第12話 夕焼けに揺れる、約束

 水族館から帰った翌朝、僕はいつもより早く目を覚ました。夢の続きにいるような気がして、布団の中でしばらく天井を見つめていた。昨日の記憶が胸の奥に残り、鮮やかな残像となって浮かんでくる。


 大水槽の青に包まれた静かな時間。イルカショーで無邪気に拍手する一夏の姿。帰り道、僕の肩にそっと寄りかかったあの重み。

 ひとつひとつの場面が、まるでスライドショーのように繰り返し脳裏に映し出される。


 カーテンの隙間から朝の光が差し込み、外では蝉が鳴き始めていた。僕は深く息を吸い込み、布団から身を起こした。夢ではないのだ。昨日の事は確かにあったのだ、と胸の中で確かめるように。


 顔を洗い、朝食を済ませても、まだ気持ちは落ち着かなかった。そんなとき、机の上に置いていたスマートフォンが震えた。画面に浮かぶ名前を見ただけで、胸の鼓動が跳ね上がる。


「おはよう。今日も会える?」


 たったそれだけの短いメッセージ。けれど、その一文で世界の色を変える。僕はすぐに返信した。


「もちろん。どこに行こうか?」


 すぐに返ってきたのは「任せるよ」という軽やかな返事だった。少し考え、僕は提案を打った。


「じゃあ、今日は図書館にしない? 涼しいし、落ち着けると思う」


 既読がついた直後に返事が来た。


「いいね。お昼前に迎えに行くね」


 迎えに行く、という言葉に思わず笑みが漏れる。僕はいつも受け身で、彼女が主導権を握っている。だが、その関係が不思議と心地よかった。



 昼前。チャイムが鳴り、玄関を開けると、麦わら帽子をかぶった一夏が立っていた。白いワンピースに薄いカーディガンを羽織り、光をまとったような姿だった。


「おはよう、理久くん」


「⋯⋯おはよう」


「なに? 固まってる」


「いや、その⋯⋯似合ってるなって」


「ふふ、ありがと」


 彼女は微笑んで、僕の腕を軽く引いた。その自然な仕草に、僕はもう抗う理由を持たなかった。



 図書館の自動ドアを抜けると、外の熱気が嘘のように涼しい空気に包まれる。高い天井、静かな空間。ページをめくる音がかすかに響くだけで、時間の流れが緩やかになったようだった。


 一夏は児童書コーナーの前で足を止め、一冊の絵本を手に取った。


「これ、小さい頃によく読んでもらったんだ」


「どんな話?」


「ちいさな魚が、大きな海で冒険するの。⋯⋯昨日みたいでしょ」


 彼女は目を細めて笑う。僕は思わずその横顔を見つめ、胸が痛むほど愛おしいと感じた。


 しばらくそれぞれに本を眺め、やがて館内の喫茶コーナーに移動した。レトロなソファに腰を下ろし、アイスコーヒーを前にして、一夏がぽつりと言った。


「ねえ、理久くん。私ね、もしもっと元気だったら、遠くに行けたのかな」


「⋯⋯行けるよ。きっと」


「ほんと?」


「うん。俺が連れて行く」


 自分でも驚くほど、はっきりした声が出ていた。

 一夏は少し目を丸くして、それからふわりと笑う。


「じゃあさ、約束だよ。まだ行ったことないところ、これから一緒に行こう」


「ああ、約束する」


 彼女が小指を差し出した。僕は迷わず自分の指を絡めた。柔らかい温もりが、指先から心臓に伝わるようだった。



 午後、図書館を出ると街は真夏の熱に包まれていた。商店街のアーケードには赤い提灯と風鈴が並び、かすかに涼やかな音を奏でていた。


「アイス食べたいな」


「じゃあ、あそこの店で買うか」


 二人で小さなアイスクリーム屋に入り、ソフトクリームを手に外へ出る。夏の光に溶けるように、アイスはすぐに垂れ始めた。


「わ、溶けるの早い!」

 

 一夏は慌てて舌でアイスを受け止めるが、指先にクリームがついた。


「子どもみたいだな」


「理久くんだって口に⋯⋯ついてる」


 そう言って、彼女は僕の頬に指を伸ばし、そっと拭った。わずかな触れ合いなのに、心臓の鼓動が速くなる。彼女は照れ隠しのように笑い、僕は言葉を失った。



 夕方。川沿いに出ると、空は茜色に染まり始めていた。川面が夕焼けを映し、きらめく波紋がゆらゆらと広がっている。


「昨日の星空もよかったけど、今日の夕焼けもすごいね」


「⋯⋯夏の空は、全部きれいだな」


「うん。だからね、もっと見たい。もっと覚えていたいんだ」


 彼女は立ち止まり、空を仰いだ。風に髪が揺れ、その横顔が夕焼けに包まれる。

 胸が締めつけられる。僕はただ、彼女と同じ空を見上げるしかなかった。



 夜。布団に入っても眠れない。

 頭の中には、一夏の笑顔、声、指先の温もりが蘇る。昨日の水族館も、今日の図書館も、すべてが眩しいほどに鮮明だった。


 時間は限られている。けれど、だからこそ一日一日が輝いている。

 僕は心の中で強く願った。


 ──明日もまた、一夏と過ごせますように。

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