第24話 夕闇に崩れた笑顔

 翌朝。9月初めての太陽は、真夏の眩しさよりも少し和らぎ、窓辺にやわらかい光がさしていた。

 僕は制服に袖を通し、鞄を肩にかけると、鼓動がいつもより速く感じられた。


 通学路には蝉の声がまだ響いていたが、少しずつ秋の虫の音も混じり始めていた。季節の変わり目を感じる風のなかを歩きながら、僕の頭には一夏の姿ばかりが浮かんでいた。


 校門をくぐると、クラスメイトたちの声が賑やかに飛び交っていた。


「この前の祭り、やばくなかった?」


「宿題、結局徹夜でやったわ⋯⋯」


 笑い声や愚痴や武勇伝が混ざり合い、夏休み明け特有の空気が漂っていた。


 教室に足を踏み入れた瞬間、ある男が僕の前に立っていた。


「おー、理久。来たか」


「あぁ、君か」


 彼は、補習の時に仲良くなった人。仲良くなったと言っても、一方的にだが⋯⋯。

 名前は確か⋯⋯。ダメだ、思い出せない。

 僕が苦手とするタイプの人間だが、嫌いではない。こういう奴が社会には一定数必要だろう。僕はそう考えている。


 始業式を終えて、教室に戻ると担任が夏休みの課題を回収したり、これからの予定を話したりした。クラスメイトたちはまだ休み気分が抜けきらず、机を寄せ合って笑い合っていた。


 昼休み。スマホにメッセージが来ていた。


「今日の放課後、いつもの場所で待ってます」


 僕は「分かった」とだけ、簡潔に返した。


 それだけのやり取りなのに、胸の奥が高鳴って仕方なかった。


 チャイムが鳴り、授業が終わると、クラスメイトたちは一斉に立ち上がり、部活や塾へと散っていった。

 僕は、自然な流れで教室をでた。


 廊下には西日が差し込み、ガラス窓を朱色に染めていた。


 先週の祭りで告白を交わしたばかりの僕たちにとって、初めて迎える学校帰りの約束だった。まだ「付き合っている」という言葉をお互い口にしたわけではない。けれど、あの夜の花火と一緒に重ねた想いが、確かに僕ら二人の間に温かなものを残していた。


 ガラス張りの自動ドアを抜けると、冷房のひんやりした空気と紙の匂いが出迎える。館内は放課後にしては静かで、ちらほらと受験勉強中の高校生が席を埋めている程度だった。


 視線を巡らせると、奥の窓際の席でノートを広げている一夏の姿が目に入る。制服のリボンをきちんと結び直し、髪を耳にかけながら文字を追っている横顔。夕陽が窓越しに差し込み、彼女の頬をやわらかく照らしていた。


 僕は思わず立ち止まる。胸の奥がじんと熱くなる。

 ──あの夜の浴衣姿とは違う、いつもの一夏。でも、今はその「いつも」が特別に思えて仕方ない。


 彼女がふと顔を上げ、僕と目が合った。ぱっと花が咲くように微笑み、手を小さく振ってくれる。

 その仕草ひとつで、図書館の静けさの中に、僕の鼓動だけが大きく響いた。


「ごめん、待たせた?」


 声をひそめて近づくと、一夏は首を横に振る。


「ううん。ちょっと早く来ちゃっただけ」


 そう言って、少し照れたように笑う。


 僕もまた、つられて笑みを浮かべる。机の隣に腰を下ろすと、紙のめくれる音と鉛筆の走る音だけが二人を包んだ。


 互いに言葉を多く交わさなくても、不思議と心地よい沈黙がそこにあった。

ただ、並んで同じ時間を過ごすだけで、夏休みの続きを思わせる甘い余韻が満ちていく。



 館内のアナウンスが「閉館時間です」と告げる。

 ページを閉じる音が重なり、帰路につく人々のざわめきが少しずつ増えていった。


 僕も一夏も、ゆっくりと荷物をまとめて席を立つ。

 窓の外はすでに夕闇に包まれ、街灯の明かりが点りはじめていた。二人並んで歩き出すと、蝉の声に代わって秋の虫の音が響きはじめていることに気づく。


 そうして僕らは、帰路についた。



「もう夏も終わっちゃうね」


 一夏がぽつりとつぶやく。


「そうだな。⋯⋯でも、まだ少しだけ、残ってる」


 僕はそう返しながら、横顔をちらりと見る。淡いオレンジの街灯が彼女の頬を照らし、どこか儚げに映った。


 川沿いの道にさしかかったときだった。

 一夏がふと立ち止まり、額に手をあてる。


「どうした? いち⋯⋯か?」


「⋯⋯ちょっと、目が⋯⋯くらんで⋯⋯」


 声が途切れると同時に、身体が傾ぐ。

 僕は咄嗟に腕を伸ばし、彼女の肩を支えた。


「一夏!? 大丈夫か!?」


 彼女の顔は青ざめ、まぶたが重そうに震えている。

 胸が強く締めつけられるような感覚に襲われながら、僕は必死に彼女を支えた。


「ごめん⋯⋯少し、休めば⋯⋯大丈夫だから」


 弱々しい声でそう言うが、肩に預けられた体温の軽さに、不安が募るばかりだった。


「やっぱり大丈夫じゃない。⋯⋯病院、行こう」


 僕の声は、気づかぬうちに震えていた。


「え、でも──」


 一夏がかすかに笑って否定しようとする。


「無理するなよ! さっき本当に倒れかけたんだぞ。怖かったんだ⋯⋯」


 思わず声を荒げる。彼女を驚かせてしまったかもしれない。

 それでも僕は、一夏の小さな体を支えながら、携帯で近くの病院を探し始めた。


 タクシーを呼び、数分後には車の後部座席に二人で揺られていた。

 窓の外に流れる街の灯りはやけに遠く、過ぎていく時間は長く感じられた。


 病院に着くと、すぐに受付へ駆け込み、僕は必死に状況を説明する。

 看護師に案内され、一夏は診察室へ。僕は待合室に残され、固く両手を握りしめた。


 ──彼女には余命がある。そのことを知っているはずなのに、日常の中で忘れかけていた。

 けれど、今こうして目の前で力なく座る姿を見てしまうと、現実が鋭く突き刺さってくる。


 ──どうか、何事もなくいてくれ。

 胸の奥で繰り返す願いは、焦りと恐怖にかき消されそうだった。

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