記憶の保管庫
フシサバ
第1話 感情の不在
世界は、まるで静止画のように穏やかだった。
都市を覆う白いドームは、常に一定の光を放ち、時間や天候という不確かなものをすべて均一にした。人々は規則正しいリズムで動き、言葉に抑揚はなく、表情はみな同じように無機質だった。感情は、人類が進化の過程で捨てた、不要な荷物だった。
僕の名前は、ハルト。職業は「レポジトリ」の端末管理者。レポジトリとは、個人が過去に経験した感情のすべてをデータとして保管する、巨大な施設だ。僕の仕事は、毎日膨大な量の感情データをチェックし、不要なものを処理していくこと。具体的には、ネガティブな感情データ、例えば「絶望」や「憎悪」といったものが一定量を超えたら、それをまとめて廃棄する。
もちろん、ポジティブな感情も同様だ。「喜び」や「愛」も、過剰になると合理的な思考を妨げるため、定期的にリバランスされる。誰もが同じように穏やかで、同じように無気力な、まるでバッテリーが減りきったロボットのような世界。それが、僕たちの日常だった。
ある日、僕は廃棄リストに上がった古い感情データの中から、奇妙なノイズを見つけた。他のデータがどれも曖昧な光の点滅であるのに対し、それはまるで燃え盛る炎のように激しく、強い輝きを放っていた。
データID:#109968
所有者:不明
感情種別:狂愛
備考:過剰な感情によりシステムが不安定化。廃棄対象。
狂愛。そんな言葉、僕の頭の中には存在しなかった。教科書で「過去の人間が経験した極度の感情」として学んだことはあるが、それがどんなものかは想像もつかなかった。
僕は興味本位で、そのデータを端末にロードした。警告音が鳴り響き、廃棄リストから外すことを促すメッセージが点滅する。それでも、僕は手を止めなかった。
画面に表示されたのは、一人の女性の顔だった。彼女の瞳には、僕の知るどの人間とも違う、激しい光が宿っていた。それは、僕の心を直接鷲掴みにするような、強烈なエネルギーだった。彼女の表情は、怒りにも似ていて、悲しみにも似ていて、そして何よりも、途方もない熱量を秘めていた。
「どうして……」
僕は無意識のうちに、声に出して呟いた。
「どうして、君はそんなに……」
僕の胸の奥で、何かが脈打つような感覚がした。それは、生まれてから一度も感じたことのない、奇妙で、恐ろしく、そしてどこか懐かしい響きだった。
その時、僕の背後から声がした。
「ハルト、何をしている」
上司の冷たい声だった。
僕は慌てて端末を閉じようとしたが、もう遅かった。画面には、僕の端末が「狂愛」のデータをロードし、システムに干渉しているというログが表示されていた。
上司の表情は変わらない。だが、その声は一層冷たく、僕の背筋を凍らせた。
「君も、そろそろ廃棄されるべきかもしれないな」
その言葉は、僕がこの感情を追い求めることを決意させる、決定的なトリガーとなった。
この世界に感情はない。だから、この感情が何なのか、僕は知りたい。
この、胸を締め付けるような、この奇妙な痛みが、何なのかを。
そして、この「狂愛」の持ち主は、一体誰なのか。
僕の知らない、この世界の真実が、そこにある気がした。
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