第16話 水の国② 夏の縁側、そして終着駅

 渓谷をあとにした帰り道、彼女がふいに言った。


「ねえ、帰りにおばあちゃんの家、寄っていい?」


 少し照れたように笑う彼女の横顔を見て、僕はうなずいた。彼女のおばあちゃんは、渓谷からほど近い所に住んでいるらしい。


 古い瓦屋根の平屋は、緑の山に抱かれるように佇んでいた。縁側に腰をかけた白髪の女性が僕らに気づき、柔らかく笑った。


「まあまあ、一夏。来てくれたのねえ」


 皺だらけの手が、まるで孫を迎えるように僕にまで伸ばされる。その温かさに、不思議と胸が熱くなった。


 居間に通されると、ちゃぶ台の上には冷えた麦茶と漬物が用意されていた。おばあちゃんは僕のコップにまで気を配り、「暑かったろう、よう来てくれたね」と繰り返し言った。


 一夏は慣れた様子で漬物をつまみ、「ここのが一番おいしいの」と笑った。僕も口に運ぶと、塩加減と野菜の歯ざわりが妙に懐かしい気持ちを呼び起こした。


 ──そうだ。僕にも、かつて熊本におばあちゃんがいた。確か、丁度この辺に住んでいた。縁側でスイカを食べ、夜は蚊取り線香の匂いに包まれて眠った夏。いつのまにか遠ざけていた記憶が、鮮やかに甦ってくる。


「⋯⋯なんだか、昔を思い出しました」


 そう呟いた僕に、おばあちゃんはにこりと目を細めた。


「なら、またいつでも遊びにおいで。ここはね、誰が来ても、みんな家族みたいなもんだから」


 その言葉は冗談ではなく、本心から出たものに思えた。縁側を抜ける風、笑い声、麦茶の冷たさ──どれもが心に沁みるようだった。


 そんな事を考えていると、不意におばあちゃんは僕の方をまじまじと見つめた。小さな目が細くなり、にやりと笑みを浮かべる。


「⋯⋯あんたが、一夏の彼氏さんなんだね?」


 その一言に、僕は盛大に麦茶を吹き出しそうになった。

 一夏は「ち、ちがうから!」と慌ててコップを置き、頬を赤く染める。


「友達だってば! ねえ理久くん、そうだよね!」


 突然振られて、僕は言葉を詰まらせた。


「えっ⋯⋯あ、ああ⋯⋯友だち、です」


 必死に否定するものの、おばあちゃんは「へぇ」とおどけたように頷き、さらに目を細めて笑った。


「まあ、友だちでもいいけどねぇ。目で見てたら、分かるよ。大事にしてるんだろう?」


 その直球な言葉に、僕の心臓は一気に跳ね上がった。口を開こうとしても声が出ない。否定できるわけもなく、けれど認める勇気も出なくて、唇を噛んだ。


 横で一夏が「も、もう! おばあちゃん!」と抗議している。けれど、その声にもほんの少し照れ笑いが混じっているのを僕は見逃さなかった。


 おばあちゃんはそんな二人を見比べて、楽しそうに手を叩いた。


「ははは、若いってええねぇ。いいわぁ、その顔。うちの畑も、こんな笑顔で働いてくれる若者がいたら毎日楽しかろうに」


 冗談めかしてそう言うと、さらに畳みかけるように続けた。


「もう、いっそこっちにお嫁に来なさい。あんたも熊本に縁があるなら、ぴったりじゃなかと?」


「えっ⋯⋯」


 僕と一夏は同時に声を上げ、顔を見合わせた。互いに真っ赤になり、すぐに視線を逸らす。


 おばあちゃんはそんな反応を楽しんでいるようで、からからと笑った。


「冗談、冗談。でもね、二人ともよか顔しとる。きっと、そばにおるだけで元気になれるよ」


 その言葉に、一夏は小さく息を呑み、僕はうまく笑うしかなかった。けれど、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。



 おばあちゃんの笑い声に包まれた時間は、あっという間に過ぎていった。ちゃぶ台の上の漬物はいつの間にか減り、麦茶の氷は溶けて水面に揺れていた。


「もう、そろそろ行かんといけんね」


 一夏が名残惜しそうに立ち上がる。僕も慌てて腰を上げると、おばあちゃんはすっと台所に引っ込み、ほどなくして紙袋を抱えて戻ってきた。


「ほら、これ持って行きなさい。畑で採れたトマトときゅうり、それとお隣さんにもろたスイカ」


「えっ、いいの?」と一夏が目を丸くする。


「いいのいいの。若い子に食べてもらった方が、野菜も喜ぶわ」


 おばあちゃんは当然のように言いながら、紙袋を僕にも押し付ける。ずしりとした重みが手に伝わり、心まで温かくなるようだった。


「それに、あんたも昔は熊本におばあちゃんがいたんだろう? ここに来れば、またいつでも孫みたいに迎えるからね」


 その言葉に、胸の奥がきゅっと締め付けられた。遠い記憶の中の祖母の笑顔と、今、目の前で笑う彼女のおばあちゃんの顔が重なって見えた。


「⋯⋯ありがとうございます」


 ようやくそう言葉を絞り出すと、おばあちゃんは、にっこり笑って僕の肩をぽんと叩いた。


 外に出ると、夕暮れの風が渓谷からの涼しさを運んでいた。振り返ると、おばあちゃんが縁側に立って手を振っている。その姿は小さくなっていくけれど、どこまでも温かく、胸に焼きついて離れなかった。


 一夏が横で、紙袋を抱えながら笑った。

「ね、おばあちゃんってちょっとお節介だけど、優しいでしょ?」


「⋯⋯うん。本当に、そう思う」


 そのとき、確かに僕は感じていた。この土地の人たちは、誰かのことを自然に「家族みたいに」思える。血のつながりを超えて、心でつながるような温かさがあるのだ、と。



 帰りの新幹線に揺られながら、僕らは窓の外を流れる景色をぼんやり眺めていた。緑深い山々が少しずつ遠ざかり、やがて田んぼの広がる平地に変わっていく。車窓を通り抜ける風景は確かに動いているのに、心はまだ、あの涼やかな渓谷の水音や旅館の畳の匂いに留まっていた。


 膝の上には、おばあちゃんにもらった紙袋。スイカの重みがずっしりと残っている。それを見下ろしながら、一夏はふっと笑った。


「帰ったら、これ一緒に食べよ」


「⋯⋯うん」


 それだけの言葉が、不思議と胸を温かくした。小さな約束が、旅の続きをまだつないでくれている気がした。


 新幹線がトンネルに入ると、窓ガラスに僕たちの顔が映った。一夏は少し疲れているようで、けれどその横顔には安らぎが宿っていた。ふいに彼女がこちらにもたれかかり、目を閉じる。


「ちょっと、寝てもいい?」


「ああ」


 短いやり取りのあと、彼女の頭の重みが肩に寄りかかってくる。その重みは不思議と心地よく、僕は動かずにただ座り続けた。車内の揺れと小さな寝息が重なり、静かな時間が流れる。


 外の景色は次々に過ぎていくけれど、この瞬間だけは止まってほしいと心から思った。旅は終わろうとしているのに、まだ続いていてほしかった。


 やがてアナウンスが流れ、駅が近いことを告げる。一夏はゆっくり目を開けて、少し照れたように笑った。


「⋯⋯ありがとう。連れてきてくれて」


 僕は首を振った。


「いや⋯⋯ありがとう。連れ出してくれて」


 目が合い、二人とも照れくさく笑った。窓の外には、日が落ちかけた空に赤と紫が混ざり合い、旅の終わりを彩っていた。


 夏はまだ続いている。でも、この旅が教えてくれた温かさと記憶は、季節が変わってもきっと心に残り続けるだろう。

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