第13話 「振り返れば影」

 翌日。大学の講義室に座っていても、黒板の文字は頭に入ってこなかった。教授の声は確かに耳に届いているはずなのに、水の膜を隔てた向こう側で響いているようで、意味を成さない。

ペンを握った手が途中で止まり、ノートの上には書きかけの文字が宙ぶらりんのまま残った。隣の席の友人が「大丈夫?」と小声で尋ねてきたが、俺は曖昧に笑ってごまかした。

(昨日のあれ……夢じゃなかったよな)

鼻と口を布で塞がれた瞬間の薬品臭。椅子に縛り付けられた感覚。ロープを必死に擦り切った時の、皮膚が焼けるような痛み。どれも鮮明すぎて、頭から追い払えない。

講義が終わり、キャンパスを出る。普段なら他愛もない雑談をしながら帰るはずの道のりが、今日はやけに長く感じられた。背後を振り返るたび、特別怪しい人影はない。それでも、誰かがじっと俺の背中を見つめている気配がつきまとって離れなかった。

駅前に差しかかると、青いベストを着た団体が横一列に並んでチラシを配っていた。


「地域交流会のお知らせでーす」

「生活相談も受け付けていますよ」


笑顔で差し出される紙を受け取った瞬間、心臓が跳ね上がった。

――あの顔。昨夜、俺を拉致した男のひとりに似ている。

(まさか……いや、そんな……でも、似てる……!)

思わず人混みに身を滑り込ませた。チラシを握る手は汗でじっとりと濡れている。耳の奥で心臓の鼓動がやけに大きく響く。

さらに悪いことに、通りを歩く会社員風の男が、さっきから一定の距離を保って後ろを歩いている気がした。振り返ると、目が合った。ぞわりと背筋に粟が立つ。

(……つけられてる? 本当に? いや、思い込みか……?)

自分に言い聞かせながらも、足取りは早まり、息は浅くなった。通りのショーウィンドウに映った自分の姿。そのすぐ背後に、確かに同じ男が映っていたような気がして、とうとう走り出してしまった。

自宅の玄関に飛び込み、ドアを閉めて二重に鍵をかける。背中を扉に押し付け、肺が焼けるように痛む息を何度も吐き出した。

母が「おかえり、夕飯どうする?」と声をかけてきたが、まともに返事もできない。リビングを素通りして自室に籠もる。窓のカーテンを閉めても閉めても、外から視線が突き刺さるような錯覚に取り憑かれる。スマホの通知音にまで心臓が跳ねた。


 布団に身を投げ出し、頭を覆った。妄想だと分かっている。それでも――

(いや、違う。絶対に誰かが俺を見張ってる……!)

恐怖と疲労で体は重く、思考だけがぐるぐると空回りする。

――そしてこの時の俺はまだ知らなかった。

その「誰か」が本当に存在していて、すぐ近くで俺を監視していたことを。

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