第32話朝と過去

 午前5時45分。いつもよりも早く起床した俺はコーヒーを飲みつつ、長らく着ていなかったランニングウェアを引きずり出す。

 いつも履いているスニーカーではなく、ランニングシューズに履き替えて外に出る。


 外はまだ仄暗い。澄んだ空気が肺を冷やし、少しだけ頭がすっきりとするような、懐かしい感覚。

 朝にランニングをするなんていつぶりだっただろうか。部活をやめてからは久しくしていなかったから、実に二年ぶりだ。


 球技大会までに少しでも動けるようにしておきたい。それが今の俺の原動力。

 向かう先は懐かしのランニングコース。

 マンションから走って数分の所にある公園には、ランニングコースが併設されている。現役の頃はここを良く走ったものだ。


 まだ早い時間だからか、人は少ない。

 同じくランニングウェアを纏った中年の男性や、散歩が日課であろう老人。近所の中学のジャージを纏った学生。そんな中で一際目立つ、声のでかい男が一人。


「あー、ええねんじいちゃん!このぐらいは朝飯前や!……お、蓮人やんけ!」

「千堂……!?」

「なんや、お前もランニングか?意外とやる気やな~」

「お前こそ、ここから家まで遠いだろ。……走ってきたのか?」

「まぁな。サッカーやってたら、このぐらいの距離は余裕や」

(サッカー馬鹿恐ろし……)


 朝から耳が痛くなる声量の千堂と共に走ることに。

 早い千堂のペースに合わせつつ、千堂と話しながら走る。朝にも関わらず、千堂は元気だ。


「いやぁ、もうすぐで試験やな……なんとか乗り切って、みんなで球技大会出れるといいんやけどなぁ」

「お前の頑張り次第だぞ」

「分かっとるわ!朝ぐらい勉強の話せぇへんといてや!」

「話振ったのお前だろ……」

「……それにしても、蓮人がバレーできるなんて以外やったな。タッパはデカいとは思ってたけど……なんかスポーツやってたんか?」

「……まぁ、中学までは。途中でやめたけど」

「なんや、やめたんか?まったくできへんわけでもないやろ?」

「う~ん、なんていうかな……色々と辛い事が重なってさ。もう自分の中の熱量がかき消されちゃったんだよな」


 家族の事。将来への不安。過去への後悔。様々なことが重なり、俺のバレーへの熱は完全に冷めた。

 それまで大好きで、これから先も続けようって思っていたのに、途端に冷めてしまった。夢から覚めたような感覚は尾を引き、未だに戻れずにいる。

 

 少し湿っぽくなってしまったなと千堂の表情を伺うと、らしくない神妙な面持ちだった。まるで悪行をしてしまった自分を律するような、そんな横顔。


「なんか分かるわ。俺も中学はサッカーやっててなぁ、ユースに呼ばれたこともあんねん。地域で見たらうまいほうやったからな。……でも、ユースの中じゃドベや」


 千堂が苦笑いを浮かべながら額の汗を拭った。

 才能の前に挫折。俺も経験したことだ。

 普段の明るい千堂からは想像のできないような沈んだ声色には、彼の葛藤が顕著に現れていたのだろう。


「それまで俺は強いって自負するほどやったけど、こんな強い奴らおんねんって知ってしまったら途端に自信がなくなってなぁ。おまけに、チームの奴らからは天才だのなんだのもてはやされて距離取られるし。もう滅茶苦茶やった」

「……どうやって立ち直ったんだ?」

「ん~さぁな。俺も分からん」

「なんだそれ……」


 今度はらしいアホな回答が返ってきた。かと思えば、今度は真剣な表情で言葉を紡いだ。


「どれだけ絶望して、どれだけ酷い目に遭ってもなぁ、俺サッカー好きやねん」


 それは千堂の心から出た、純粋無垢な言葉だったのだと思う。

 複雑な考えなんて放り捨ててしまう千堂だからこそ辿り着いた、行動の真理。俺が失った熱量を、千堂は自らの意思で守り抜いたのだ。


「どんだけ馬鹿にされてもなぁ、サッカーをしない未来はあんまり考えられへんのよなぁ。どんな酷い目にあっても、言われもない事言われても、結局考えてるのはサッカーのことや。明日はどんな練習しようかとか、あのプレーの時はどうしたらよかったんやろなぁとか。そうやって頑張ってたら、推薦でこの学園にも入れたしな」

「そういえばお前と綺羅はスポーツ推薦だったな……」

「多分、サッカーするのは俺にとって息吸うのと一緒やねん。やってないとダメになってまう。好きなことをやる理由なんて、好き以外にないわ。多分好きって、なにをやっても頭に浮かんでまうことなんやろなぁ」


 好きな理由なんて、好き以外にない。その言葉が俺の心にかかっていた霧を取り払ってくれた。

 何をやっていても頭を過る、如月の姿。こんな卑屈で根性なしの俺を認め、させてくれる存在。


 見えていなかった視界が開けて、少しだけ前を向けたような気がした。


 ……好きな理由なんて、そのぐらいでいいのかもな。


「俺は辛いことも楽しいことも全部ひっくるめてサッカーやと思てる。楽しいことばっかりでもたまらんからな!だからどんなことがあってもやめへん。きっと、俺がサッカーやめるときは死ぬ時か、女に嵌められた時やな」

「後者にならないことを祈ってるよ……」

「どうやろなぁ、俺サッカー選手になっていい女と結婚するのが夢やから」

「千堂は多分ハニトラにすぐ引っかかるよな」

「多分っちゅーか、十中八九そうやな」


 そう言って俺と千堂は笑い合った。

 それから十分ほど走り、疲れが滲み出た頃合いで俺は休憩を提案した。近くの自販機で水を買い、とある場所へと向かう。


「蓮人、どこ向かってるんや?」

「千堂はこの公園来るの初めてか?ここの公園は広くて色んな施設があってな。グラウンドとか、砂場とかもあったりするんだよ。そしてそこには、決まってアイツがいる」


 俺が指さした先、複数に別れたランニングコースの側にある100mタータンの側にいたのは、長身の赤毛の男。


「おーい、竜崎!」

「……レンレン、たかやん」

「なんや、誉も自主練か?」

「うん。ここに毎朝通ってる。……二人はランニング?」

「あぁ。球技大会に向けてちょっとな」


 三人で近くのベンチに座って休憩することに。三人だけで揃うのはなんだか新鮮な光景だった。


「蓮人は誉がここにいること知っとったんか?」

「あぁ。こいつ、中学時代からずっとここ通ってるからな」


 竜崎とは実は中学の時からの知り合いだったりする。学校自体は別々だったが、毎朝のランニングついでにここで話すのが日課となっていた。


「レンレン、ここで会うの久しぶりだね。しばらく来てなかったのに」

「流石に今回の球技大会はみんなの熱量が違うからな。俺も足を引っ張らないようにしないと」

「なぁなぁ、誉って中学時代どんな奴やったん?」

「う~ん……はっきり言って不良?」

「え゛っ……イメージと違い過ぎるわ」

「……あの時は不良だっただけ。怪我して陸上を諦めようか迷ってた時だったから」


 俺が竜崎と初めて出会った時の印象は、近寄り難い雰囲気の男だった。

 足のケガで陸上を続けられないかもしれないという絶望の淵にいた竜崎は、どうしたらいいか分からずに思い悩んでいたらしい。

 そんな竜崎と、家庭のことで悩む自分。大きな悩みを抱える彼との淡い記憶が、脳裏を駆け巡る。


「レンレンが頑張ってる姿見たら、俺も続けようって思った」

「それで今では三段跳び馬鹿か」

「一センチでも遠くに飛ぼうとしてる俺はちょー馬鹿だけど、ちょー最高だ」

「馬鹿ばっかりだな」

「馬鹿な俺達は最高。……だからレンレン、頑張ろう」


 竜崎が何を考えているのか分からない無な表情で語り掛けてくる。

 声も抑揚が無いから本当に何を考えているのかは分からないが、彼が俺を励まそうとしてくれていることだけは分かった。


「……なんだよ、どうした急に?」

「レンレン、なんか悩んでるでしょ」

「なんでそう思う?」

「悩んでるときの横顔じゃん。旧知の仲の勘」

「なんや蓮人、悩んでるんか?恋の悩みか~?」

「うるせーな……でも、ちょっと助かったよ」


 如月と自分を比べて勝手に落ち込んでいたのがどうでもよくなるぐらい、二人の笑顔は明るい。自然と俺の心の中にあった陰りは消え去っていた。


 自分に自信を持つために、まず自分を信じるところから。

 目前に迫った球技大会という目標に向かって、今は仲間とひた走ることにしよう。それが自分を信じる第一歩だ。


「お礼は女の子紹介でいいで。四ノ宮ちゃんとかで!」

「誰がするかよ。天音は俺の可愛いいm……後輩だからな。お前みたいなのに預けられん」

「あれ、三人ともいるじゃん!」


 聞き覚えのある声に振り返ると、綺羅だった。

 綺羅はブンブンと手を振りながら駆け寄ってくる。

 

「またうるせー奴が来たな……」

「なんだよ、三人もランニング?」

「まーな。綺羅もか?」

「おう!俺は二人に誘われたんだ」


 綺羅の指さした方を見ると、息も絶え絶えになった瀕死状態の猫宮とそれを介抱する尼崎の姿があった。


「猫宮……死にかけてね?」

「ぜぇ、ぜぇ……ばたんきゅー、です」

「ゆっくり行こうって言ってたんだけど、綺羅くんが張り切っちゃって……」

「だって、翔ちゃんが『勝ちたいからトレーニングに付き合ってほしい』って言ってたからさぁ。感化されちゃったってゆーか?」

「なんや、考えることはみんな一緒ってことやな。……よっしゃ、みんなで今から走るで!」

「ちょっと待って、このままだと猫宮くん死んじゃうから!」


 馬鹿みたいに六人で朝の公園を走る。最高に馬鹿で、最高に楽しい。 

 他人に誇れる自分になるために、如月に並ぶために立ち上がろうと、決意した6時過ぎだった。

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