3 花束と蕾

「ただいま。お花を頂いたよ」

 定年のあと、幸運にも嘱託で残れた。

 それも、今日でおしまい。

 65歳の、誕生月の終わりの日。


 花束をきみに見せて、バケツを用意するために、また玄関に戻る。

 ぐちゃぐちゃな、折りたたみ傘が目に付いた。

 ああ、この傘を畳まないと。

 ついに、使ってしまった。

 ずっとずっと、使わずにいた、折り畳み傘。

 通勤鞄の中に、入れっぱなしで。

 雨が降っても、風が吹いても。使わずにいた。

 だけど、最後の出勤日に傘を使わないなんて。

『風邪を引いたらどうするんですか』

 きみに、叱られてしまうからね。


『油絵とか、すごく上手なのに、不思議ね』

 そう言いながら、くるくるときれいに畳んでくれた、きみに。


 バケツを置き、傘を畳む。

 笑顔のきみに、語りかけながら。

「うん、花束だね。定年のときも、もらったのに、また頂いたよ。かすみ草が、たくさんだ。きみに、だって。何回かうちにも来てたあの子……今は課長なんだよ」


『今までありがとうございました、部長……。かすみ草、多めにしてます。どうぞ、奥様に』

 課長、少し泣いていたな。

 もう僕は、部長じゃないのにね。


「きれいだね。ああ、ちゃんと覚えてるよ」

 切り花には、水切りをしてあげるんだよね。


『定年のあとも働けるのはよかったわよね。働いているあなたは、素敵だから。でも、五年後もね、楽しみなの。あそこにも、ここにも、行きたいわ』

 五年前に、二人で選んで買ったもの。


 本棚に、何冊もある。

 色褪せた、旅行ガイド。

 付箋がいっぱい。

 退職したら、行きたい場所。たくさんあった。

 もちろん、働くことも好きだったけど。

 あのとき、働くのを終わりにしていたら。


 想像しそうになって、やめた。

 安定した職場。

 住宅ローンも、払い終えている。

 蓄えも、それなりに。

 子どもたちも、就職している。

 ありがたいと、思っているんだ。


 それに、そうだ。 

 働かないと、僕は。

 きみに、褒めてもらえることが、減ってしまったはずだよ。


 傘を畳みながら、僕はいろいろ、考える。


 うん。

 不満はない。

 ないよ。

 でもね。

 定年のあと、過ごしたかったいろいろは。

 行きたかったところは。

 きみと、だったんだよ。


 健康で、食事にも気を付けていて。

 むしろ、きみが丁寧に作ってくれたおいしい料理以外にも、間食をしてしまったりする僕のほうが。

 人間ドックで、健康には気を付けて、とかなんとか。

 言われていたのに。


 突然すぎて、遠くで暮らす息子は。

『病院? 母さんが? 入院かあ……お見舞い行くから場所教えて……え!』

 こんなふうだった。


 今でもきみには、内緒だけれど。

 息子と二人で、わんわん泣いて。

 わりと近くに住む娘から、叱られたんだよ。

『お母さんが心配するでしょう!』って。


 ほんとうに。

 僕も、息子も。

 きみには、心配ばかりさせていたね。

 折りたたみ傘のたたみかただって、そうだ。


 ほら。

 今もやっぱり、僕はへたくそで。

 ぐちゃぐちゃに閉じられた、折りたたみ傘。


 それを見たときも、きみは、笑顔で。


 ……そうだ。

 思い出した。

 思い出せたよ。


『開きかけの、お花の蕾みたいよね』

 きみは、そう言って。

 笑ってくれていたね。

 そして、さっ、ときれいに。

 いつも、たたみ直してくれたんだ。


『はい、閉じたお花の蕾、できあがり』

 笑顔で、手渡してくれた。 

 

 そうか、そうだ。

 僕の退職日に、きみは。

 また。

 開きかけの花の蕾を、見せてくれたんだね。


 きみが閉じてくれたは、僕が開いてしまったけれど。

 

 僕は、お礼を、伝える。

 ありがとう、ありがとうと。


 きみが教えてくれた、開きかけの。

 花の蕾に向かって。


 そうだよ。いつまでも大好きで、大切な。


 僕の、きみに。

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