第2話 はじめての空気 — The First Air Between Us

 講義が終わると、桐谷湊と朝倉陽真は、いつも通りに校門を抜けた。駅へ向かう途中の角にある、小さなカフェに寄るのも、いつもの流れだ。

 けれど今日は、歩幅を合わせるだけで胸がそわそわする。肩が触れそうで触れない数センチのあいだに、昨日までなかった熱が揺れている。


 ガラス戸を押すと、ベルが短く鳴った。浅煎りの香りと木の匂い。窓際の二人掛けは幸い空いている。定位置のように、湊が窓側、陽真が通路側へ腰を下ろした。何度も繰り返した動作のはずなのに、テーブルの幅がいつもより狭く感じられる。


「いつもの、でいい?」


 メニューを閉じながら陽真が言う。


「うん。ハニーラテと、レモンのタルト」

「了解」


 陽真がカウンターへ向かう背中を、湊はそっと目で追う。昨日の雨音、ラウンジのガラス、逃げ出した自分と、戻って「ごめん」を言えた自分——その全部が、胸の奥でまだ温かい。


 戻ってきたトレイから、甘い香りが立ちのぼる。ハニーラテには、小さなハートのラテアート。


「……店員さん、気が利くな」


 陽真が照れ隠しみたいに笑うと、湊もつられて笑った。


 沈黙が落ちても、前みたいな気まずさはない。湊がタルトを割る音、外の車の音、ミルが豆を挽く音——音の隙間に、言葉にしない気持ちが静かに溜まっていく。


「今日、このあとバイト?」


 フォークを持った陽真が、ふと思い出したように聞く。


「うん。夜から。コンビニ、週二回だけだけど、立ち仕事は地味にくる」

「だよな。俺も明日、家庭教師。受験生でさ、来年本番。女子高生相手だと、テンション合わせるのが難しい」

「順調なの?」

「まあまあ、かな。一応、この間の模擬テストでは第一志望はB判定だったらしい。あと一歩だな」

「責任重大だね」


 顔を見合わせ、二人とも小さく笑う。互いの予定を知っていることが、昔からそうだったように当たり前で、それが今日は少しだけ特別だ。


「子どものころ、覚えてる?」


 陽真が砂糖壺の蓋を回しながら言う。


「川で石投げて、どっちが遠くまで飛ばせるか競争したやつ」

「覚えてる。僕が勝ってた」

「いや、俺だろ」

「じゃあ、またやろう。今度は正式に」

「いいね。負けても泣くなよ」

「泣かない。……泣いたのは、前は君だった気がする」


 遡った記憶の向こうから、昨日のキスがふいに顔を出す。目が合う。どちらからともなく視線を外して、ラテを一口。


「さ」


 陽真が、ふっと声を整える。


「友達には、まだ言わないでおこうか」


 何を、と湊は聞かなかった。


「うん。僕もそう思ってた。まだ、二人だけの秘密にしておきたい」


 湊は少しほっとした気持ちだった。

 陽真と付き合うことになったのは嬉しいけど、それを男女のカップルのように公言するのは、まだちょっと勇気が必要だ。

 きっと陽真も、湊の気持ちを察してくれたのだろうと思う。

 秘密は息苦しさではなく、湯気みたいな柔らかさで二人の間に漂った。


 店を出ると、昨日とは打って変わって空は高い。夕陽が街路樹の葉を透かし、歩道に揺れる影模様を落としていた。人通りの多い駅前通りでは、手を伸ばせない。代わりに、歩幅を合わせ、信号の変わり目に肩を寄せ、同じ看板に同時に小さく笑う——そんな近さを選ぶ。


 手をつないだ男女のカップルが横を通り過ぎる。湊は視線を落として、横断歩道の白線を指先のように踏む。陽真はほんの少し速度を落とした。言葉にしない合意が、足元に生まれる。


 人波がふっと切れた。ビルとビルの隙間から、細い帯の夕陽が落ちている。陽真が立ち止まり、湊も止まる。

 視線が合う。どちらも、何も言わない。

 距離が、自然に縮まった。

 触れるだけの、短いキス。驚くほど静かで、誰にも気づかれないほどささやかに。


 離れた途端、湊の頬に遅れて色が差した。陽真は目尻をやわらかく下げて、囁くより少しだけ強い声で言う。


「家まで送る」

「うん、ありがとう」



 家が近づくにつれ、口数が少なくなってしまう。

 また明日、大学で会えるのは分かってるのに、離れるのが少しさみしい。

 夕暮れの住宅街、アスファルトの匂いと遠くの犬の声。

 同じ道なのに、今日だけは照れくさくて、少し誇らしい。


「……また明日」

「うん、明日」


 昨日は逃げ出した道を、今日は並んで歩いている。手はつながない。腕も組まない。けれど――


***************


今回のお話は、YouTubeの楽曲「はじめての空気 — The First Air Between Us」とリンクしています。良かったら、楽曲のほうも聴いてみてくださいね♫


「はじめての空気 — The First Air Between Us」はこちら⇒ https://youtu.be/Z-1XrMSMEP8

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る