第8話 「斎藤のロッカー」
控室で授業準備をしていたときだった。プリントを探そうと適当な机の引き出しを開けると、小さな鍵が転がっていた。銀色のキーに「斎藤」と書かれたプレートが付いている。
「……斎藤さんの?」
心臓が跳ねた。ロッカーはそれぞれの講師が自分で鍵を管理しているはずだ。その鍵を見た瞬間、斎藤の顔が脳裏に浮かんだ。
机に戻すべきか、一瞬迷った。だが頭の中で直感の声が響く。
(斎藤さんがなぜ俺に金を振り込んだのか……答えがあるとしたら、この中だ)
気づけばロッカーの前に立ち、鍵を差し込んでいた。
――カチリ。
乾いた音とともに扉が開く。
中には事務書類や文房具が雑然と詰まっていた。その奥に押し込まれていた分厚い封筒を取り出す。
封を開けると、硬い紙が現れた。表紙には見慣れぬシンボルマーク。そして大きく印字された文字。
「入信証明書」
息が止まった。ページをめくると「斎藤ゆかり」の署名と、教団内部での身分を示す記載。
(……斎藤さんは例の教団の人間だったんだ)
全身に熱がこもる。その時、廊下から足音が近づいてきた。
慌てて封筒を戻し、扉を閉めて鍵をポケットに突っ込む。
直後に同僚が顔を覗かせ、「準備早いな」と言って去っていった。
――危なかった。
帰宅後、母が用意してくれた夕食の味はほとんど分からなかった。自室に戻るとすぐに銀行アプリを開く。残高は相変わらず数億円。そして振込人の欄には「サイトウユカリ」。
「……なんで俺の口座に?」
答えの出ない問いが、部屋の空気を冷たく揺らしていた。
第9話「麻痺する感覚」
昼過ぎ、母が冷蔵庫を覗き込みながら言った。
「今夜は煮物にしようと思ったけど、ちょっと食材が足りないの。買い足してきてくれる?」
財布の中は千円札が数枚。足りない。仕方なく駅前のATMに立ち寄った。
カードを挿し込み暗証番号を押す。残高が表示される。
――相変わらずの数億円。
(いや、違う。今下ろすのは俺の元々の金だ。給料や仕送りを引き出すだけ……そういうことにしておこう)
言い訳を頭の中で繰り返しながら、少額を指定する。
(警告が出るんじゃないか。銀行員が飛んでくるんじゃないか)
妄想が脳裏をよぎるが、機械はいつも通り紙幣を吐き出した。
(……大丈夫…)
胸に安堵が広がる。その一方で、心の奥に嫌なざわめきが残った。
それからも必要に迫られるたびに少額を引き出した。母の買い物の足し、友人との外食、コンビニでの支払い――どれも日常的な出費ばかり。
――気づいた時には、すでに百万円近く減っていた。
その夜、スマホで残高を確認した瞬間、背筋が凍った。
(大きな買い物なんてしてない。ただ普通に生活しただけなのに……なのにこんなに減ってる)
画面の数字が無機質に光り、俺を責め立てる。
「最初は怖かったのに……今は平気で下ろしてしまってる」
「麻痺してる……金を使う感覚が」
自分の声に、自分自身がゾッとした。
「どんな金かも分かってないのに…返せない。もう取り返しがつかない」
その呟きが部屋に重く響いた。
居間に戻ると、テレビのニュースが流れていた。
『地域再開発に宗教法人が参画』
画面にあの青いベストの団体の映像。母は「へぇ、そんなこともあるのね」と軽く言っただけで話題を変えた。
だが俺の箸は止まったままだった。
(斎藤さん、あの振込、そしてこの団体……全部が同じ線で結ばれてる気がする)
煮物の味は、最後まで何ひとつ分からなかった。
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