第14話 「囮」

 授業準備をしていた時だった。


「田村君、少し時間をもらえるかな」


黒木塾長の声に振り返る。いつもの柔らかな笑みを浮かべているはずなのに、今日はその奥に影が差して見えた。嫌な予感が胸を締め付ける。

案内されたのは、人気のない小さな会議室だった。蛍光灯の光が机に冷たく反射している。塾長は椅子に腰を下ろし、組んだ手を静かに机に置いた。


「警察が塾に来たよ」


淡々とした口調で切り出され、息が詰まる。


「斎藤さんのアパートに人が出入りしていた、と近隣の住民から通報があったらしい」


全身から血の気が引いていく。

(やっぱり……尾行されていたのは妄想じゃなかったんだ)

心臓が耳の奥で脈打つ音を響かせる。呼吸が浅くなり、机の木目が妙にくっきり見えた。

塾長は落ち着いた声で続けた。


「誤解されると困るから、私の方から説明しておいた。『グループ会社の依頼で、斎藤さんの資料を探しに行ってもらっただけだ』とね。君に責任はない、とも伝えた」

「……ありがとうございます」


喉が渇き、声はかすれていた。助け舟を出してくれた安堵と同時に、別の恐怖が背筋を這い上がってくる。

(もし……俺が"ただの第三者"だったら、拉致された時点で警察に駆け込むのが普通だ。でも俺はそうしなかった。なぜなら、斎藤さんとあの金のことを知っているからだ。――それを教団に悟られたら……?)

胃の奥がきゅっと縮む。逃げ場のない板挟み。

沈黙に耐えかねて、俺は探るように口を開いた。


「あの……依頼してきた方々から、何か……言ってきてませんか?」


塾長は短く息をつき、ほんの一拍の間を置いてから答えた。


「ああ、そうそう、依頼者からの伝言だ。――調査はもういい、ご苦労だった、とのことだ」


柔らかな口調だったが、その言葉の意味は重く突き刺さった。

(そういうことか……俺は囮だったんだ)

斎藤のアパートに行かせたのは、資料を見つけさせるためなんかじゃない。警察が動いているかどうか、それを俺を使って確かめるのが本当の狙いだった。成果なんて最初から期待していない。

――俺は完全に「警察を炙り出すための使い捨て」だった。


 塾長は最後に「お疲れさま」とだけ告げた。その目は優しげに見えたが、奥にある本心は読めなかった。

会議室を出て廊下を歩くと、生徒たちの笑い声や靴音が遠い世界の出来事のように響いていた。

(今後の立ち回りかた次第で、警察からも、教団からも、俺は"厄介者"と思われるのでは……)

胸に残ったのは安堵ではなく、強烈な虚しさだった。

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