第6話 「紙幣」

 朝の食卓。母が何気なくつぶやいた。

「今日は特売の日だから、多めに買い物したいんだけど……財布の中が心許なくて」


普段なら聞き流す一言。だが俺の心臓はどきりと跳ねた。

「じゃあ……俺の口座から下ろしてくるよ」


声が硬いのを自分でも感じたが、母は「助かるわ」と微笑んだ。

何気ない会話のはずが、“あの残高”を思い出すだけで背中に冷たいものが走る。


駅前へ向かう道。電柱や店先のポスターが目に飛び込む。

「特殊詐欺に注意」

「不審な振込は通報を」


見慣れた街並みのはずなのに、今日はすべてが異質に見えた。人々の視線が背中に突き刺さるようで、何度も振り返る。もちろん誰も俺など気にしていない。


ATMの前に立ち、カードを差し込む。暗証番号を打ち込む指が小刻みに震えていた。

(この瞬間、警告が出るんじゃないか……後ろから行員が飛んでくるんじゃないか……)

妄想が頭を支配する。


引き出し希望額は五千円。普段なら気にも留めない額。

だが画面にはやはり、常識を踏み越えた数字――数億円が冷たく光っていた。

ゼロの行列に体が固まる。額に汗がにじみ、呼吸が浅くなる。


無機質な機械音とともに、紙幣と明細票が吐き出された。

誰にも咎められず、淡々と差し出される現金。


振り返ると、後ろの客はスマホに夢中で俺を見ていない。

手にした紙幣の重みが妙に生々しく、逆に足がすくんだ。


(普通に下ろせる……ってことは、これは俺が正当な持ち主ってことなのか?)

そんな考えがかすめるが、すぐにかぶりを振る。

「いや、絶対に違う。これは間違いに決まってる」


帰宅すると、母が買い物袋を抱えて笑顔を見せた。

「ありがとう。本当に助かったわ」


俺は机の上に紙幣を置き、しばらく見つめた。

千円札も五千円札も、誰もが日常で使うただの紙切れ。

だが俺の目にはどす黒く汚れたものにしか映らなかった。


財布に入れることができず、紙幣は机の引き出しへと放り込んだ。


夜。布団に横になっても眠れない。まぶたを閉じればATMのゼロが鮮明に浮かぶ。


「使えるのに……使えない」

「ただの紙幣のはずなのに……俺はとんでもないものを抱えてるんじゃないか」


心臓の鼓動が耳の奥でやけに大きく響く。

静かな部屋の中で、数字の影だけが消えずに俺を見つめ続けていた。

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