第15話 水の国① 旅路の夜、流れに映る君

 部屋に入ると、大きな窓からは外の山並みが一望できた。荷物を置くと、彼女はさっそく布団の上に“ぶーちゃん”を座らせて写真を撮り始めた。


「ほら、旅行の記念!」


「⋯⋯完全に主役取られてない?」


「ううん、私たちとぶーちゃん、三人で旅行だよ」


 そう言って笑う彼女に、僕はまた返事を飲み込んだ。



 やがて食事の時間になり、僕たちは浴衣に着替えて広間へと向かった。

 大きな座敷にはすでに膳が整えられていて、鮮やかな料理が並んでいた。小鉢に盛られた山菜、艶やかな馬刺し、土鍋でじっくり煮込まれた郷土料理、そして川魚の塩焼き。視覚だけでお腹が満たされてしまいそうな光景だった。


「わぁ⋯⋯! 見て理久くん、ほらほら!」

 

 彼女は子どものように一皿ずつに反応していく。その姿に僕は、料理そのものよりも彼女の笑顔のほうがご馳走に思えた。


「辛子蓮根って初めて食べる」

 

 一口かじった彼女が「うっ」と顔をしかめた。


「ピリッとくるだろ?」


「でも美味しい。なんかクセになりそう」


 顔を赤くしながらもまた一口食べる彼女に、思わず笑ってしまう。食事の場は静かで、箸の音と彼女の小さな感想が心地よく響いていた。


「旅行っていいね」


 唐突に彼女が呟いた。


「なんで?」


「こうやって一緒に食べてるだけで、全部特別になるから」


 その一言が、胸の奥にずしんと落ちた。彼女にとっては何気ない言葉なのだろう。でも僕にとっては、これ以上ない告白のように響いた。



 夕食を終えたあと、僕はひとりで温泉へ向かった。木の香りが漂う廊下を抜けると、湯気が白く立ちこめる浴場の入り口にたどり着く。暖簾をくぐった瞬間、ふわりと熱気に包まれた。


 体を流してから湯船に足を入れる。熱さに息を詰めながらも、やがて肩まで沈めると、全身がゆっくりとほどけていくようだった。外に続く岩造りの露天風呂に出ると、夜風が頬を撫で、昼間の汗と疲れをさらっていった。


 見上げると、カルデラの空には無数の星が散らばっていた。黒々とした山々が影のように沈み、その上に広がる光の川は、昼間の喧騒とは別世界だった。


 ──彼女にも、見せてやりたかった。


 頭の中に浮かぶのは、笑顔ではしゃいでいた彼女の姿。ミニブタを抱えて駆け回る姿。畳の上で嬉しそうに寝転んだ姿。その一つ一つが湯気の中で鮮やかによみがえってくる。


 僕は湯に揺れる水面をぼんやり見つめながら、目を閉じた。湯の温かさが胸の奥の痛みを少しだけ和らげてくれる気がした。けれど、癒えることはない。


「⋯⋯明日も、笑っていてくれますように」


 声に出すことはなかった。ただ心の中で祈る。彼女と過ごせる時間が、ほんの一日でも長く続きますように、と。


 夜風に吹かれながら湯に浸かっていると、遠くで虫の声がかすかに聞こえた。その音が、不思議と胸に沁みた。



 部屋に戻ると、布団が敷かれていた。彼女は浴衣の袖を直しながら、布団の隣に“ぶーちゃん”を座らせて笑う。


「ねえ、三人で川の字だね」


「いやいや、ぶーちゃんは外野だろ」


「だめ、主役なんだから」


 彼女は布団に寝転び、スマホを取り出して今日の写真を眺めていた。


「ほら、これ。レースでぶーちゃん勝ったときのやつ」


「⋯⋯完全に君が一番はしゃいでる」


「当たり前でしょ。だってすっごく楽しかったんだもん」


 彼女は写真をスライドさせながら、時々くすっと笑う。その笑みを横で見ているだけで、僕の胸は満たされていった。


「ねえ、理久」


「ん?」


「こうやって今日のことを思い出してるとね、すごく幸せって思う」


「⋯⋯うん」


「だから、ちゃんと書き留めたいんだ」


 彼女はバッグから小さなノートを取り出し、ペンを走らせ始めた。ページをめくる音が静かな夜に溶ける。


 その横顔を見ながら、僕は願った。

 ──どうか、明日も彼女が笑っていますように。


 ──どうか、この旅が、いつまでも続きますように。



 朝の光が障子越しに差し込み、柔らかく畳の上を照らしていた。川のせせらぎが昨夜と変わらず耳に届き、鳥の声がどこからか混ざってくる。布団の隣では、彼女が小さく丸まって眠っている。寝顔を見つめると、胸の奥がじんわりと温かくなる。


 朝食の広間には、焼き魚や湯豆腐、山菜の小鉢が並び、湯気と香りが漂う。彼女は寝起きの顔のまま箸をとり、ひと口ごとに目を細めて味わった。


「朝からこんなに食べられるかな」


「大丈夫だよ、旅先だからね」


 二人で笑いながら食べる朝食は、普段の何倍も特別に感じられた。


 宿を出ると、澄んだ朝の空気が肌を撫でた。バスで菊池渓谷へ向かう間、窓の外には田畑や山並みが広がり、朝霧がところどころで揺れていた。彼女は窓に顔を近づけ、遠くの森に浮かぶ霧を指さして「幻想的だね」と呟く。

 僕はその横顔を見つめながら、微笑んだ。



 渓谷に到着すると、ひんやりとした空気が二人を包み込んだ。木々の間からは小鳥のさえずりが聞こえ、岩場を流れる水の音が渓谷全体に響く。遊歩道を歩くと、足元の石が少し滑りやすく、彼女は笑いながら僕の腕を軽く掴む。


「滑らないようにね」


「うん、気をつける」


 二人で慎重に岩場を進むと、小さな滝が現れた。水が岩を伝い、白い飛沫をあげて流れ落ちる。その光景に、彼女は息を呑み、手を合わせて見入る。


「すごい⋯⋯自然の力って、圧倒されるね」


「うん⋯⋯ここにいるだけで、心が洗われるみたいだ」


 渓谷の奥へ進むと、緑に囲まれたベンチがあった。二人で腰を下ろし、持参したおやつを分け合う。小さな菓子の甘さと、冷たい水の味が、夏の渓谷の中で一層引き立つ。


 遊歩道の途中で、彼女が転びそうになった。咄嗟に手を伸ばして支えると、彼女は目を丸くして笑いながら「びっくりした!」と肩を叩いた。小さなハプニングも、二人でいると笑い話になる。

 

 しばらく歩くと、渓谷の流れが少し穏やかになり、木陰に座って川の流れを眺めることができた。僕はそっと彼女の手を取り、並んで川面を見つめる。水面に映る緑の影や、風に揺れる木々、日差しにきらめく水の波。すべてが静かで、でも胸の奥で強く残る美しさだった。


「こうしていると、時間が止まればいいのにって思うね」


「うん⋯⋯でも、きっと思い出になるから、それもいいかも」

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