第26話 届かぬ声、繋がる手
夏休みが明けてしばらく、学校はすぐにテスト期間に入った。午前中だけで授業が終わり、昼には解放される。クラスメイトたちが「勉強した?」と笑い合いながら校門を出ていくのを横目に、僕は鞄を肩に掛けて病院へと向かった。
いつもの白い廊下、窓から射す光、消毒液の匂い。それらすべてに慣れてきてしまった自分が少し怖かった。
病室の扉をノックして入ると、一夏はベッドに腰かけて、小さなノートに文字を書いていた。僕の姿を見るとぱっと笑顔を浮かべる。
「理久、来てくれたんだ」
「うん。午前中で終わったからな。……勉強は、まあ、ぼちぼち」
冗談めかして肩をすくめると、一夏は声を上げて笑った。まだ顔色は完全じゃないけれど、その笑顔が見られるだけで胸の奥が温かくなる。
それからしばらく、テストの話をしたり、教科書を広げて一緒に問題を解いたりした。彼女は答え合わせをしながら「やっぱり理久のほうが頭いい」と頬を膨らませてみせる。その仕草に、僕はなんだか学生らしい時間を取り戻せたような気がした。
そんなとき、病室の扉が軽く開いて、同じ年頃の女の子が顔をのぞかせた。一夏の友達だろう。手には小さな紙袋を持っている。
理久が「また明日」と手を振ってそそくさと病室を出て行ったあと、しばし静寂が訪れた。扉が閉まる音が消え、エアコンの低い唸りだけが残る。
残っていた友達は、ベッドの脇の椅子に腰かけて、じっと一夏を見つめていた。視線が妙に真剣で、一夏は少し落ち着かなくなった。
「……ねえ、一夏」
「なに?」
「さっきの人……彼氏?」
その問いに、思わず胸がどきんと跳ねた。わざとらしく笑って首を横に振る。
「ち、違うよ! 彼氏じゃない。ただの……友達」
「ふーん。でもさ、毎日来てるんでしょ? ノートとかも持ってきてくれるし、あんなふうに自然に隣にいる感じ……普通の友達には見えなかったけどなあ」
友達の言葉に、一夏は頬が熱くなるのを感じた。視線を逸らして、ベッドのシーツのしわを指でなぞる。
「……そう、見えるかな?」
か細い声が漏れる。自分でも思ってもいなかった言葉。
友達はにやりと笑って、肩をすくめた。
「うん。彼氏にしか見えなかった」
その一言に、一夏は耳まで赤くなり、枕に顔を押しつけた。
「もう……やめてよ」
けれど、口元はどうしても緩んでしまう。頬の熱も冷めない。
理久の存在を、そんなふうに見られていることが――なぜだか、とても嬉しかった。
期末テストがようやく終わった金曜の午後。校舎を出る足取りは軽く、解放感で胸いっぱいだった。真っ先に思ったのは、一夏の顔を見ること。
ポケットからスマホを取り出し、メッセージを打った。
「今から病院行ってもいい?」
送信して、しばらく画面を眺める。いつもなら、ほんの数分で「来て!」とか「待ってるよ」なんて返事が来るのに、その日は既読すらつかない。
嫌な胸騒ぎがした。
もう一度メッセージを送ってみる。
「大丈夫? 調子悪い?」
画面は沈黙を続けた。周りの友達はテスト明けの開放感で騒がしく、カフェに行こうとかカラオケに行こうとか盛り上がっている。けれど僕は耳に入らなかった。心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、気づけば足は病院へと向かっていた。
――エントランスを抜け、白い廊下を急ぐ。
彼女の病室の前に立ったとき、いつもと違う空気に気づいた。声をかけようとした瞬間、胸が冷たくなった。
どうやら、一夏は早朝から容体が急変し、一時呼吸不全に陥ったため、集中治療室に運ばれたらしい。今は体調が安定しているため一般病棟に移されているらしいが、昏睡状態が続いているそうだ。
面会は制限されていたが、一夏の両親に「彼女の隣にいてほしい」とお願いされたため、一夏の顔を見ることができた。
両親は、相当疲れていたようで「理久くんなら大丈夫ね」と外の空気を吸いにいった。
静かに眠る一夏の顔色は青白く、細い肩がシーツに沈んでいる。口元には酸素マスク、腕には点滴の針。
聞こえるのは、機械の規則正しい音と、かすかな呼吸の音だけ。
僕はゆっくりとベッド脇の椅子に腰を下ろした。
「……一夏」
呼んでも返事はない。まぶたは閉ざされたまま、長いまつ毛が頬に影を落としている。
まるで深い眠りの中に閉じ込められてしまったようで、僕の声は届かない。
「ごめん……俺、何もできないのに」
言葉が震え、喉の奥で詰まる。
彼女の手をぎゅっと握り、ただ必死に祈ることしかできなかった。
病室を見渡すと、見覚えのあるぬいぐるみが並んでいた。
巨大なミニブタのぬいぐるみ。忘れもしない2人だけの、熊本旅行。
小さなイルカのぬいぐるみ。昨日のことのように覚えている、夏祭り。
この病室に置いてあるすべての物に、僕たちの思い出があった。
「⋯⋯一夏」
僕の震える手で、彼女の手を取る。
ひんやりとした感触に胸が痛んだが、かすかに温もりが残っている。それが、かろうじて彼女がここにいる証だった。
「⋯⋯なんだこれ」
僕が彼女の手を握る前、一夏は既に何かを握っていた。
それは、2人の子供が写った写真のキーホルダーだった。
1人は一夏。この頃からこの可愛さを持っていたとは、さすが一夏、と感心した。
もう1人は男の子。見たことあるような、ないようなごく普通の顔。でも、すごく笑顔でどこか嬉しそうに見えた。
謎のまま、裏を見て僕は全てを理解した。
「⋯⋯あぁ、そういうことか」
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