夏夜恋

てつ子

第1話 蝉時雨と、君の声

 夏の夜。僕は君に恋をした。

 忘れたくない恋だった。忘れられない恋だった。それが僕の初恋だった。

 さよならを告げた日から僕はこう思う。


『夏よ、来い』




───────────────────────




 太陽が照りつける夏真っ盛りの日であった。

 激しい日射しとセミの合唱で嫌になる。母から聞いたが、僕の通う高校は、2日前から夏休みに入ったらしい。でも、それは僕に関係ない。


 夏の外には敵わない。こめかみに流れる汗を、服の袖で拭い取る。僕の背負っていた白い手提げバッグには、子供が描いたような男女二人の絵と、平仮名で、かけひりく、と書かれている。


 夏の暑さに嫌気がさす。僕は少し苛立ち始めて、こう口ずさんだ。




『夏なんか、早く終わればいいのに』




 歩き疲れた所で、目的の場所の前で立ち止まる。自動ドアが開き、室内の冷気が僕の体を包みこんだ。さすが図書館。ここは天国に違いない。


 本棚には本のポップが立ち並んでおり、本棚の片隅に手を伸ばす。本を読むため、椅子に腰掛けようとした時、机の上に一冊のノートがあった。表紙には、『夏夜の詩』と、細く、繊細な文字で書かれていた。


「⋯⋯誰のものだ?」


 拾い上げて、中を覗く。ページをめくると、そこに書かれていたのは、詩だった。


 ──「夏の夜、星が降る。君のいない世界で、私はただ、呼吸をしている」


 言葉の一つ一つが胸の奥を突いた。まるで、誰かの心の叫びが、紙の上にそのまま流れ出たようだった。


「誰だ⋯⋯こんな詩を書くのは⋯⋯」


 その瞬間、後ろから気配を感じた。


 振り返ると、白いワンピースを着た少女が立っていた。長い黒髪が少し揺れる。その顔は、どこか病んでいるように白く、でも、目だけはとても澄んでいた。


「⋯⋯拾ってくれて、ありがとう」


 声は風に溶けそうなほど小さかった。

 なぜだろう? どこかで聞いたことのあるような声だった。どこかで会っただろうか? などと考えたが、結局分からなかった。


「君は⋯⋯誰? ノートの持ち主さんかな?」


 彼女は少し笑った。寂しげな、でも、どこか優しい笑みだった。


「⋯⋯名前は?」


「⋯⋯七瀬一夏。数字の一に、夏って書いて、一夏」


「俺は筧理久」


「理久くん⋯⋯」


 彼女は、その名を繰り返すように呟いた。まるで、それを覚えておくためのように。


「理久くん、外出れるかな?」



 入り口に向かって歩き出す。自動ドアが開いた、その瞬間、うだるような暑さが僕を包みこんだ。うるさく鳴り響く蝉の声と風鈴の綺麗な音色が混ざり、夏のオーケストラのようだった。


「さっきはノート拾ってくれて、ありがとうございました。貴方もみた感じ高校生ですよね?」


「あぁ、うん。一応高校生。一年だよ」


「一年生。私もだよ。同い年だね」


 一夏は、また小さく笑った。


 彼女を見ていて不思議な感じがする。なんか、そう『綺麗』と。


 黒髪に、凛とした姿。こちらを向いてにっこり笑う、向日葵のような笑顔。

 薫風でなびいた髪は、まるで夏の風鈴のように揺れている。

 彼女を見ていた時間だけは、夏の暑さも、何もかも忘れられた。


「あのさ、一夏ちゃんがいいなら⋯⋯俺、また来るよ。君がここにいるなら」


「⋯⋯なんで?」


「だって⋯⋯君の詩、すごくよかったから」


 彼女は、しばらく何も言わなかった。生ぬるい風だけが二人の間を通り抜けた。


 やがて、一夏は歩いてる僕の前に立ち止まり、振り返った。


「またね。理久くん」


 大きく、優しい声が僕の心を貫いた。やっぱり、なんか不思議だ。

 僕が気づいた頃には、彼女は上機嫌にスキップをしながら帰っていた。


 僕は、大きく、彼女に応えるかのように叫んだ。


「また、明日待ってるから!」


 そして、僕の手にはノートだけが残った。


「⋯⋯あ、返しそびれたな」



 その夜、僕は一夏の詩を何度も読み返した。


 ──「君が笑うたび、世界が少しだけ、色づく」


 何度も読み返すが、なぜか胸が痛かった。

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