第5話

 11月初めのある日、午後2時。


 不破がスタッフルームの扉を開けると、


「お疲れ様です」

 二人の声が重なった。


 そのうちの一人、及川は――予想に反して微笑んでいた。


 思わず足が止まる。肩がぞわりとし、胸は熱くなる。


「……お、お疲れ」

 遅れて声を返すと、及川はもうスマホに目を落としていた。


 指を空中で揺らしては、画面をなぞっている。その横顔は、まだ微かに微笑みを含んでいる。


(……誰だ?)


 喉の奥に、重い沈黙が沈む。

 デスクに腰を下ろし弁当を広げるが、視界の端から及川が離れない。


 ふいに目を上げ、すぐに柔らかな顔でスマホに視線を落とし、時折くすっと笑う。


 箸を持つ不破の手は、気づけば止まりかけていた。


 胸の奥がざわつく。

 普段なら見せない顔だ。少なくともスタッフ相手に向けたところは見たことがない。――誰に向けている?


 及川の親指が小さく動き、すぐにまた画面が光る。

 そのたびに浮かぶ表情は、知らない誰かに見せるものだった。


 ❋❋❋


 一日の業務が終わる。不破は機械の点検をしていた。

 すると――


「すみません、お先に失礼します」


 及川の声が背中を通り過ぎる。

 振り返ると、彼女は頭を下げながら足早に出ていく。

 いつもと違って、今日の足取りはやけに軽い。


「珍しいね。及川さん……デートだったりして」

「今日の昼もなんか嬉しそうにスマホ触ってたしな」


 スタッフたちの浮ついた声が耳に入る。


「看護の綾瀬君じゃない?なんか最近よく一緒にいるの見るし」


 不破は唾を飲み込む。体にずっしりと何かがのしかかる。


「あぁ、綾瀬君ね。かわいいよね、なんか、わんこって感じで!」

「わかる!」


 不破は重い口を開く。

「――悪い、鍵閉めるから手早く頼む」


 ❋❋❋


 他に誰もいない更衣室。

 服に着替えた不破はロッカーをゆっくり閉じた。


 長く深い息を吐く。帰ろうとドアの方に身を向けると――


 トントンというノックの音。

 扉が開くと、制服姿の綾瀬が現れる。


「お疲れ様で――」

 綾瀬はそう言いながら視線を上げる。


 不破と目が合うと、表情を引きつらせて

「失礼しました!」とそのまま後退し扉を閉めようとする。


「いや待て、失礼するなよ」

 思わず突っ込んでしまう。


 ゆっくりと扉を開け、綾瀬はそろりと入ってくる。

「お……お疲れ様です」 


「お疲れ様」


 綾瀬は引きつった笑顔で、あからさまに一定の距離を保ちながら不破の傍らを通り過ぎようとする。


 不破は短くため息をつき、声をかける。

「こんな時間に上がりなの、珍しくないか」


 綾瀬の肩がびくっと跳ねた。


「……ちょっとトラブルがあって、それで遅くなっちゃったんです」

「それは大変だったな」


 不破は視線をいったん床に落としてから、綾瀬の目を見据えた。


「この後、誰かと会う予定、あったりするのか?」


 綾瀬は頭を傾け、

「ありませんけど」

 と答える。


「そうか」

 不破が小さく頷き、扉へ向かおうとすると


「――あの、不破さん」


 綾瀬に引き止められる。

 その顔はさっきまでとは違い、まっすぐ不破の視線を捉えている。


「間違ってたらごめんなさいなんですけど、不破さん、及川さんのこと好きなんですか?」


 不破は目を見開く。

 あまりに直球な質問に、言葉が出ない。唾をごくりと飲み込む。


「やっぱり」

 そう言って綾瀬は唇を固く結ぶ。


「何も言ってないだろ」

 やっとのことで言葉を絞り出す。


 しかし綾瀬の顔は変わらない。

「顔に書いてあります」


 不破は思わず視線を外し、歯を食いしばる。

 それでも綾瀬がまっすぐこちらを見ているのが気配でわかる。


「俺、及川さんのことが好きです。負けませんから」

「何を――」

「絶対負けませんから。言いたいのは、それだけです」


 そう綾瀬は言い放ち、足音を響かせ奥のロッカーに向かう。

 

 不破は更衣室を出て立ち止まり、拳を固く握りしめた。


(負けるかよ、誰にも)


 胸の奥で、熱がじわりと揺らめいた。

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