無辜の蹉跌(むこのしっぱい)
長尾驢(黒)
第1章 光を追う者、影を纏う者
第1項 紋無しの決意
黄金の小麦畑に、二人の姿があった。
白い仮面を纏う男は「影の宰相」と呼ばれ、灰青色の髪の女は「灰燼の梟」と恐れられる。
だが、この二人の物語が、紋無しの農家の息子と、家族に捨てられた少女から始まったことを...今は誰も知らない。
第1項 紋無しの決意
夏の陽が西の空へと傾きかける頃、黄金色に実った小麦畑に長い影が落ちていた。伊佐岡ルーカスは、父の背中を見上げる。幾度となく風雨に晒された古びた背中には、この地で生きることの重みが刻まれていた。
「今年は、豊作になりそうだな」
父の言葉は、まるで自分に言い聞かせるかのような響きを持っていた。しかし、二人とも知っていた。どれほど豊かな実りがあろうとも、紋無しの家の暮らしは変わらない。父の左手の甲は、ルーカスの手と同じように何も刻まれていない。
紋章なき者は魔石の力を引き出せない。村で耳にする噂では、魔石を使えば常人の何倍もの力を発揮し、刀傷さえ瞬く間に癒すという。だが、そんな奇跡のような力も、紋章を持たぬ自分たちには永遠に手の届かぬ夢物語でしかなかった。この空白の手の甲は、世界から取り残された者の印だった。
ルーカスは自分の左手を掲げ、夕陽に透かすように眺めた。空白の手の甲。そこには何も宿らない。けれど、そこに何かが刻まれたところで、自分という存在の虚しさが埋まるものだろうか。彼はそう考えていた。
風が小麦畑を撫でていく。その音に紛れるように、ルーカスは小さく呟いた。
「兄貴は朝から晩まで畑を耕し、弟は刀鍛冶として仕送りまでしてくれている」
ルーカスは自分の手を見下ろした。兄の様な体力も、弟の様な器用さも持ち合わせていない。何度畑に出ても、兄の半分も仕事が進まない。かといって、細かい仕事をする器用さもない。
「俺だけが、何の役にも立てずにいる」
風が小麦を揺らす。その穂の重さを見ながら、ルーカスは思った。この土地に留まっても、自分は家族の足手まといにしかならない。それならば...
「俺さ」
長い沈黙の後、ルーカスは意を決したように口を開いた。麦穂の匂いと夕暮れの心地よい風が、彼の決意を見守るように漂っている。
「昔から紋無しなのが嫌でさ。王の衛兵になれば紋章も入れてくれるし、誓約の褒賞って着任報奨金も貰えるんだ。一挙両得だと思って...その報奨金を送らせてもらうよ」
言葉を紡ぎながら、ルーカスは父の表情を窺った。そこには息子を失うことへの不安と、その決意を認めざるを得ない諦めが交錯していた。父は畑から目を上げ、初めてルーカスの顔を真っ直ぐに見つめた。夕陽に照らされた父の顔に、言葉にならない思いが浮かんでは消えていく。
長い沈黙の後、父はふと遠くを見るような目をして、静かに口を開いた。
「もし仕事から逃げたくなって、ここにも戻れないと思ったときは...」
父の声は、乾いた土を打つ雨のように、柔らかく沁みるものだった。
「嵐谷という場所を覚えておくといい。山脈と湖に囲まれた大きな渓谷だ。紋無しでも受け入れてくれる土地らしい。四十年前の大型侵攻大敗以来、王都からは忘れられ、領主たちは逃げ出すか名ばかりの統治しかしない。だが、土は肥えていると聞いた」
父の目が、一瞬だけ潤んだように見えた。
「誰も真剣に向き合わない場所だが、だからこそ、居場所がなくなった者たちの避難所になっている。必要になれば...思い出せ」
風が吹き、小麦畑がさざめくように揺れた。その音は、父の言葉が心に沈んでいくような柔らかな伴奏だった。
日が落ちた後、月明かりだけが広がる夜の畑で、ルーカスは一人佇んでいた。頭上には無数の星が瞬き、あまりにも広大な世界の片隅で、彼は自分の存在の意味を問い続けていた。
いつも「そこにいる」だけの存在、誰の記憶にも残らない影のような自分。だからこそ、何かを変えたいという思いが心の奥底で日に日に強くなっていった。遠い街の喧騒が、彼の心を引き寄せる。もしかしたら、そこには違う未来があるのかもしれない。
月光に照らされた左手を見つめながら、ルーカスは思う。紋章を持つこと、それは単なる身分の証ではなく、この世界に確かに存在する証。そして、もしかしたら英雄になれるかもしれない。その思いは不確かでありながらも、確かな希望として彼の胸に灯っていた。
銀の月が照らす小麦畑を後にして、ルーカスは家路についた。明日からは全てが変わる。あの透明な存在感から抜け出し、誰かの記憶に残る人間になるために。
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