第3話


 

 副官が酒を注いで去って行く。部屋には二人だけになった。


賈詡かく将軍。此度は、私のことで多大なご迷惑をお掛けしました。

 牢から出していただいたことは感謝しておりますが、身を慎むべきなので私は酒は……」


 徐庶じょしょがそんな風に言うと、先に座って酒を一口飲んだ賈詡が苦い顔をする。

「うるさい。いいから座れ。お前のような奴と話すのに酒無しでやってられるか」

 悪態をつかれ徐庶は頷くと、着席した。

「では、少しだけ」

「ああ」

 徐庶は一口酒を飲んだ。

 

 思えばこいつは魏に来た時から心を閉ざして、付き合いも閉ざして、能力を発揮することもなく埋もれたままになっているから、酒のようなことを一つ取っても、それを好むのか、どれくらい飲めるのか、そんなことすら分かっていない。


「今更何を聞いても気を変えて牢にぶち込んだりしないから正直に答えろ。

 今回のことがどういうことであれ……自分の足でお前は魏の砦に戻って来た。

 ならば魏軍の為に働く意志があるということだな?」


「いずれは軍を去り、学びの道に戻りたいと思っていますが、正式な許可を頂いてそうなるよう、尽くすつもりです」


曹孟徳そうもうとくはお前の軍師としての才を評価して長安ちょうあんに呼んだ。

 政治家としてはお前は並だし特別光るところはない。剣の腕だって高が知れてるだろう。

 お前が魏軍で重んじられる理由はただ一つ。戦術家としてだ。

 優れた軍師とは戦いの一局で物事を考えん。

 郭奉孝かくほうこうを見てみろ。

 あいつは頭の中で何面もの局面を展開し、曹魏と今後の大陸の情勢の先の先まで読んだ上で、最善の策を選んでる。

 曹魏での未来を考えられない奴が、どうして優れた軍策を魏の為に考えられる?」


「……。」


「俺だって死ぬまで魏軍にこき使われたいなんて思ってない。膝が痛くなるジジイになるまでに稼ぐだけ戦功を稼いで、晩年は優雅に都で過ごすつもりだ。

 いつまでも永遠にそこにいることなんて、この世の大半の凡人は出来っこない。

 だからお前がいずれどこかに去りたいと思ったとして、今、必死に魏軍に尽くせるならそれでいい。

 いずれ去るつもりだとか、そんなことは口にする必要もないことだ。

 不信だけが増すからお前が今、裏切りや不忠を考えていないのなら、たまには一回くらいどんな任でもこの私にお任せ下さいと言ってにっこり笑うくらいして見せろ。

 味方も籠絡出来ない奴がどうして敵を籠絡出来るって言うんだよ」


 賈詡は顔を顰めて心底嫌そうに言った。

 だが前ほど、言葉に棘を感じなかった。

 

 何でも正直に口にする徐庶の悪癖を心底愚かだと思いながらも、戻って来るとは思っていなかったのだろう。


 貴方は心を偽るべきじゃないと言っていた陸議の言葉を思い出した。


 ……確かにそうなのかもしれない。



「申し訳ありません」



 心の中で苦笑したが、軍務に関わることなので笑えば賈詡の癇に障るだろうと思い、笑みは表面に出さなかった。

 深い溜息が聞こえる。


「もういい。

 お前の新しい任務だが、江陵こうりょうに向かってもらう」


 さすがに予期していなかったのだろう、徐庶の顔に驚きが出た。


「江陵……」

「それはそんなところに自分が行って、今、何が出来るんだろうかの顔か?」

「……はい」

「まあそうだな。江陵の状態は三国で拮抗してる。

 他が動いたならともかく、魏が敢えて先手を打つかどうかは別の話だからな。

 安心しろ。軍事行動じゃない。偵察だ」


 偵察と聞いて、徐庶は少し納得した。

 彼自身軍を任されて率いるより、単独行動で探りを入れて来いと言われる方が気が楽である。 

 しかし賈詡は釘を刺すのを忘れなかった。

「勘違いするなよ」

 飲め、と無言で強い目で圧を押しつけて来る。

 徐庶はもう一口飲んだ。


「江陵の情報は今後の三国の様相に関わる非常に重要なものだ。

 それを、お前のようにその時の気分で得た情報を出したり引っ込めたりする奴は、密偵としても信頼出来ん」


 一瞬、賈詡は強く睨み付けて来る。

 しかしやがて目を伏せ、酒をゆっくり飲んだ。


「――馬岱ばたいのことだがな。

 確かに、俺は出てった時は奴を追って捕まえられる自信もあったんだが撒かれた。

 奴が俺の追撃をどうやって躱したか分かるか?」


「いえ……」


「『止め足』だ。林の中で止め足を使って、自分の足跡を消し、平原に出て一気に突破した。

 複雑な足の動きをする馬でそんなことをする奴は、涼州に詳しい俺でも初めて見る。

 神業のような騎馬術だ。

 あいつは思ったより、使える奴だったかもしれん。

 従兄のように徹底抗戦をして来たら、こっちも容赦なくやってやるつもりだったが……そんなことをして来る発想が面白くてな。魏の砦から逃げたことは許してやることにした」


「……。」


「今となっては無意味な話だが。俺はあいつを魏の間者として使ってみたかったんだよ。

 間者かんじゃといっても程度は様々だ。重要な暗殺などを担う奴は、人質を取ってでも裏切らないように仕立て上げるが、みんながそうじゃない。

 中には他国に潜ませ、定期的に情報を向こうから送らせて、こちらにとって利のある情報をもたらした時だけ報酬を払うような者もいるし、中には、ほぼその国の人間として自由に暮らしながら、縁だけ潜ませておくような者もいる。

 そういうものはいざという時に機能すれば儲けたような存在で、ある意味で魏の手駒ですらないかもしれない。

 だがその国に接触を持つ時に、こいつらがいるだけで足がかりになることがある。

 これは軍事だけじゃなく商売でもそうだが。


 俺は馬岱ばたいは、そういう使い方をしてもいいと思っていた。

 人間として面白いと思ったからな。


 別に魏に有益な情報をもたらさなくとも、罰したりはせん。

 こちらに何をもたらすかは全て馬岱の方が決めていい。

 俺としては、時折奴から来る情報を見ながら意外に面白いのか、間者としては全く才の無い奴だなどと悪口を言いながら飲むのも楽しかったしな」


「……。」


「お前はもっと物事の清濁併せ呑む器量の広さを持て。

 お前はただひたすら俺から馬岱ばたいの奴を隠し、遠ざけたが。

 そうすることで俺と奴は敵対するしか道が無くなった。

 お前は馬岱と交友があったが、魏の人間だって場合によってはお前と同じ関係を築ける。

 あいつは面白い奴で、殺して得は何も一つ無いと俺にお前が思わせることが出来れば、例え奴が涼州の民で馬超の従弟だろうと、話し合いは出来る。

 白と黒だけに人間を分別するな。

 人間ってのはもっと複雑で、面白いものなんだから」


「……申し訳ありません」


 賈詡は小さく息をつく。


「そういう、人間の多彩な色を楽しむってやり方を、曹魏で最も上手くやるのが郭奉孝かくほうこうという男だ。奴の側で、そういうものを少し学んで来い」


 徐庶は驚いた顔をする。


「では郭嘉かくか殿が江陵こうりょうに?」


司馬懿しばい殿の考えが発端だが、郭嘉も今はあの地に興味を持ってるからな。なんだ?」

「いえ……その、ですが私はあの方にはあまり好かれておらず……私を伴うなどあの方が嫌がるのではと」


「安心しろ。お前は曹魏じゃほとんどの人間にあんまり好かれていない。

 それに江陵にお前を連れて行くことは郭嘉は了承済みだ。せいぜい好き勝手やった涼州での罰を受けると思って、奴にこき使われて苛められて来い」


 郭嘉が自分を伴うのを許可するとは思っていなかったので、意外だった。


「曹魏でお前に好意的に接するのなんざ、陸議りくぎ司馬孚しばふくらいだ」


 徐庶は賈詡を見る。


「お前とは逆に、郭嘉は陸議の涼州での働きを高く評価してるんだよ。

 今までは司馬懿殿の副官の域を出なかったからな。一度任を解き、陸議が一人でどこまで考え行動出来る人間か、見極めたいと言ってる。

 よって郭嘉は江陵行きの副官に陸議を指名した。

 司馬懿殿にも許可を貰い、もうそういう方針に決まってる。

 どっちも深手を負ってるから、まあ動けるようになってからだが」


「陸議殿が……」


「陸議の武官としての能力は張文遠ちょうぶんえんも評価していた。

 だから郭嘉の護衛としての働きも期待してる。

 いいか、徐庶。お前は今回の任務は郭嘉と陸議の護衛だ。

 お前自身が何かを考えて行動など一切しないでいい。

 郭嘉は元より、俺はあの陸伯言りくはくげんも、もしかしたら今後魏軍において重要な任を受けることになる逸材かもしれないと思ってる。

 江陵を刺激するわけにはいかんから大層な手勢は連れて行けない。

 あの腕白な坊やは陸議と二人だけで江陵を見て来るとか言ってやがるが、それはいかにも不用心なんでな。

 お前を護衛に付けるから、しっかりと二人を守ってやれ。


 言っておくが陸議も郭嘉も相当手練れだ。

 お前みたいにちょっとだけなら剣も使えますみたいな奴より、恐らくあの二人の方が剣の方は出来るし、お前のようなヒョロヒョロの奴が護衛なんて、俺なら怖くて夜も任せて寝られんが、一人旅が長いなら、火の番くらいは出来るだろ。

 いいか。例えお前が死んでもあの二人を必ず無事に許都きょとに戻せ」


「……承知しました」

「お前の承知しましたは覇気がなさ過ぎて信用出来ん」


 賈詡が嫌そうな顔をした。

 徐庶は身を正し、改めて承諾する。


「あのお二人が俺とは違い、未来の曹魏にとって大切な存在になって行くことはよく理解しています。命に替えてもお守りします」


 徐庶が拱手きょうしゅすると、賈詡は深く溜息をついた。


「まあそういうことだ。

 いずれ郭嘉から直に話が行くだろうから、お前も江陵については事前に調べられるだけのことは調べて頭に叩き込んでおけ。

 郭嘉になんか聞かれて答えられずアワアワ狼狽えるだけとかだったら情けないからな。 言っておくがすっかり江陵に行く気になった郭嘉の部屋は今、凄いことになってるぞ。

 日に日に地図だの資料だのが増えてえげつない知識を叩き込んでるから、生半可な知識じゃ『そんなことも分からないんだね』って輝くような腹立つ顔で嫌味言われるからな。

 それが嫌ならよく勉強しとけ」


「はい」


「話はそれだけだ。お前の顔を見ながら酒を飲むと、全く美味くないからとっとと出て行ってくれ」

「はい。失礼します」




「徐庶」




 一度だけ賈詡は呼び止めた。


「お前はこの涼州で、随分俺を怒らせてくれたが。

 俺はこの通り温和なたちだから、今もお前の首と胴は繋がってる。

 いいか。俺だからだ。


 ――郭嘉を決して本気で怒らせるな。笑い事で済まんぞ」




 徐庶は頷き、もう一度拱手をして退出した。




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