第11話
浅い眠りから覚めて、ブルームは耳を澄ました。
降りしきる雨の音に混じってコツンコツンと何かがぶつかる音がする。
雨音どころか雷鳴すら珍しくはない雨季の夜に、普段ならこの程度で目覚めるブルームではないのだが、昨日今日と(精神的な疲労は大いにあったが)存分に身体を動かせていなかったからか、ぱっと意識が覚醒してしまったようだ。
明かりを灯してなんだろうと辺りを見回すと、コンコンッ、コンッと続けて窓の方から音がした。
開けて下を覗き込むと、雨に濡れた男がこちらに小石を投げてきていた。
「なにやってんの、お前」
「やっと起きたか。部屋、入れてくれる?」
シャイアが控えめな声でそう言っているが、深夜に玄関の鍵など開けては使用人たちにどれだけ文句を言われるか分かったもんじゃない。
待ってろと告げてブルームは予備のシーツを何カ所か結んでバルコニーから垂らした。
「お前なら上れるだろ」
「そりゃまあ、上れますけども」
不服そうな顔でシャイアがシーツを掴み、よっこいしょと言って強く引っ張った。あっという間に濡れたシーツに手を滑らすこともなく、シャイアはバルコニーの手すりを飛び越えて言った。
「こんばんは。ご機嫌いかが」
「お前、俺の部屋なんで分かったの」
と訊けば、びしょ濡れの服の裾を絞ってシャイアが答えた。
「この造りの家で窓からの景観を考えたら、この位置に使用人の部屋はまず来ないだろう? かと言って、女の子の部屋にするには物騒でしょ。お前か眼鏡の兄貴の二択だなあと思ったけど、隣の部屋、まだ明かりついてんよ。遅くまでお仕事ご苦労さんだなあと思ったから、こっちにした。こっちが兄貴だったら走って逃げてたとこだね」
あくまでものんびりした口調で言うシャイアに黙ってタオルを渡してやると大雑把な手つきで黒髪と顔を拭き始めた。
「で、実際どうなんよ。身体の方は」
「拍子抜けするほど、なんともない。暇すぎて筋トレばっかしてる」
と答えたブルームの部屋に上がり込んですぐに、シャイアは花瓶に鳶色の目を止めた。
「気っ障だ、ねえ!」
「え、お前も分かるのこれの意味」
「むしろ分からないのか、お前は。暇な貴族ってすぐこういうことしだすから、ほんとやだ。あなたの瞳と髪の色は~とかお歌でも作るんでしょ。その時間と金をもっと他に使えねえもんかねえ」
一瞬で送り主とその意図まで見抜いたシャイアに、ブルームは驚嘆のまなざしを向けた。
「すごいね、お前。俺全然こういうの分かんないから。妹に笑われて、分厚い本渡されたよ。なんとかの騎士の恋物語とかいう、たらたらした本」
「殿下、花贈り損だな。まあでも花が来てるってことは、まだ会ったりとかしてないのね」
ならよかったよ、と言うシャイアに椅子を勧めて、ブルームはベッドに腰を下ろした。
「服、着替える?」
「いいよ。どうせ帰るときまた濡れるから」
長居するつもりはないらしい。使用人が起きている時間ではないので、水差しくらいしかこの部屋にはなかったが、それはシャイアに丁重に断られた。曰く、さっきまで雨水たくさん飲んでてお腹いっぱいです、とのことだ。
「結婚の日取りとかってまだ決まってないだろうね?」
「さあねえ。とりあえず雨季が明けてからでないと、何にもできないんじゃないのか。俺、その頃ちょうど二十歳になるし、それに合わせてってのがいいだろうって兄さんが言ってた」
「あと何ヶ月もないじゃないの」
鳶色の目を丸くしてシャイアが言う。濡れて張りついた前髪が普段よりも一段濃く色づいてみえた。
「で。お前、覚悟決まっちゃったの。殿下と結婚、する気かマジで」
こーんな花なんか貰っちゃって。責めるような声音にブルームが仏頂面を返した。
「覚悟も何も。というか、俺が嫌とか言える状況じゃないみたいだ」
ようやく本音で答えたブルームに、シャイアが胡乱な目を向けた。
「今、言わなかったらこのままズルズル結婚だね。そんなぽやぽやしてて、大丈夫なの?」
「ぽやぽやしてっか、俺が?」
「思い切り、してるよ」
フンと鼻で笑ってシャイアが続けた。
「嫌って言っちまいな。というかそもそもお前、男イケる口なんだ?」
「うん? まあ俺Ωらしいしな。どうにかなるんじゃないの」
「ははっ、お前そういうとこだけ豪胆だな。まあ、まったくイケなくはないと、オレも思ってたけどねえ」
お前オレとチューするもんな。
と言われてブルームは凍りついた。
「……いや、それは、お前がするからさ」
「そうね。オレがするからね? でも嫌がらないじゃん。今まで一度も、拒否されたことないんだけど」
「お前って移民だろ。そういう文化なのかなあ、って」
その言い草にシャイアは乾いた笑いで答えた。
「どこの国の挨拶であんなエッロいチューするんだよ、というかお前は文化でそれを受け入れるのか」
「なんか変かなあとは、思ってたけど……」
「ぽやぽや、してるじゃねえの。これでもかって言うほど」
そう言われては、もう否定はできなかった。
「オレは、お前はオレが好きなんだと思っていた」
はっきりとシャイアは言い切った。
「それなのに殿下と結婚しちまうのか。おかしくないか、それは」
まっすぐな鳶色の目に射貫かれて、ブルームは赤みがかった眉を下げた。
「ええと。俺は……祝福の子、だから」
「それは聞いた。祝福の子ってのが、どうしてもαの王と結婚するってのも、聞いた。でもオレは祝福の子がどうしたいのかは、聞いてないよ。ブルーム・スカリーの意思を確認しているんだが」
「断れないんだよ」
とブルームは言った。
「断る理由が、ひとつもないんだ」
彼らしくもなく情けない声が部屋の壁にぶち当たって跳ね返った。
「嫌だって言え。嫌なもんは嫌だって」
「……嫌、ではないんだよ」
というその答えに鳶色の目がひび割れるほど大きく見開いた。
「嫌じゃねえんだ? お前、殿下と結婚したいの」
そんならもうオレは言うこともねえわ。どうぞお幸せに! と吐き捨てたシャイアにすがりつくような目を向けてブルームの唇がわなないた。
「だってお前、昨日まで命を賭けて護って来た方だぞ? 嫌いな奴に忠誠が尽くせるか? 殿下なんだぞ。お前だって近衛兵なら分かるだろ。嫌だなんて口が裂けても、言えないんだよ」
「だからそういう、断れない人間に結婚を申し込む時点でおかしくないかっての。っていうか、なに、お前殿下のこと好きなの」
「そりゃあ好きだろ。殿下のことも国王陛下のことも、皇后陛下のことも好きだ。死ぬことになっても殿下をお護りすると決めて、俺は剣を許されている」
「まあよい心がけですこと。でもそりゃ忠誠心でしょ。殿下に恋愛感情持ってたの、お前は」
「恋愛? うーん。騎士道精神なら、少々」
「キシドウセイシン……! お前ときどきあり得ない語彙ぶっ放すね。でもそれってレディファーストとかそういうのじゃなかったっけ」
とシャイアは首を捻った。
「それにお前、馬乗らねえじゃん」
もっともなそのツッコミにはブルームも黙り込んだ。乗りたくても乗れないのだ。馬は金がかかりすぎる。
「まあいいよ、お前が騎士道とやらを信奉したいなら、それは。で、その麗しき騎士道でお前の貞操はどうにかできるわけ。どんな精神構造よ、騎士道」
揶揄うように騎士道騎士道とシャイアが何度も繰り返す。
「俺の貞操? 男の貞操に価値なんかほとんどないだろ」
言い返したブルームに「ほう」とシャイアは目を細めた。
「価値ないの。へえ。じゃあそれ、オレにくれない? 喉から手が出るほど欲しいんだけど」
「……え?」
燭台をひとつ灯したきりの部屋の壁にシャイアの濡れて細くなった影が長く伸びていた。
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