は「日常生活のデジタルメディア論」だった。予習はそれなりにしていたものの、理解できる自信はまったくなかった。でも先生のわかりやすい説明でだんだんと分かっていった。
大学生活が始まってからも、私は折に触れて夏子のもとを訪ねた。授業が午前で終わる日には、電車を乗り継いで老人ホームに向かう。校門を出ると、学生たちはスマートフォンを片手ににぎやかに歩いている。その姿にまだ少し戸惑いながらも、私は別の目的地を胸に秘めていた。
夏子の部屋に入ると、彼女はいつも窓辺に腰掛けて外を眺めていた。
「今日も来てくれたのね、姉さん」
「ええ。ちゃんと授業も出たから安心して」
私はその日のノートパソコンの使い方の課題を見せて説明する。夏子は首をかしげながらも、楽しそうに聞いていた。
「黒板もチョークもないなんて、不思議な時代ね」
「そうなの。でも先生の声は変わらないわ。わかりやすくて、ありがたいの」
そう言うと、夏子はゆっくり笑った。
「昔から、姉さんは新しいことを学ぶのが好きだった。今も変わらないのね」
別の日には、愛理さんと結生ちゃんも一緒に部屋を囲み、四人でテーブルを囲んだ。夏子が昔話を始めると、私は記憶の糸を手繰るように耳を傾けた。
「小さい頃、二人で宇治川の土手や中洲を走ったの、覚えてる?」
「もちろん。転んで泥だらけになった私を、あなたが引っ張ってくれたのよね」
二人で語り合ううちに、過去と現在の断絶は少しずつ和らいでいった。
帰り際、夏子はいつも私の手を強く握った。
「姉さんがこうして来てくれるとね、また生きる力が湧いてくるの」
「私も同じよ、夏子。あなたがいるから、この新しい世界で頑張れるの」
八十年の空白を隔てても、姉妹の絆は絶えることはなかった。私は復学という「新しい日常」を歩みながら、その一方で夏子と「昔から続く日常」を確かめ合っていた。
復学 ~80年の空白~ 数金都夢(Hugo)Kirara3500 @kirara3500
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