秋の創作怪談シリーズ

階段甘栗野郎

第1話 スズムシの鳴く夜

秋の夜、薄暗い山間の集落。


私の住む古い家は、祖母から受け継いだ木造の一軒家だ。


軒下にはスズムシの籠が吊るされ、夜になるとその透明な音色が響き渡る。


「リーン、リーン」


まるで水晶を叩くような音が、静寂を切り裂く。


都会の喧騒を離れ、この家に越してきたのは、心の疲れを癒したかったからだ。


だが、この集落には、何だか分からないが、どことなく不穏な空気が漂っていた。


最初の夜、スズムシの音に耳を傾けながら、畳の上で寝転がっていた。


窓の外は真っ暗で、月明かりだけがかすかに庭を照らす。


スズムシの音は、まるで私の心に語りかけるようだった。


その音は、どこか懐かしく、どこか妖しい。


目を閉じると、音が私の肌を撫でるような感覚に変わる。


冷たく、滑らかな指先が首筋を這うような錯覚だった。


思わず身体が震え、「ふぁ…」と小さく声が漏れる。


妙な感覚だった。


怖いというより、どこか心地よい。


だが、その夜、夢を見た。


黒い着物をまとった女が、私の枕元に立っていた。


長い黒髪が顔を隠し、彼女の手にはスズムシの籠が握られていた。


「リーン、リーン」


籠から響く音が、私の耳元で囁くように鳴り続ける。


女は動かない。


ただそこに立ち、じっと私を見つめている気がした。


目が覚めたとき、私の体は、汗で全身が濡れていた。


翌朝、集落の古老にその話をすると、彼は顔を曇らせた。


「この集落には、昔、ある女が住んでいた」と彼は話し始めた。


「スズムシを愛し、夜な夜なその音に耳を傾けていた女だ。だが、彼女は恋人に裏切られ、狂気の中で命を落としたという。以来、彼女の霊がスズムシの音に乗って現れると噂されているんじゃ。」


私は笑ってその話を聞き流した。


現代に生きる私にとって、幽霊などただの迷信だと思った。


だが、その夜もスズムシの音は鳴り続けた。


「リーン、リーン」


今度は音が近づいてくるような気がする、まるで、家の中に入ってくるように。


窓を閉め、カーテンを引いても、音は止まない。


それどころか、音は私の心臓の鼓動と同調し、胸の奥で響き始めた。


その夜、再び夢を見た。


今度は女が私の布団の上で膝をついていた。


彼女の黒髪が私の顔にかかり、冷たい吐息が頬を撫でる。


彼女の手が私の胸に触れた瞬間、身体が熱くなり、恐怖と、なぜか抗えない快感が混じり合う。


彼女の指は私の肌を滑り、まるでスズムシの音のようにリズミカルに動く。


「リーン、リーン」


音と彼女の動きが一体化し、私は息を荒くしながら目を覚ました。


夢だったはずなのに、身体に残る感覚はあまりにもリアルだった。


翌朝、胸に軽い痣のような痕が残っているのを見つけたとき、背筋が凍った。


鏡で確認すると、それはまるで誰かの指で押されたような形だった。


私は震える手でスズムシの籠を手に取り、庭に放そうとした。


だが、籠を開けた瞬間、中は空だった。スズムシは一匹もいない。


それなのに「リーン、リーン」という音は止まらず、家中に響き渡る。


古老の言葉を思い出し、私は集落の神社へ相談しに行った。


神主は静かに頷き、「その女はスズムシの音に魂を宿らせている。彼女は愛を求め、夜な夜な現れる。君に何か執着しているのかもしれない。家の四隅に塩を盛り、スズムシの音が聞こえたら決して反応しないように」


その夜、私は神主の忠告通りに、塩を盛り、窓を閉め、布団に潜り込んだ。


だが「リーン、リーン」という音は止まらない。


それどころか、音は私の耳元で囁くように近づいてくる。


それに「愛して…」という女の声が、音に混じって聞こえてきた。


低く、甘く、しかしどこか哀しみを帯びた声。


私は布団の中で身体を縮こませ、必死に声を無視した。


だが、身体が勝手に反応してしまう。


彼女の声は私の心を揺さぶり、恐怖と同時に奇妙な欲望が湧き上がる。


冷たい手が私の足首を掴み、ゆっくりと細い指が爪を立てながら這い上がってくる。


彼女の指は私の肌をなぞり、まるでスズムシの音のようにリズミカルに動く。


「リーン、リーン」


音と彼女の動きが、私の理性を溶かしていく。


私は声を上げそうになるのを、必死に唇を噛んで耐えていた。


「やめてくれ…」と呟いた瞬間、音がピタリと止んだ。


静寂が訪れ、まるで時間が止まったかのようだった。


だが、その静寂は長く続かなかった。


突然、部屋の隅から「リーン、リーン」という音が再び響き始めた。


今度は複数のスズムシが鳴いているような、けたたましい音だった。


部屋の四隅に盛った塩が、まるで何かに押されたようにパラパラと崩れ落ちていく。


私は恐怖に耐えきれず、震えながら布団から飛び出した。


階段を駆け下り、玄関の扉を開けようとした瞬間、背後に気配を感じた。


振り返ると、そこには、黒い着物の女が立っていた。


彼女の顔は髪で隠れているが、口元だけが覗き、薄い笑みを浮かべていた。


スズムシの音と共に「愛して…」彼女の声が私の耳に直接響く。


彼女の手が私の肩に触れた瞬間、全身が熱くなり、意識が遠のいた。


目が覚めたとき、私は庭に倒れていた。


夜が明け、朝霧が漂う中、スズムシの音は消えていた。


家に戻ると、塩は元通り四隅に盛られ、籠にはスズムシが戻っていた。


まるで何も起こらなかったかのように。私は震える手で籠を持ち、川のほとりでスズムシを放した。


「リーン、リーン」という音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。


それ以来、女の姿は見ていない。


だが、秋の夜になると、どこからともなくスズムシの音が聞こえてくる気がする。


「リーン、リーン」


まるで彼女がまだ私を呼んでいるかのように。


私はその音を聞くたびに、恐怖と奇妙な懐かしさに身体が震える。


あの女は、どこかで私を見ているのかもしれない。


スズムシの音に乗って、永遠に。

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