第17話 スイカの甘さ、花火の予感

 夕暮れどきに電車を降りると、駅前の空気は熊本の山の涼しさとは違い、少し湿り気を帯びていた。二人並んで歩く足取りは、どこか名残惜しく、けれど確かに家路をたどっている。


「⋯⋯なんか、夢みたいだったね」

 

 一夏が小さな声でつぶやいた。


「うん。ほんと、あっという間」

 

 僕も応じながら、まだ肩に残る温もりを思い出していた。


 家の近くまで来ると、互いに顔を見合わせて、自然と笑みがこぼれた。旅行中に何度も見た笑顔だったが、こうして日常の街並みに溶け込むと、また違った鮮やかさがあった。


「うち、寄ってく?」


 彼女が少し照れたように言った。


「スイカ、冷やしとこうかなって思って」


 断る理由なんてなかった。



 彼女の家の縁側に腰掛け、二人でスイカを頬張った。甘い果汁が口いっぱいに広がり、種を指先でつまんで小皿に落とす。その一つ一つの仕草に、旅先の風景が蘇ってくる。


「⋯⋯おばあちゃん、絶対まだ誤解してるよね」

 

 一夏が笑いながら言う。


「まあ、あの感じだと⋯⋯訂正しても聞いてくれなさそう」


「でしょ? だからもう、好きに思わせとけばいいんじゃない?」


 彼女の言葉に、僕は少しだけ返事を遅らせた。心臓が早く打つのを、彼女に気づかれないように。


 夏の夜風がカーテンを揺らし、縁側の木の香りと混ざって流れ込んでくる。都会のざわめきよりずっと静かで、旅行の続きがまだここにあるように思えた。


「⋯⋯ねえ」

 

 一夏がふいに声を落とした。


「次はどこ行こっか」


 その瞳には、ほんの少しの不安と、たくさんの期待が宿っていた。

 僕はその視線を正面から受け止め、笑って答えた。


「そうだな⋯⋯また、どこでも一緒に行けたらいいな」


 その一言で、一夏は安心したように、柔らかく笑った。

 縁側の夜空に、ひとつだけ星が瞬き始めていた。



 翌朝、僕は久しぶりに制服に袖を通した。

旅行の余韻がまだ体に残っていて、教室に向かう足取りは少し軽かった。


 扉を開けると、すぐにクラスメイトのざわめきが耳に入った。


「なあ、週末の夏祭り、どうする?」


「絶対行く! 花火やばいって」


「浴衣で行く子もいるんだろ? 楽しみすぎる」


 机を寄せ合って話す彼らの声は弾んでいる。

 うちの町では毎年大きな夏祭りがある。夜店が立ち並び、広場からは花火が上がる。僕も昔は家族に連れられて行った記憶があるが、ここ数年は縁がなかった。


 その話題を耳にしながら、僕は自分の席に腰を下ろした。

 机の木目をぼんやり見つめながら、心の奥が妙にそわそわする。


 ──祭り。

 あの人と行くことは、あるのだろうか。


 思い浮かんだのは、一夏の笑顔だった。浴衣姿の彼女を想像しただけで、胸が熱くなる。

 だが同時に、彼女には時間が限られているという現実が、冷たい影のように思考に入り込む。


 僕は視線を窓の外に向ける。青い空には入道雲が立ち上り、真夏の光が教室の床に揺れていた。

 その光景を眺めながら、心の奥でひとつだけ強く願った。


 ──もし祭りに行けるなら、一夏と一緒に。



 放課後の図書館は、静寂に包まれていた。

エアコンの低い唸りと、ページをめくる音だけが漂っている。窓の外では蝉が鳴いているのに、ここだけは季節が切り取られたように涼しかった。


 僕と一夏は、いつもの席に向かい合って座っていた。

 彼女は膝の上に文庫本を広げ、僕は教科書を開いたまま視線を落としていた。とはいえ、文字はほとんど頭に入ってこない。気がつけば、向かいの彼女の横顔ばかりを追っていた。


「ねえ」


 ページをめくる手を止めて、一夏が顔を上げた。


「今度の土曜、夏祭りあるでしょ?」


 唐突な問いに、僕は少し戸惑いながらも頷いた。


「⋯⋯ああ、クラスのやつらが騒いでた」


「行かないの?」


「人混み、あんまり得意じゃないし」


 僕が視線を逸らすと、一夏は小さく笑った。


「そう言うと思った。⋯⋯でも、ちょっと見てみたくない?」


「何を?」


「花火。夜空に広がるやつ。⋯⋯それに、浴衣とか屋台とか。夏らしいこと、やっぱりしてみたいなって」


 彼女の声は、図書館の静けさの中でやわらかく響いた。

 そう言われると、断れない自分がいた。いや、やっぱり心の奥では、彼女と行きたいと思っていた。


「⋯⋯じゃあ、一緒に行くか」


 僕はできるだけ平静を装って言った。


 一夏の顔がぱっと明るくなった。

「ほんとに? やった。じゃあ浴衣着ていこうかな」


 想像してしまい、胸が一瞬にして熱くなる。

 その気配を悟られまいと、僕は教科書のページをめくった。だが、目は文字を追いながらも頭の中はすっかり祭りの光景で満たされていた。


「理久も、ちゃんと来てよね」


「⋯⋯当たり前だろ」


「ふふ。楽しみだな」


 彼女は本を閉じ、机に頬杖をついて、遠くを見るように目を細めた。その横顔がほんの少し儚く見えて、僕は思わず言葉を飲み込んだ。


 図書館の時計の針が静かに進む。

 その音が、祭りまでの時間を刻んでいるように思えた。

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