誰がために、花は咲く

星路樹

誰がために、花は咲く

第一話

放課後の二年生の教室に西日が差し込む。

机に突っ伏して寝ている福山しおりを横目に、帰野玖郎は静かに教室を見渡していた。


「さて、今日はどんな謎が俺を待っているのか……」


静かに、しかし鋭く。彼の目は教室の隅々まで行き届いている。ふと、玖郎の視線が一箇所に止まった。チョークが一本足りない──その瞬間、彼の胸に事件の匂いが漂った。


がたん、と椅子を引く音が教室に響く。しおりがかすかに顔を上げる。


「見ろ、チョークが一本消えている」


玖郎は黒板の上を指差した。

「これは偶然ではない。つまり、誰かが意図的にチョークを──」


「“消した”? チョークを? どうやって?」しおりは半信半疑だ。


さっきまで寝ていたしおりは、ゆっくりと席から立ち上がる。ショートボブの明るい茶髪をかき上げ、耳には花のピアス、薔薇のネックレス。目尻にはきらりと光るラメが少し。元々のややキツめの目鼻立ちが、さらに際立っている。制服はミニスカートにベルトを留め、ネクタイは少しゆるめ。指にはリング型文具アクセ、腕にはシルバーのリング、ほんのりピンクのネイル──派手な印象だが、意外にも新聞部に所属している。本来なら近寄りがたい印象だが、どこか親しみやすい。それがまさに福山しおりという存在そのものだった。


「玖郎、ただのチョークじゃろ。チョークがなくなっただけで事件なん……?」しおりが呆れた顔で言う。


「うむ、そういうことになる……」玖郎は微かに笑みを浮かべる。


「しおり、これはただのチョークではない。白だ」


「チョークって、だいたい白じゃろ?」


その瞬間、教室のドアがガラッと開き、掃除当番の山口が顔を出した。


「すみません、それ僕が落としました」


教室中が静まり返る。


「山口くん?」


「掃除中に黒板を消してたら上から転がって落ちちゃって……なんか粉まみれだったし、捨てちゃいました」


「……え、事件…終わり?」しおりが小声で尋ねる。玖郎は黙って山口を見つめた。


「いや、違うな。これは始まりに過ぎない……!」


山口は首を傾げる。


「いや終わりじゃろ? 今ので! 解決したじゃろ!?」


しかし玖郎の目は、机に置かれたチョークを鋭く見つめていた。


「──それがトリックだとしたら?」


「いや、ないけぇ……」しおりは額に手を当ててあきれた顔をする。


「おかしい、あまりに出来すぎている。“事件を終わらせようとする偽装”かもしれない」


彼の言葉に、しおりはため息をついた。


「このチョーク……通常、学校で使用されるのは“標準型白チョーク”だ」


だがその断面は、通常よりわずかに細い──ほんの1ミリ。


「つまり、このチョークは外部から持ち込まれた特注品の可能性がある」


「ないけぇ!」


「これは“誰か”が学校の中に自分の存在を残そうとした痕跡だ。白チョークは“無垢”“純白”を意味する。つまり……メッセージだ」


「どんなメッセージなん……?」しおりが首を傾げる。


玖郎は机の引き出しから一冊のノートを取り出した。中にはびっしりと、過去に“未解決事件”として勝手に分類した内容が書き込まれている。


「これはな……過去のチョーク消失事件の記録だ」


「過去にもあったん!?」


「全102件。金〇一なみじゃあ!」


ノートを掲げる玖郎。


「この事件の裏には、黎進学園の七不思議のひとつ、“チョーク男”の存在があるのではないか……?」


「聞いたことないんじゃけど?」しおりが首をかしげる。


「この男、どこにでも現れてはチョークをひとつだけ持ち去る。通称“ホワイトジャスティス”。目的は不明。ただし目撃談によると、彼は全身真っ白なジャージを着て、いつも鼻歌を歌っていたという……」


「それ、山口くんじゃないん?」しおりが笑う。


「違う、これは伝説だ。都市伝説に繋がってくる」


山口はそっと手を挙げる。


「ほんとに僕が掃除中に落としただけなんですけど……」


「黙ってろ、“チョーク男”!」


放課後の教室に静寂が戻る。黒板に残された粉を指でなぞりながら、玖郎は言った。


「見たまえ、この粉の散らばり方……まるで、何かの暗号のようだ」


「ただの掃除の跡じゃないん?」しおりは呆れる。


「いや、これは“白亜紀の暗号”だ! チョークは石灰岩から作られる。石灰岩は白亜紀の海洋生物の死骸が堆積してできたもの。このチョークには太古の記憶が宿っているのだ!」


「無理やりすぎるじゃろ!」


そのとき、黒板の消した跡が目に入る。「『チョーク返せ』と書かれている!」


「まぁ、確かにそう見えないこともないけど……」


「いや、これは“チョーク男”からのメッセージだ!」


「もういい加減にせぇや!」


「この筆跡……どこかで見たことがある。始まったな……“チョーク男”との心理戦が」


「いや、もう終わっとるけぇ!」しおりは全力でツッコミを入れる。


「わからんのか、しおりくん……これは予告状だ」


「チョーク返せだと? 奴め、次は何を企んでいる……?」


「それ、担任の藤井先生が書きました」山口が申し訳なさそうに言う。


「え?」二人は顔を見合わせる。


「授業の後に当番が黒板を消し忘れて……」


「よく見ると、『チョーク返せ』ではなく『チョークをけせ』じゃ」しおりが小声でツッコミ。


「つまり……藤井先生が“チョーク男”だというのか……!」


「当番が忘れただけじゃろ!?」しおりは呆れ顔。


玖郎は机に座り、真剣に考え込む。


「いや、その……当番の行動すら“何者か”に仕組まれていた可能性もある」


「まだやるん!?」


「全てが偶然にしてはあまりにも出来すぎている。だから……当番が……この事件の真相は、“誰か”が我々に気付いて欲しいというサインだったのかもしれない」


「……あのさ、玖郎、そもそも“チョーク男”はなんでチョークを盗むん?」


「決まっている。“白”にしか書けない“真実”がこの学園に隠されているからだ」


「どういうことなん?」しおりが少し興味を示す。


「ホワイトボードには書けない……紙にも書けない……唯一“黒板”にだけ書ける秘密の暗号が……!」


「……それ、普通に先生が書くやつじゃろ?」


「いや、違う。これは“黒板に宿る意志”だ」


しおりはそっと山口に小声で尋ねる。「もう、これ止めんでいいん?」


山口は小さく頷く。「もう好きにさせときましょう……」


「よし、しおり、山口くん。我々は“チョーク男”の残した手がかりを追う!」


「いや、誰もついていくとは言ってないんじゃけど!」


「まずは理科準備室だ。そこに“白”の秘密が隠されているはずだ」


「なんで理科準備室なん?」


「白い粉と言えば……そう、炭酸カルシウム。炭酸カルシウムといえば石灰岩。石灰岩といえば理科準備室!」


準備室のドアをズバン!と開けると、誰もいない部屋の隅にひときわ白く輝く箱が置かれていた。開けてみると、中には大量の白チョークが詰まっている。


「見ろ! チョークの山だ!」


「いや、これ先生たちが使う予備のやつじゃろ?」しおりは首をかしげる。


「なるほど。つまり“ここ”がチョーク男のアジトだったのか」


「いや、普通の保管場所じゃろ?」


「わからないのか、しおりくん。ここに集められた白チョークには全て“メッセージ”が刻まれているのだ。そして、このチョークの並び方が意味するものは……」


玖郎はチョークの山を分析する。「ほう……この山の形……アルファベットの“J”に見える……!」


「いや見えんしぃ!」しおりは呆れる。


「“J”……それはJustice《正義》……チョーク男の別名、White Justice《ホワイトジャスティス》の頭文字……」


「強引すぎるし……それに頭文字ならWhiteの“W”じゃろ……」


「正義を背負う者は、いつも孤独だ……」


しおりはじっと玖郎を見る。


「玖郎……なんのために事件追っとるん?」


「……そこに事件があるからだ」


しおりはくすっと笑う。


「……ほんま、そういうとこ、昔から変わらんね」


「しおり、いや探偵助手……いつもありがとう」


「……別に、暇じゃっただけじゃけぇ……」


◆◆◆

一年生の頃――。


春の朝、通学路を歩く福山しおりの耳元で、小さな花型のピアスがきらりと光っていた。


「福山さん。校則、読んでますか?」


背後から、風紀委員の女子が声をかける。細めた目は真剣で、指先はしおりの耳をまっすぐに指した。


「ピアスは禁止されているはずです。反省文を提出して、明日からは外してください」


きっぱりした口調に、しおりは何も言えず、ただうつむいた。


その時――。


「待ってくれ」


低く鋭い声が割り込んだ。


帰野玖郎だった。真剣な顔つきで、風紀委員の前に立ちはだかったのだった。


◆◆◆

 その春、一年生になったばかりのしおりは、黎進高校の制服にはまだ慣れていなかった。


 ブレザーの袖は少し長く、歩けばスカートの裾が落ち着きなく揺れた。校門をくぐるたび、世界が急に広がっていく気がして、しおりは少しだけ背筋を伸ばした。耳には、銀のピアス。入学祝いに買ったばかりのものだ。


「しおり。学校にピアスって、怒られないのか?」


 後ろから声をかけてきたのは、幼なじみの帰野玖郎だった。


 その声がどこか楽しげで、しおりはついむすっと口をとがらせる。


「……成績ええけえ、ええんよ。ルール上はね」


「ふうん、成績で服装自由ってやつか。やれやれ、お堅いようで案外フリーダムな学校だな」


「ええ学校じゃろ」


 二人は幼馴染だが、一年のクラスは別。会話は主に登下校か、校舎裏の自販機の前で交わされることが多かった。


 ある日の放課後、しおりは珍しく、その校舎裏のベンチに一人で座っていた。


 両手を膝にのせ、髪を耳にかけながら、どこか浮かない顔。


そこへ玖郎がやってきて、缶コーヒーをひとつ、しおりの隣に置いた。


「……失恋か?」


「は?」


「いや、ピアスが銀色だったから」


「どういう推理なんよ、それ……」


「銀は“未練”の色。だから、何か吹っ切れんことがあるのかと」


「……そんな意味、あるん?」


「いや、いま考えた」


 しおりはしばらく無言で、缶を手に取った。


 それからぽつりと、こんなことを言った。


「この前、みほ先輩に言われたんよ。“似合ってない”って」


「……先輩って、あの新聞部の?」


「うん。……でも、あの人、私のこと見てた。前よりずっと、ちゃんと」


 風が少し吹いて、しおりのピアスが光を反射した。


「玖郎、薔薇の形のピアスって、どう思う?派手かな?」


「……ああいうの、似合うやつって、強いよな」


「え?」


「似合うって意味だよ。しおりに」


「…なにようんな…」


 しおりは、なぜか少しだけ顔をそらした。


◆◆◆

 ──あの日の昼休み。

 校舎の屋上。

 

 しおりはひとりで弁当を食べていた。


 今日は風紀委員に注意された。


 そして、玖郎に助けてもらった。


 玖郎とは幼馴染だがクラスは違う。 


 派手な格好だからか周りと距離感があるように思う。


 このクラスでうまくやっていけるんだろうか──。 


 屋上に風が吹き込んで、しおりの髪がふわっとなびいた瞬間――


「あ、花だ」


 後ろから声がかかった。


「……は?」


 しおりが眉をひそめて振り向いた。


「いや、耳……その、ピアス。花の形してるんだなってな」


 自分でも驚くくらい、素の表情をしていたと思う。


 うちは、それから笑った。


「……気づいたん、あんただけじゃわ。今日、初めて着けてきたんじゃけど」


「そうなんだ」


「まあ、わかる人にはわかるんかもね。これ、うちが自分で選んだやつなんよ」


 その言い方に、なんだか誇らしさが滲んでいた。


 玖郎は、言葉を選ぶようにゆっくり言った。


「しおりらしくていい。……似合ってると思う。薔薇の花のピアス」


 しおりは一瞬、目を見開いて、それからちょっとだけ頬を赤くした。


「――なんなん。カッコつけてるつもり?」


 短くそう言って、またそっぽを向いた。


 でもその後、ずっと耳の花が、光の中できらりと揺れていた。


 玖郎は無言で缶コーヒーをもう一本差し出した。しおりはそれを受け取りながら、ふと尋ねた。


「……なあ、なんで“強い”って言うたん?」


「ん?」


「昨日の。『似合うやつは強い』って。どういう意味なん」


 玖郎は少しだけ考えるふりをしてから、答えた。


「他人の目、気にせんってことだろ。誰かにどう言われても、自分が似合うって思えるなら、それは強さだ」


「……そういう玖郎も、強いん?」


「俺は臆病だよ。だから、しおりが眩しく見える」


 しおりは少しだけ驚いたように彼の横顔を見た。


 玖郎は相変わらず、遠くの空を見ている。


「ふーん……ほうなんじゃ。……玖郎が、そんなこと言うんじゃなあ」


「……たまにはな」


 沈黙。風がまた、しおりの髪を揺らす。


「じゃけえ、私も——強くなりたいんよ」


 そう言って、彼女はそっとピアスに触れた。


 昨日よりも、少しだけ誇らしげに。


「……それ。似合ってるぞ」


 玖郎はそう言って、ようやくしおりをまっすぐに見た。


「…うるさいんじゃ…」


 ──昼休み終了のチャイムが鳴ろうとしていた。



◆◆◆

 ――自由って、なんなんじゃろうね。


 中学二年の終わり頃、しおりはそんなことを考えていた。


 広島の片隅の、中高一貫の中学。制服のスカートは膝下、靴下は白指定、髪の色も染めてはだめ。


 校則の話なんて今さら退屈だったけど、誰かが破ると、先生もクラスもやたら騒いだ。


 しおりはめんどくさいのが嫌で、ずっと「普通」でい続けた。


「ふつう」であることは、楽だった。でも、それは誰かが決めた「ふつう」だ。


 うちが選んだわけじゃない。


 ――自分らしく、なんて、なにをどうすりゃええんよ。


 そんな言葉は、まるで他人事だった。


 だけど、心の奥ではずっと、誰かの真似ばかりしている自分に、少しずつ息苦しさを感じていた。


 ある日、放課後の図書室で、小さな銀のピアスを拾った。


 それは、高校の先輩――みほ先輩のものじゃった。


 茶髪にゆるい巻き髪。ネイルはピンクで控えめに光って、制服の着崩し方も絶妙。誰が見ても「ギャル」、だが、成績はいつも学年トップ。先生ですら強く言えないような、堂々とした人だった。


 正直、しおりは、こっそり憧れていた。


 ピアスが許されてるのは限られてる。成績優秀な生徒だけ。 


「これ、落としましたよね?」


 しおりが差し出すと、ミホ先輩はふっと笑った。


「おー、ありがとう。……片方しか残ってなかったけぇ、もう諦めとったんよ」


「これ、高そう……」


「ううん。ピアスって、最初は自分のために買うもんじゃけ。あんた、耳、開ける勇気ある?」


「……わからないです」


「なら、これあげる。片っぽだけじゃけど。うちも最初、ピアスって“自分にウソつかんための証”みたいに思っとったけぇ」


 しおりは、そのピアスを受け取った。


 それから何度も鏡の前で、耳にあててみた。でも、開ける勇気は出んかった。


 それでも――そのピアスは、「変わってええ」と背中を押してくれた気がした。


「自分を選んでええんよ」って、そう言ってもらえたような。


 そして、高校に入ってから思い出す。


 黎進高校の「成績トップなら服装ある程度自由」の校則。


 そのとき、あの銀のピアスのことを思い出した。


 ――やっと、このピアスをつけてもええ場所に来たんじゃ。


 しおりは、本気で勉強した。成績トップになるのは、自由を得るための挑戦だった。


 自由は勝ち取るもの。堂々と、胸張って、自分の服を着るために。


 やがて成績が上位に入り、彼女の制服は変わっていく。


 スカートは一折して、ベルトでキュッと留める。クリップ式のピアスを片耳にだけつけてみた。鏡に映る自分は、まだどこか不慣れ。でも、少しだけ憧れの“みほ先輩”に近づけた気がした。


 でも“あのピアス”だけはまだつけれずにいた。



◆◆◆


「なあ、しおり」


 帰野玖郎が言った。


「その服装、校則的にアウトじゃないのか?」


 しおりは笑った。


「うち、トップにおるけぇ」


「ほう……そういう仕組みか。しかし、なぜそんな面倒なことを?」


「面倒じゃけど、気分がええんよ。


 これはうちのための服。……誰かに憧れて、でも、今はちゃんと“うち”として着とるけぇ」


 ふと、耳に触れる。あの銀のピアスは今でも、引き出しの奥にしまってある。


 まだ開けてないけど――いつか本当に“うち”になれたら、そのときこそ、つけてみよう。


 自由とは、誰かに教えられるものじゃない。


 でも、その最初の一歩をくれた人が、おった。


 だからしおりは、今日も自分で服を選ぶ。


 ――これが“自分らしい”かどうかなんて、まだようわからん。


 でも、自分で選んだんなら、堂々とすればええんじゃ。


 ただのギャルじゃない。


 “しおりという名前の制服”を、彼女は着た。


 ──うちは、うちが好きな恰好しとるだけじゃ。


 玖郎は目を細める。


「なるほど、自由とは自己満足の追求でもあるというわけか」


「なんかようわからんけど、たぶん合っとる。うちは、“自分を楽しみたい”だけじゃけぇ」


 傍で聞いとった山口が、ぽつりとつぶやいた。


「しおりさん、かっこいいっすね……」


「なんで小声なんよ。はっきり言わんかい」


「いや、なんか……照れるんすよ」


 廊下を歩くしおりの姿は、制服というルールの中に、自由を描いている。


 それは、ルールを破ったわけじゃない。


 ルールを知った上で、自分の“色”を混ぜているだけ。


 しおりは、憧れを捨てたわけじゃない。


 そして、今もそれを心のどこかにしまっとる。


「わたしは わたしを 選ぶ」


 ――それが、彼女が自由を手にした理由。


 今日もしおりは、ホックを通さずスカートの上からベルトを締める。


 自由とは、選ぶこと。


 そして、それを楽しむこと。


◆◆◆

 ――ある日の部活

「福山先輩って……ピアス、似合いますね。


 それって、どこで買ったんですか?」


 しおりは一瞬、言葉に詰まった。


 今日つけているのは、みほ先輩にもらったものじゃない。


 薔薇の形。


 けど――「似合いますね」って言われて、なんだかむずがゆいような、くすぐったいような気持ちになった。


「これは……ふつうに買うたやつ。でも、一番のお気に入り。ピアスは、気分で変えるんよ」


 しおりはそう言いながら、ふっと笑う。


「でも、最初にピアスに憧れたのは、先輩のおかげじゃったんよ。ギャルで、めっちゃ賢い人で。校則無視してるのに、誰にも文句言わせんかった。その人の落としたピアス、拾ったことがあってね――くれたんよ。“自分にウソつかんための証”じゃって。うちの憧れ、理想の人だったんよ。それでその人を真似ようとおもったんよ。でも、一回もそのピアスは使えんくて」


「……かっこいい人ですね」


 後輩が、ぽつりとつぶやく。


 しおりは、少しだけ胸があたたかくなった。


 ――ああ、うち、あの先輩みたいに、なれとるんじゃろうか。


 自由で、自分で、堂々としてる人。


 誰かにとって、ちょっとだけ憧れになれとるんなら――それは、きっと素敵なこと。


「そっか。うちも……耳、開けてみようかな」


 後輩の声が、少し震えていた。


「無理にせんでええよ」


 しおりは優しく笑った。


「でも、もし開けたくなったら――そのときは、“自分のために”開けんさい。誰かの真似やなくて、自分の証として、じゃね」


 その日、帰り道で、しおりはまたポケットに手を入れた。銀のピアスは入っていない。だけど、心の中に、ちゃんとある。


 鏡に映る自分の姿。


 制服の上からベルトで留めたスカート、ちょっとゆるいカーディガン、片耳の花の形のピアス。


 それは「誰かのスタイル」じゃない。しおりだけの、しおりの制服。


“自分らしくあること”って、実は難しい。


 でも――その道の先には、きっと誰かが続く。


 ──うちは「最初は誰かに憧れて真似た」けれど、そこから「自分の好きを選べるようになった」。 


 福山しおり、自由であり続ける。それが、誰かの背中を押すなら。それは、ほんまにええことじゃけえ。



◆◆◆

 ──一年生の時。入学して間もない頃。


 その日は、授業が午前で終わった。


 この日、うちはそのピアスに出会った。


 街に出る理由なんてなかったけど、なんとなくバスに乗った。


 気分を変えたいとき、しおりはよく“外”に出る。空気を変えるために。


 ふらっと入った雑貨屋。アクセサリー売り場の一角。


 小さなピアスたちが整列して、きらきら光っていた。


「見てるだけなら、タダじゃし」


 自分に言い訳をしながら、一つひとつ手に取っていく。


 ゴツいチェーンピアス、揺れるフェザー、星のモチーフ。


 ――どれも、かわいい。でも、なんか違う。


 ふと、目に留まったのは、小さな薔薇の形のピアスだった。


 ちょっとだけ、中心が淡い赤色をしている。主張は強い。だけど、耳に着けたらきっとふわっと光る。


「……これ、ええな」


 自分でも驚いた。


 いままで選んだことのない、派手なデザイン。


 ――ほんまに、これがええん?


 ――あの銀のピアスと、全然ちがうのに。


 一瞬、迷った。けど、そのとき気づいた。


 ――うちは、いま、“自分の目”でこれを選んどる。


 みほ先輩のピアスは、くれたときの言葉と一緒に、大事にしてる。


 でも、それと「同じ」じゃなくてもええ。


 うちが、“いま”着けたいと思ったもんを着けてええ。


 レジでピアスを買って、袋を受け取った瞬間、胸の奥が少しあったかくなった。


 帰り道。鏡の前で、片方だけ花のピアスをつけてみた。


 「ぶち……かわええじゃろ」


 そう口に出して笑ったとき、少しだけ背筋が伸びた。


 自分で選んだ、自分だけの花。


 それは、小さくても確かな“自由”の証だった。


◆◆◆

 ──あの日の放課後。


 校舎の裏手にある、ベンチひとつだけの静かな場所。


 しおりは、いつものようにそこに座っていた。制服のポケットに手を突っ込み、風に揺れる髪を押さえながら、ぼんやり空を見上げている。


 そこへ、少しだけ不器用な足音が近づいてきた。


 「……いた」


 帰野玖郎だった。


 ノートを一冊、小脇に抱えたまま、ぎこちなく近寄ってくる。


 「今朝の。ありがと」


 しおりは、少しだけ素直にそう言った。


◆◆◆

 ──あの日の朝。


「福山さん。校則、読んでますか?」


 背後から響いた冷たい声に、しおりの肩がわずかに跳ねた。


 風紀委員の女子生徒が、目を細めてしおりの耳を指差していた。


「ピアスは禁止されているはずです。反省文と、明日から外してきてください」


 まっすぐな指摘に、しおりは何も言えず、小さくうつむく。


 うちのことをどう思うかは相手次第なんだろう──


「ある程度」自由の、「程度」も相手の匙加減次第ということなのだろう。


 反論する理由なんて、どこにもなかった。ただ、そのピアスは――


「――待ってくれ」


 そのとき、横からぬっと現れたのが、帰野玖郎だった。


「そのピアスは、彼女にとって“ある事件”の証拠品だ」


「……は?」


 しおりも風紀委員も、一瞬固まった。


 玖郎は真顔だった。


 まるで、昼下がりの校庭に殺人事件でも起きたような表情で、しおりのピアスを見つめていた。


「詳しくは話せない。が、それは彼女が“真実”を忘れないために必要なものなんだ。校則より大事なものが、人にはある。それに彼女は成績優秀ではなかったかな?」


「……か、帰野くん? なに言ってるんですか……?」


 しおりの戸惑いをよそに、玖郎は風紀委員に対して堂々と理屈を展開し続けた


 結局、風紀の子は困惑したまま、「今回は……注意だけにします」と引き下がった。


 残されたしおりは、放心したまま、玖郎に詰め寄る。


「ちょっと、なんなん。今の」


「……つけてる理由くらい、知っている」


 玖郎はそれだけを言って、校舎の影に消えていった。


 風に揺れる花のピアスが、かすかに光った。


 しおりは、それをそっと手で押さえながら、小さく呟いた。


 「なんなん……ほんま、しょうもないやつじゃあ…」


 でも、ふと頬がゆるんだのは、自分でも気づいていなかった。


◆◆◆

 ──あの日の放課後。


 「今朝の。ありがと」


 しおりは、少しだけ素直にそう言った。


 しかし。しおりすぐに、眉をひそめて横目で睨む。


 「てか、証拠品ってなんよ。びっくりするし、風紀の子、ガチでひいてたじゃろ」


 「……だって、あれ本当に証拠だろ。あのピアス。しおりがすごく大切にしてるって伝わる。なんでなんだ?」


 しおりの表情が、はっとして止まった。


 「…ないしょ…じゃ」


 しばらく、口をつぐんだまま、遠くの電柱をじっと見つめていた


 「玖郎」


 「ん?」


 「アンタ、アホやけど……たまには、ええやつじゃな」


 「“たまには”って……」


 「迷探偵、ほな、うち帰るけ。……一緒に帰ろ」


 そう言って立ち上がったしおりは、夕日に照らされて茶髪を揺らした。


 その耳には、揺れる小さな薔薇の花のピアス。


 玖郎は、彼女の背中に小さく呟いた。


 「じゃあ、俺も……たまにはええやつ、やってみるか」


 春の風が吹いた。


 それは、まだ「帰宅部探偵」が生まれる前、ふたりが“ただの幼なじみ”だった頃の、静かで特別な一日だった。



◆◆◆

 ――そして今。

 

 理科準備室の窓が大きく揺れ、風が吹き込む。

 

 その瞬間、玖郎が振り返った。目を見開き、声を張り上げる。


 「しおり!現場検証だ! チョークが消えた瞬間の“風向き”も確認しなければ!」


 「いや、風とか関係ないじゃろ。室内じゃけぇ……」

 

 「フッ……“見えない風”はどこにでも潜んでいる……!」


 「うるさいんじゃ!」


 調子を崩されながらも、しおりは結局彼の推理劇に付き合う羽目になる。


 教室に戻った玖郎は、窓辺に立ち、風を感じるように目を閉じた。


 「確かに……今日は西風。となると……犯人は、あの席!」


 勢いよく指さす。


 「山口! お前だったのか!」


 「僕、そこの席じゃないんですけど……でも、まぁ僕が犯人なんですけど」

 

 山口は苦笑いを浮かべた。


 「“風が運ぶのは偶然ではなく、真実だ”」

 

 玖郎は真顔でそう告げる。


 しおりは深いため息をついた。


 「ほんま、ようそんなん思いつくわ……」


 玖郎はさらに手帳を取り出し、ページをめくる。


 「さらに……この男――いや『ホワイトハンター』は、学園内に二人存在する可能性がある」


 「えっ、二人!? てか『ホワイトジャスティス』じゃなかったん!?」


 「“チョーク男”と、“チョーク男を偽る者”だ!」


 しおりはじっと彼を見つめ、冷静に言い放った。


 「いや、それ二人とも“偽る者”じゃろ……」


 山口が困ったように手を挙げる。


 「あのー……ほんとに僕が落としただけなんですけど」


 しかし玖郎はすかさず指を突きつけた。


 「つまり、“本当に落とした者”と“それを利用した者”がいる!」


 しおりは机に突っ伏しながら呻いた。


 「やれやれ、妄想が止まらんわ……」


 玖郎はノートに大きく書き出す。


 「山口……B男……C男……あと、七不思議委員会……」


 「なにその謎の組織! 聞いたことないんじゃけど!」

 

 しおりが勢いよく突っ込む。


 それでも玖郎は、教室のドアへと歩き出す。


 「さあ、助手くん! 真犯人を探しに行こう!」


 「いや、もう解決したんじゃけど……」

 

 しおりは苦笑いしながらついていく。


 「しおり……ヒントは、帰路に存在する」


 「ただ帰るだけじゃろ……」


 夕暮れの校舎に、三人の影が伸びていく。

 

 カラスがカァーカァーと鳴き、放課後の静けさを際立たせていた。


 玖郎は後ろで手を組み、のんびり歩きながら心の中でつぶやく。


 「事件はまだ終わらない……謎はいつだって俺たちのすぐそばにある」


 少し前を歩くしおりが、振り返ってあきれたように言う。


 「そもそも始まってもないんじゃけど。それに、玖郎のはたいてい“どうでもええ謎”よね」


 「──今日も、放課後はいつも通り」

 

 玖郎は空を見上げ、誇らしげに締めくくった。


 「だが、どうでもいい謎に価値を与えるのが……放課後探偵おれの役目だ」



第二話


 雲は、灰色の絵の具で空一面を塗りつぶしたように低く、重たく垂れ込めていた。


 校舎を出た瞬間、世界が雨の気配に包まれる。音より先に、湿った空気がそれを知らせてくる。


 そして、予想通り──いや、予知に近い確信として。


 福山しおりが、数歩前で立ち止まった。


 振り返ることなく、空を見上げ、ぽつりと。


 

 「……傘、忘れたわ」


 その言葉に、俺は無言で鞄から傘を取り出す。


 骨の軋む音とともに開いて、差し掛けようとしたそのとき──


 彼女は、どこか素直じゃない目をして俺を見た。


 怒っているわけでも、困っているわけでもない。


 でも、“ありがとう”とは、きっと言わないつもりの目。


 ──ここで、ひとつの推理。


 これは「借りたいけど、借りるとは言いたくない」の構図。



 「よろしければ、どうぞ福山くん」


 声は静かに。仕草はあくまで自然に。


 “わざとらしさ”のない紳士的対応というやつだ。


 彼女はちらりと俺を見て、小さく息をついた。



 「……あんたは?」


 「俺は濡れて帰るさ。風邪のひとつもひいて、ロマンのひとつも書きたくなる気分だからね」


 「そんなんで風邪ひいても、ロマンもクソもないじゃろ」


 「いや、あるさ。きみに傘を貸したという、ささやかな英雄譚がね。君に風邪でもひかれたら、ご自慢のミニスカが拝めなくなるのも残念だしね」


 しおりは、そこでようやく目を細めた。


 「気持ちわる。はいはい。ありがと、迷探偵」


 怒っても笑ってもいない──けれど、どこか柔らかい顔だった。


 そして、無言で傘を受け取り、ぱっと開いた。



 ──が、その傘は、すぐに俺の頭上に。


 「……いや、なぜ君が僕に差してるんだい?」


 「わかるようで、わからんのが謎いうもんじゃろ」


 「……それ、推理物に使っちゃいけないセリフだよ」


 「ええけぇ、黙って歩きんさい。迷探偵」


 ふたり分には、少し狭い傘だった。


 けれど、肩を寄せれば歩けない距離じゃない。


 しおりの髪に落ちたひと粒の雨が、傘の内側に落ちてはねた。


 それは、偶然にも──ちょうど俺の手の甲に落ちた。



 振り返るのも、言葉にするのも、たぶん違う。



 だから、俺はただ前を向いて歩く。


 ひとりでは濡れるこの雨の中を。


 彼女は一歩、俺に近づいた。


 ほんの少しだけ、肩が触れる距離。


 お互いにわずかに身体を傾けて、傘の下に収まる。


 彼女の髪から落ちた水滴が、また俺の手の甲に跳ねた。


 その一粒が、なぜか異様にあたたかく感じられる。


 

 (ばか…もっとこっちこんと濡れるじゃろ…)


 言おうか迷った言葉が、喉の奥にとどまったまま溶けていくような気がした。


 「ありがと」も、「ごめん」も、「なんでそんな優しいん?」も、たぶんお互いに心の中では巡っているのだろう。


 だけどこの距離では、言葉なんていらない。


 ──この雨の下では、推理よりも。きっと、沈黙のほうが雄弁だから。


 この雨も、それでも今日は、少しあたたかい。


 

 ──そんなときだった。


 「……あっ、玖郎さん! しおりさんも!」


 声の主は、玄関から駆けてきた山口だった。


 彼はビニール傘を差し、こちらに小走りで近づいてくる。手には、もうひとつ折り畳み傘。


 「これ、しおりさんの傘じゃないですか? 職員室に忘れてありましたよ」


 「あ、うちの……」


 しおりは小さく目を見開いて、それから少しだけ困ったように笑った。


 「すまんね、山口くん……」


 「いえ、全然! でも、もう玖郎さんに借りちゃいましたね?」


 山口は冗談めかして言ったが、その視線はほんの少し鋭い。


 観察者の目。探偵のそれとはまた違う、けれど確かに“見ている”目。


 俺は、あえて何も言わずに傘を受け取った。


 しおりもまた、少し早足で僕の隣から離れて、ひとり分の距離を取った。


 けれど──それはもう、ずぶ濡れになるほどの距離ではなかった。


 「……玖郎さん、優しいですね」


 山口は、ぽつりと言った。


 まるで、気づかれないふりをしながら、しっかりと気づいているような口調で。




 僕は空を仰ぐ。


 雨はまだやまない。


 でも、胸の奥で何かが少しだけ、晴れ間を見せたような気がした。


 「それで、山口は傘あるん?」


 「あっ、傘……ないです」


 「……あーあ。知らんし。濡れて帰りぃや」


 「えっ、しおりさんひどくないですか!? 入れてくださいよぉ〜!」



 「ほら見ぃ、声でかい。うちらの空気が崩れるやんか」


 「えっ? 空気……?」


 「ええけぇ、黙って帰りいやぁ。山口助手」



 そう言いながらもしおりは、ちょっとだけ笑っていた。


 声はそっけなくても、ちゃんと山口の傘の位置に合わせて歩調を緩めていた。


 傘がふたつに増えても、ふたりとひとり。


 でも──その境界線は、やわらかく滲んでいた。


 雨はまだ続いている。


 けれど、今日の帰り道は、この雨は、たぶん、もっと、少しだけ、やさしい。



 第3話

 ──その、雨の日。


 放課後、教室のドアを開けると、外は雨が降り始めていた。


 僕は軽くため息をつきながら、窓の外を眺める。


 「……傘、忘れたわ」


 その一言は、どこか予定調和のように響いた。まるで、この瞬間がくるのを誰かが待っていたかのように。


 しおりさんと玖郎さんが帰ろうとする、その瞬間に──雨。



 ──僕は、事前にすこし悪だくみをしておいた。


 「雨じゃあ…」


 しおりが小さく呟いた。


 彼女は慌ててバッグを持ち替え、雨に濡れないように身を縮めている。


 影からその様子を見て、僕は内心でちょっとだけ笑みを浮かべた。


 2人は一つの傘に入って、すこし距離を保ちつつ一緒に歩き出す。


 ──しばらくして。


 僕は、隠していた傘を取り出し、ふたりに向かって走った。


 (実はさ、今日の雨、俺が仕組んだんだよ)


 ──なんて、言えたらよかった。


 でも、そんなの……柄じゃない。


 僕はただ、2人の“お邪魔虫”をさせてもらうだけ。


 今はこの距離、この関係が、心地いい。


 ……本当は、しおりさんの反応が気になって仕方がなかった。


 だって──


 しおりさんが、なにかを“気づいている顔”をしていたからだ。


 ──2人の関係が、もどかしい。


 しおりさんは何も言わず、静かに傘を広げて歩き出す。


 僕もその後ろを黙って歩きながら、何気ない会話を続けた。


 どうやら、しおりさんは僕の企みに気づいている。


 しおりさんは、名探偵だから。



 「ばか……」


 きっと、そんなふうに心の中で呟いてる。


 それでもあえて触れないところが、しおりさんらしい。


 その優しさが、僕には少しだけ嬉しくて──


 こっそり、心の中で笑った。


 ふたりは傘の下で、少しずつ距離を縮めていく。


 その様子を、背中越しに眺めながら思った。


 (しおりさんが照れてるところも、いいな)


 そう思うと、口元が自然とゆるんでいた。


 (……俺も、恋したい)


 でも、今はまだ。このふたりの関係を、見届けよう。


 それが──名探偵の“助手”の勤めというものだろう。


 

 第4話


 「……よし、行き先はこれで決めよう」


 そう言って、帰野玖郎はどこからか取り出したダーツと福山市の地図を、放課後の黒板に広げた。


 「ダーツで……?」と、山口が戸惑い気味に聞く。


 「明日は大切な日だからな。しおりの誕生日だ」


 「え、なにその決め方。普通もっと計画するやろ?」


 福山しおりは呆れながらも、どこか楽しそうに笑った。



 「ダーツは人生の縮図だ。偶然は必然を呼ぶ」


 「はいはい。まあ、誕生日やし、どこでも楽しめればええんよ」


 玖郎がダーツを振る。


 ダーツが刺さった先は、「浦崎行きのバス停」だった。


 「まさかの浦崎!私、ここ行きたかったんよね!思い入れがある場所なんよ」


 しおりが嬉しそうに叫んだ。


 「そうなのか?どんな?」


 玖郎は興味を持った様子だ。


 「『風の後悔こうかい』ってゲームの舞台なんよ」


 「それ、どんなゲームなんだ?」


 「なんというか…音だけのゲームっていうか」


 「それはゲームなのか…?」


 「絵のないゲームじゃね。目に見えるものだけを信じるとだめじゃ。そうするとこのゲームの良さはわからんけぇね」


 「なるほど?」


 「自分の小学生の頃の初恋のこととか、今思うとセピア色に思えてくるじゃろ?そういうことなんよ。このゲームは」


 「それが浦崎となんの関係があるんだ?」


 「良いかい?玖郎君!行けばわかる…はず。今から予習しんさい」


 「うむ…興味はあるな。しかし浦崎は不便な場所ではあるな。車が必要だ」


 「浦崎……?あ、実は親戚の別荘がそこにあるんです。自転車を用意してもらえますよ」


 山口が、さらっと爆弾を落とす。


 「え、それ先に言えや!!」


 しおりが全力でツッコむ。


 「ふっ……これもまた、必然か」


 「絶対偶然じゃけぇ!」


 こうして、帰宅部の誕生日旅行は、浦崎行きに決まった。


 「いや~、いいとこじゃね、浦崎。この空気。この海。この海岸。海沿いの町。インスパイアされるものがあるなー」


 バスに揺られ、海沿いの町に降り立った三人は、まずは山口の親戚の別荘へ向かい、そこで自転車を借りることにした。


 「親戚の家、勝手に使っていいん?」


 しおりが聞くと、山口はニコニコしながら答える。


 「はい、昨日連絡したら『どうぞどうぞ』って。あと自転車も使っていいって言われました」


 「ほー、それは助かる!」


 玖郎はサドルにまたがり、ふっと笑う。


 「運命が俺たちに、浦崎を駆けろと言っている」


 「そうじゃね。これで観光しやすくなったわぁ」


 「浮いたお金で、しおりの誕生日プレゼントを探そう」


 「……あ、ええやん。」


 照れ隠しのようにしおりは早々にペダルを踏み出した。


 「この先、スーパーとかコンビニないんで、今のうちに飲み物とか買っておきましょう」


 海沿いの町にたった一軒しかないスーパーに立ち寄る。このお店に地元の人が集まるのだろうか。


 海の中に立つ赤い鳥居。常夜灯。細い海沿いの道。


 浦崎の潮風は、思ったよりも柔らかく、遠くで造船所が静かに稼働している。


 「この海に立ってる赤い鳥居。宮島のやつと同じなんじゃね。地元にもこういうのあるんじゃね」


 玖郎は狭い道を走りながら、ふと遠くを指さした。


 「……あの造船所。あそこでは、きっと極秘の巨大船を作っている」


 「いや、どう見ても普通の造船所じゃけ」


 「油断は禁物だ。町の静けさは、秘密を隠す最良のカモフラージュ」


 「もう推理始めとるし…」


 山口は黙々とサイクリングを楽しんでいる。


 ときどき、「あ、ここ、親戚に連れられて来たことあるかも」と懐かしそうに口にする。



 玖郎は細い路地に入り、「この道は、異世界への入り口かもしれん」と呟いたが、すぐにしおりに引き戻された。


 「ただの生活道路じゃろ!」


 浦崎の、海は静かだった。


 潮の香りは柔らかく、海岸沿いにポツポツと常夜灯が点在している。


 「……おー、ええ雰囲気じゃな」


 しおりがペットボトルを片手に、港町を見渡す。


 山口はスーパーで買ったアイスを嬉しそうに食べている。


 そんな中、玖郎はふと、海に沿って並ぶ常夜灯を指さした。


 「なあ、しおり、山口……あの常夜灯、なんであんなに点在してると思う?」


 「へ? そりゃ、船が夜でも帰ってこれるように――」


 「違う。」


 玖郎が真顔で、しおりの言葉を遮る。


 「……あれは異世界の入り口だ」


 「出たー!」


 しおりは吹き出したが、玖郎は一切崩れない。


 「よく見ろ。浦崎には必要以上に常夜灯がある。どこまでも続くように、まるで“異世界への道しるべ”だ」


 「たまたま漁港が多いだけじゃろ!」


 「いや、常夜灯の配置が不自然だ。途中だけ感覚が狭くなっている。つまり、あそこに……ゲートがある」


 山口が興味津々で食いつく。


 「異世界、行ってみたいです!」


 「だろう?よし、探検に行こう」


 玖郎が自転車にまたがる。しおりは呆れながらも、ペダルを踏んだ。


 「しょうがないのう……つきあったるわ」


 

 海沿いの道を、常夜灯を左折し山の方へ進む三人。


 潮風は少し冷たいが、ペダルを漕ぐ足は軽い。


 「しおり、恐れてはならん。」


 「いや、別に怖くないけど……玖郎がテンション高いだけじゃけ」


 「ここから先、常夜灯の間隔が一気に狭くなる。……見ろ、やはり」


 玖郎が指さした先、確かに灯りの距離が少し詰まっている。


 「これが“入り口”だ。」

 

 「いやいや、ただの港の角じゃろ!」


 玖郎は真剣に自転車を降り、足音を忍ばせて進む。


 「慎重に行くぞ……異世界の門は、音に反応する可能性がある」


 「いつも思うけど、その情報どこから来とるん?」


 山口は小さく笑いながらも、少しだけドキドキしていた。


 「あの。多分この道進むと岬に出ますよ。そこの近くに温泉があるみたいなんです。せっかくなんでそこまで行ってみませんか?」


 しおり、玖郎、山口の三人は山道を自転車で走っていた。


 「この先にほんとに岬があるん?そして温泉!いいね、温泉行きたいわ!」

 

 「だろ?こういうのは、思いつきで行くのが面白いんだ」



 道はどんどん狭くなっているような気がする。軽四が一方通行でギリギリ通れるくらいだ。


 「ほんとに岬までいけるん?」


 「大丈夫、大丈夫」


 玖郎の自信に引っ張られ、しおりと山口も続く。


 「一応、スマホのナビで調べたんですけど岬までいけるっぽいです」


 舗装されていない、少しガタガタした道。


 タイヤが砂利を踏む音だけが、静かな夜に響いていた。


 「結構奥まで続くんじゃな……」


 「この先に、岬の端があるはずだ」


 段々と道が狭くなり、草が自転車のハンドルに触れる。


 「なんか、だんだん不安になってきたんじゃけど……。ホラーゲームにでてきそうじゃ…」


 「平気だ。冒険だ」


 玖郎が笑いながら前を走る。


 「ほんとに大丈夫なん?なんか壊れた祠みたいなのもあるし…」


 「この坂を下ったあたりが岬のはずです。ナビではそうなってます」


 しかし、ふいに。


 「……行き止まりだ」


 山道の一番端まで辿り着くと、最後の常夜灯があった。


 目の前は低いフェンスで塞がれていた。


 その先は、ただ黒い海が広がっている。


 「えっ……ここで終わり?」


 「終わりだ」


 しおりが玖郎に詰め寄る。


 「……異世界の入り口、なかったな」


  玖郎はフェンスに手をつき、遠くの黒い海をじっと見つめた。


 「そもそも最初から無いって言うとったじゃろ!」


 しおりが笑いながら玖郎の背中を軽く叩く。


 「まさにリグレット」


 「こういう後悔リグレットはいらんのんよ!もっと、初恋とか、小学校の思い出とか。そういう話じゃろ!?」


 山口はフェンス越しに、夜の海を見ていた。


 「でも、なんか……ちょっと、いいですね。こういうの」


 「こういうの、って?」


  玖郎が振り返る。


 「行き止まりとは知らずに、ここまで走って来て、目的地ではなく、ここでみんなで海を見て、戻る……そういうのが」


 「『知らない』ということは一度知ってしまうと二度と体験できないことだよ。この景色はもう二度と忘れることはないだろうな」


 玖郎が笑い、しおりもふっと笑顔になる。


 しばらく、言葉もなく、ただ波の音を聞いていた。


 「誕生日なのに、なんも特別なことないけぇ…」


 しおりがぼそっと呟く。


 「いや、これが特別だ」


 玖郎が静かに言う。


 「ダーツが導いた偶然、山口の親戚の別荘、道に迷いながらのサイクリング……全部が繋がって、今ここに辿り着いた」


 「……まあ、そうじゃな。なんか、無駄じゃなかったね」


 潮風が三人を優しく撫でる。


 「ところで、温泉は?どこが岬じゃ!行けんかったじゃろ!」


 「いや、こういう“行き止まり”もまた一つのロマンだ」


 玖郎はフェンス越しに海を見つめる。


 「考えてみろよ、もしこのフェンスを越えた先が“異世界”だったら」


 「越えたら即、海なんじゃけど…」


 「そうだ、つまり……異世界への入り口は、時に海の底にあるんだ」


 しおりは少し呆れながらも、静かに笑った。


 「……まあ、今日はええ思い出になったかも」


 波の音が、耳に心地よい。


 「……温泉なかったけどね」


 「いや、これが答えだ」

 

 玖郎はゆっくりと振り返る。


 「異世界は“ここにない”と、証明できた」


 「え、行けんかっただけじゃろ。汗かいたし、温泉ですっきりしたいんじゃけど…」


 しおりはそう言いながらも、どこか楽しそうに笑う。


 「まさに『風邪の後悔』だな」


 「そういう意味の『風邪』じゃないんよ!」


 山口もこくりと頷く。

 

 「来た道。引き返しますか…」


 「異世界への道は今は閉ざされているのか」


 玖郎の冗談に、しおりは肩を揺らして笑った。


 「じゃあ……次は“開いとる時間”に来よか」


 「ふふ、約束だ」


 山口もほっとしたように言った。


 「でも、三人でこうやって走るの、なんか楽しいですね」


 玖郎はしおりに視線を送る。


 「しおり、今日の誕生日、どうだった?」


 しおりは少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに柔らかく笑った。


 「うん。……まぁ楽しんどるかな」


 「ふっ、なら作戦成功だ」


 玖郎は最後に、常夜灯を見上げながら呟く。


 「でもな……もし、全部の常夜灯が灯ったら――」


 「ん?」


 「本当に異世界に、行けるかもしれん」


 しおりは一瞬だけ、ゾクッとしながらも、笑って答えた。


 「……でも、夜にこの道を通るのはやめとこうや…」


 玖郎はふっと笑い、ペダルを漕ぎ出した。


 常夜灯が照らす道を、三人の影がゆっくりと伸びていく。

 

 三人は引き返す。来た道を、笑いながら。

 

 その背中を、ひっそりと常夜灯が見守っていた。

 

 山道を引き返し、行くときに左折した常夜灯まで戻ってきた。


 「右折したら岬へ行けたんですね」達成感からか、潮風が心地いい。


 「温泉、楽しみじゃな。」としおりが笑った。玖郎も頷く。


 「うむ、温泉こそ、この旅のフィナーレにふさわしい」


 「温泉、早く入りたいです!」と山口も目を輝かせる。


 温泉の看板を見つけた。


 「みらくの温泉、こちらと書いてますね」


 そのまま意気揚々と進む三人。


 岬へ着いた。


 ……しかし。


 「温泉?ああ、潰れたよ」


 地元のおばちゃんの一言で、すべてが崩れた。


 「え!?でも、看板にはしっかり書いとったで!」


 「そりゃ、看板を外すのがもったいないけぇ、そのまんまにしとるんよ」


 玖郎は真剣な顔で呟く。


 「……温泉、神隠し事件だな」


 「いやいや、誰も隠してないけぇ…」


 帰り道、再び海沿いをサイクリングしながら、玖郎はぽつりと呟く。


 「温泉は消えたが……この時間は、確かに残った」


 しおりは笑って答える。


 「ほんま、今日は楽しかったわ。ありがと。前からいきたかった場所じゃし。聖地巡礼した気分じゃ」


 「ふっ、誕生日旅行、成功だな」


 山口は満面の笑みで、「次は誰の誕生日ですか!?」と聞く。


 しおりはクスクス笑いながら、前を向いた。


 目を閉じると今日の出来事や風景が思いだされる。何か創作意欲が湧いてくるようだった。


 「温泉は入れなかったのは残念じゃったけど……」


 玖郎は最後に一言だけ、真顔で締めた。


 「まさに『浦崎の後悔』だな」


 「いや、『風の後悔』じゃろ!?」


 しおりのツッコミが、静かな町に心地よく響いた。


第五話 


 黎進高校・帰宅部部室──放課後。



 「こ、こ、……これは!」


 玖郎が手にしていたのは、職員室前の廊下で拾った、一枚のプリントアウトされた紙だった。


 表紙には大きくこう書かれている。


 『《転校予定者》』


 「お、おい……これって……」


 玖郎が慌てて近づき拾う。


 「まさか……この中に、我らが帰宅部の一員の名前が……」


 彼の目が、一行の文字で止まった。


 『福山しおり(2年)』


 「な、なんだと……!?」


 部室の空気が凍る。


 まさか、しおりが転校……?


 「ど、どういうことなんだ……」


 玖郎は目を見開き、読み上げた名前をもう一度確認した。


 「福山しおり。間違いない。これは我々が“事案”として調査すべきレベルだ」


 玖郎は緊張した声で続けた。


 「職員室前に落ちていたもの。つまりこれは正式な文書である可能性がある!」玖郎は叫んだ。


 「そうか……だから最近、しおりの様子がおかしかったんだ……」


 そこに山口が困った様子で教室に入って来る。


 「山口。最近、しおりに変わった様子はなかったか?」


 「いや、別にいつも通りチョコ棒食べてたと思うんすけど」


 「いや、確かにチョコ棒の消費量が前より一日一本少ない……!」


 「細かっ!」


 玖郎は立ち上がり、ジャケットを羽織る。


 「よし、我々帰宅部探偵団は、今から“しおり転校疑惑”の真相を追う!」


 「いや、帰宅部に探偵団なんてあったっけ……」


 山口の呟きは、もはや誰にも届いていなかった。


 

 ──同時刻、新聞部部室。


 しおりは静かな書架の間で、一冊のノートを手にしていた。


 そこには、彼女が中学時代に書いた詩が貼り付けられている。


 「……なつかし……」


 ページのすみに、小さな付箋が貼られていた。


 「──しおり!」


 背後から、聞き慣れた声がした。


 「玖郎……なんでここに」


 「お前、転校するのかッ!?」


 「はあ!?」


 新聞部に響く玖郎の声に、周囲の生徒たちがちらりと顔を上げる。


 「ちょっと声!静かにせんと怒られるよ!」


 「見ろ……“転校予定者リスト”。それにお前の名前が……!」


 「え、なにそれ」


 「君は……僕たちに何も言わず、去ろうとしていたのか……!」


 「誰も去ろうとしとらんけぇ!」


 「けれど最近、チョコ棒の消費が減っていた。それは“新天地への覚悟”……!」


 「ただの健康診断の結果じゃ!」


 「いや……君は、詩人としての自分を、どこか遠くの街で生きようとして──」


 「なんでポエマー設定になっとん!」



 ──それから。


 放課後、教室に戻ってきた三人。


 「で? あのリストのこと、どういうことなん?」


 「これだ!」


 そこには、『転校予定者』とプリントされた資料があった。


 玖郎の言葉に、山口が申し訳なさそうに頭をかく。


 「それっすけど……演劇部のドラマ脚本っす。『転校予定者』っていうモキュメンタリー風作品のプロット用っすよ」


 「なんならー!?」しおりと玖郎が同時に叫ぶ。


 「なんか“リアルっぽい資料”作って演出したいって言ってたんで、名簿風のやつ作っただけで……」


 「……ということは、“転校予定”はフィクションだったのか……」


 「そんな薄っぺらい台本で信じるってあんらどんだけ思い込み激しいん」


 「いや、僕は最初からおかしいと思ってたよ。あれは怪文書だってね」


 「ぜったい信じとった顔しとった!」



 ──その日の夕暮れ。


 玖郎はしおりと並んで歩いていた。


 「……なあ、新聞部で見ていたノート。詩って、どんなの書いてたんだ?」


 「えっ……なんでそんなこと聞くん?」


 「君があの新聞部のノートを見つめてたとき、少しだけ顔が“昔の君”になってた気がしてさ」


 「……中学んときに、一回だけ、文学コンテストで出したんよ。“見た人が笑うような詩”って思って書いたけぇ」


 「……君らしいな」


 しおりは照れたように、笑った。


 「それ読んで“ええ感じ”って言ったのが、先輩じゃったんよ。それで、新聞部に誘われて」


 「……先輩は、君の原点を見抜いてたんだな」


 「ちょっと、ええ感じにまとめんといてや」


 玖郎も笑った。


 「でも、転校疑惑が嘘でよかった」


 「なに? ちょっとは寂しかったん?」


 「いや、べつに? 帰宅部のバランスが崩れるから困るだけで……」


 「ふーん……」


 しおりはふいに立ち止まり、窓から西の空を見上げた。


 「……転校はせんけど。もし将来、どこか遠くに行くことになっても──あんたらのことは、たぶん忘れんよ」


 「……“たぶん”とはな」


 「そりゃ、全部覚えとる自信はないけど……」


 しおりは、そっと笑った。


 「いちばんアホな妄想探偵のことは、わりと忘れん気がする」


 その言葉を背に、玖郎はそっと窓の外に目をやった。


 夕焼けが、いつもより少しだけ優しい気がした。


第六話


 「ええけえ、いっぺんでええけえ来てみてや! 絶対、損はさせんけえ!」


 しおりがそう言って強引に引っ張り出したのは、新聞部の“取材”という名目を盾にした、半ば強制的な召集だった。


 帰野玖郎と山口――帰宅部の二人は、何の因果かその日の午前十時、釣り人前に集合した。


 福山駅前の花と人波に包まれていた。


 「……まさか本当に来るとは思わんかったけえ、ちょっとびっくりしとる」


 「そっちのセリフだよ」


 そんな、ちょっとした非日常の始まりだった。



 福山駅から歩いて十分。商店街を抜けた先の緑町公園は、まさに花の海だった。色とりどりのバラが、道の両端を彩っている。赤、白、黄、ピンク──まるで絵の具をこぼしたみたいに、にぎやかだ。


 「すご、去年より咲いとる気がする……」


 しおりが目を丸くする。


 「バラの開花状況に関する年度比較……これはひとつの謎だな」


 「なんの謎よ!」


 「君が毎年見てるという事実と、今年“すごい”と思った印象──ここには誤差がある。つまり福山しおりの感性は年々変化している……」


 「うちが成長しとるっちゅう話じゃろ!」


 「もしくは老い──」


 「だまっとれや!」


 しおりのげんこつが、玖郎の頭にコツンと落ちた。やりとりはいつものテンポ。でも、どこか柔らかい。


 「今年はバラ会議が行われるので特に人がおおいんでしょうね」


 その後ろで、山口がそっとシャッターを切った。


 「──やっぱり、自然光のほうが表情が映えますね」


 「なに撮っとんよ、やめぇや」


 「いえ、参考資料として」


 いつも無表情な山口の口元が、わずかに緩んでいた。


 この空気が、帰宅部らしくて好きなのかもしれない。


 「──で、なに買うん?」


 しおりが焼きそばの香りに誘われて、屋台通りを見渡す。


 「たこ焼き、焼き鳥、唐揚げ、バナナチョコ、クレープ……なにこの誘惑ラッシュ」


 「そういう食の誘惑に、なぜ“串刺し”の文化が多いのか。そこにはきっと、謎がある」


 「いらんて。謎、いらんのじゃて」


 「串とは、すなわち武器。持ち歩きやすく、立ち食いに最適化されたこの形状には、合理的な設計思想が……」


 「さすがに考えすぎじゃろ。でもトルネードポテト食べてる人目立つね」


 山口が無言で焼きとうもろこしを手にしているのを見て、玖郎がハッとする。


 「山口、それは危険だ」


 「……なにがですか」


 「焼きとうもろこし──それは屋台界のキング。焦げ目と甘辛いタレが、胃袋の防衛ラインを突破する。食べた瞬間から他の選択肢が霞むという──つまり、これは食欲の独裁だッ!」


 「はぁ…」


 「……つまり、まずは無難にポテトを食べるべきだった」


 「わからん理屈持ち出すなや」


 しおりは半笑いになりながら、ソースの匂いにつられて焼きそばを買っていた。


 そのすぐあと、玖郎は「ムダ推理」により“どこの店のたこ焼きが最も焼きムラが少ないか”を調査し始め──


 山口はその間に、バラ園エリアへとそっと足を向けていた。


 バラ園には、色とりどりのバラと──そのバラを背景に写真を撮る人々の姿があった。バラのアーチは相変わらずその存在感を示している。


 山口はいくつかの花の配置を観察し、無言でシャッターを切る。


 カシャ、カシャ──と音だけが響く。


 (やっぱり、光と色のバランスは野外がいい……)


 バラの奥に、偶然しおりの姿が映る。


 焼きそばを食べながら、バラを見つめるその横顔。


 (……自然な笑顔、ですか)彼はそのシャッターは押さなかった。

 

 ただ、それを心に留めるように──

 

(撮るには……惜しい)カメラのレンズを、ゆっくり下ろした。


 玖郎がたこ焼きを手に戻ってきたとき、しおりはもう次の屋台へ。


 「次は冷やしキュウリいこっか~」


 「しおり、そんなに食べて大丈夫なのか?」


 「ダイエットは明日からじゃ!」


 「そう言って去年も翌日に後悔していたぞ」


 「うっさいわ!」


 笑い声とバラの香りが混ざる日曜日。


 この日常も、ちょっと特別に感じるのは──きっと、三人だから。


 「……え、ちょ、見て! あれ! バラのクレープ出とる!」


 しおりが指さしたのは、バラカスタードクリームとバラホイップをたっぷりのせた風味豊かなバラクレープ。バラシロップを練りこんだもっちりとした食感の生地が堪らない。

 

 「クリームがピンク……いや、これはもう芸術では……?」


 玖郎がうっとりした声を出す。


 「食べ物を芸術とか言うとる時点で、だいたい腹ペコじゃけぇ」


 「その指摘、否定はできない」


 「じゃけぇ、買うよ」


 「これは買うしかない」


 しおりはさっそくローズクレープをゲット。ふんわり甘く、花の香りがする。


 「……ん~~、なんか、すごい乙女な味する……!」


 そう言って、ちょっと照れながら笑うしおり。


 「一口もらっていいか?」


 「女子力が上がる覚悟があるなら、どうぞ」


 「おぉ、リスク高いな……」


 しおりはくすくす笑いながら、クレープを山口にも差し出す。


 「山口は? 要る?」


 「……ちょっとだけ、いただきます」


 そのあと、三人はバラジュースの屋台へ。


 「ローズウォーターっていうんかな、これ」


 「成分分析したい……」


 「玖郎、飲め」


 「承知」


 ジュースはほんのり甘く、後味がすっきりしていて──意外にも、男子二人も「アリだな」とうなずく味だった。


 そして最後に現れたのは、バラソフトクリーム。


 「わあ……ピンクのソフトクリームって、かわいすぎるじゃろ」


 「見た目は完全にスイーツ界のアイドル……」


 「たぶん山口、もうカメラ構えとる」


 「はい」


 「やっぱりな!」


 ソフトクリームを手に、バラの背景で並ぶ三人。


 偶然撮れたその一枚は、山口の中でもお気に入りになる──のは、もう少し後のこと。



 スイーツ三昧のあと、ふらりと歩いていた三人は、公園エリアの片隅でちょっとしたステージイベントに出くわした。


 「大道芸やっとる! 皿回しにジャグリングに……一輪車!」


 「えっぐ……まさかバラがここまで主役になるとは」


 「文化の暴走……それがフェスの正体」


 観客に混じって拍手を送る三人。


 「なぁ、せっかくやし、俺たちもちょっとした芸やってみるか?」


 「は? なんで?」


 「なにって……芸のため、いや帰宅部の名誉のために」


 「うちの知らんところで、帰宅部ってそないな団体になっとったん?」


 玖郎はすでにポケットからトランプを取り出していた。袖口を軽く払うと、赤と黒のカードが手の中で踊る。


 「よし、しおり、適当に一枚引いて。ほら、そこの子どもも見てくれよな」


 人通りの多い通路脇に、なんとなく人だかりができはじめる。玖郎はトランプを高く掲げ、帽子の中に投げ入れた――と見せかけて、するりとカードを消し去る。


 「おや、どこに行ったでしょう?」


 その瞬間、玖郎の耳の後ろから、引いたはずのカードがひょっこり顔を出した。子どもたちが「わあ!」と歓声を上げ、しおりが小さく拍手する。


 「地味にすごいんじゃけど……」


 そしてその隣――。山口は一歩下がった位置で、やや斜めに立ち尽くしていた。


 その姿が……なぜか、不自然なまでに静止している。


 じっと動かず、視線も変えず、まるで『彫刻の人』のように。


 「……山口」


 「……はい?」


 「そのまま動くな」


 「え…」


 山口が不思議そうに尋ねたそのとき、通りすがりの子どもが、そっと山口の足元に小銭を置いていった。


 「……なんでお金入れられたんですか、僕……」


 帽子を拾うと、中にも飴玉が一個。どうやら完全に“パフォーマンスの一部”だと思われたらしい。玖郎は腹を抱えて笑いながら、ぽんぽんと山口の背中を叩いた。


 「いやー、これはもう才能やな。来年は大道芸の『動かない銅像』として正式参加せえや」


 「僕、ただ立ってただけなんですけど……」


 「…うちの帰宅部、なに部目指しとんじゃろな……?」


 呆れながらもしおりは笑っていた。


 その背後では、本物のパントマイム芸人が動かず山口を見つめていた。



 突然山口が動きだした。


 「……ん? 山口、なにしよるん?」


 「大道芸、やります」


 「は!?」



 そして始まった、*山口のマジックショー(即興)*。


 使うのはポケットに入っていたトランプと、たまたま手にしていた紙ナプキン。


 その動きは妙に滑らかで、手元の技が見事すぎて観客がざわつく。


 「すご……え、あれどうなっとん?」観客がざわめく。


 「山口……何者なん……」


 「ただの帰宅部、だけどな…」


 拍手とともに、数人が小銭やお菓子を帽子に入れていく。


 「え、もう投げ銭入っとるやん!?」


 「ちょっとした小遣い稼ぎです」


 「やめとけ! 職業:帰宅部じゃけぇ!」



 ──その後。


 会場横のミニイベントスペースでは、「飛び入りカラオケ大会」が始まっていた。


 「参加者、あと一人いないかな〜? お姉さんどう?」


 そうマイクを向けられたしおりは、一瞬迷って──


 「……ええよ。やったるわ」


 「あああああ! 参加しちゃいましたよ!?」


 「おい、しおり、あれ本気じゃないか!?」


 しおりが選んだのは、透明感のある曲。


 まっすぐで青くさい歌詞に、バンドサウンドが乗っかって、まるで放課後の校庭みたいに胸がざわつく。


 サビに差しかかると、テンポが跳ねて一気に盛り上がる。


 「振り切るほど 蒼い 蒼い あの空」


 透明感のある彼女の声が、よく似合っていた。


 会場が手拍子で盛り上がり始める中、スマホで写真を撮る人々。


 しおりは最初少し照れていたものの──途中からは笑顔を見せながら、堂々と歌っていた。


 「……カメラ目線じゃなくても、笑ってる顔って、自然に撮れるもんなんですね」


 山口がぼそりと呟き、そっとシャッターを切った。


 

 午後三時。


 市街地をうねるように進む、福山ばら祭りのメインパレード。


 「わあ……すご……」


 「人が沢山……迫力あるな」


 「いや、あれトラックじゃけど……屋根に乗っとる人、手ふっとるで?」


 太鼓と笛のリズム。金色のはっぴを着た一団が舞い、空から紙ふぶきが舞い落ちる。まるで街そのものが、巨大なステージになったようだった。


 「なんかもう……観るだけでも体力削れるくらい派手じゃね」


 「山口は?」


 「……後ろにいます」


 「すでに人混みから逃げようとしとるやん」


 しかしそのとき、パレードの誘導係らしき人が言った。


 「君たち、飛び入り体験したい? ちょうど若者枠が一組空いててね」


 「えっ」


 「えっ」


 「お三方とも派手な服だし、映えると思うよ?」


 一瞬の沈黙。


 次の瞬間、しおりの目がキラッと光る。


 「やっちゃおうや! 一生に一度のバラパレ体験じゃあ!!」


 「いや、でも俺は……」


 「山口、もう腰にハッピ巻かれとる!」


 「えっ」


 あれよあれよという間に、玖郎も金のハッピを羽織らされ、バラを抱えた台車の先頭に回される。


 「……こうなったらもう、やるしかないじゃろ!」


 囃子に合わせて前へ、前へ。手を振り、笑い、時に掛け声も飛ばす三人。歩く道の両端には、たくさんの観客たち。スマホやカメラがこちらに向き、沿道からは拍手と歓声。


 「うわぁ……緊張してきた……」


 しおりがそわそわと手を振る。


 「この視線の集中……なるほど、謎が解けたぞ」


 「はい出た、なに?」


 「バラ祭りの主役は、バラじゃない──『楽しんでる人間』そのものなんだ」


 「……ちょっとええこと言うやん」


 「で、謎は解けたが、羞恥心は増している」


 「じゃけぇ手ぇ振れ、ほら!」


 その隣で、山口はというと──


 「……こういうのも、悪くないですね」


 「ん? 今、なんか言った?」


 「同じあほなら踊らにゃ損です」


 そう言いながら、山口はバラを持ったまま、少しだけ笑っていた。


 三人は歩きながら、笑って、時々照れて。観客の歓声と、遠くから聞こえる太鼓のリズム。空からは花吹雪──まるで映画のラストシーンのような、特別な日常。


 「……楽しかったな」


 「うちも……来年も来ようや」


 「そうだな。来年も、三人で」


 この一日をカメラに収めた写真たちは、きっとあとで見返しても笑ってしまう。


 でも、心に焼きついたシーンたちは──


 誰のレンズにも収まらない、かけがえのない宝物になる。


 沿道から飛ぶ「かわいいー!」の声に、しおりが薔薇のピアスを触りながらちょっと照れ笑い。


 玖郎も苦笑しながら、楽しげにバラを手に取った。


 

 夕方、緑町公園の高台にたどり着いた三人は、地面にどっと座り込む。


 「つっかれた~~~……」


 「いやほんま、途中から自分が誰かわからんなった」


 「……でも」


 玖郎が、空を見上げた。


 夕日が沈みかけ、赤く染まった空の下、街中に散ったバラの色と香りが、ほんのりと風に乗っていた。


 「今日が“いつもの帰り道”じゃなかったこと、たぶん、しばらく忘れられんな」


 「玖郎……今日だけはそう、年に一度のイベントじゃけえね」


 「来年も来れるといいな……三人で」


 三人はそこで、しばらく何も言わず、風の中に身を委ねた。


 笑って、歩いて、巻き込まれて、また笑った。ただの一日。でも、確かに特別だった。



 ──その夜、グループチャットにて。

 夜。


 自宅でソファに沈んでいた玖郎のスマホが、ぽん、と震えた。


 《しおり》


 「バラソフト食べる山口」


 「大道芸やってる山口」


 「つられて投げ銭してるあたし」


 「パレードで手振る玖郎、カッコよかったで(←これは奇跡の角度)」


 どれも、ちょっとブレていて、ちょっとピントが甘くて、でもなんだか、やたらと楽しそうな写真だった。


 そして最後に、もう一枚。


 「これ、三人で撮ったやつ」


 パレードを終えたあと、緑町公園のてっぺんで。


 夕陽の光を浴びた、薔薇のハッピ姿の三人が並んで、ちょっと疲れた顔で笑っていた。


 《しおり》


 「うちら、案外なんでもできるじゃろ?」


 「帰宅部、なめんなよ☆」


 玖郎は思わず、ふっと笑ってしまった。


 「……本当だったな…」


 画面を暗くし、スマホを胸に置いた。外では、まだ微かに、祭りの余韻が街に漂っていた。


 バラの咲く祭りの日。けれど咲いたのは──バラだけじゃなかった。


 帰野玖郎と、山口と、福山しおり。


 三人の《帰宅部と、バラの咲く日曜日》が、そこに確かにあった。



第七話


 放課後の校舎に、プリンターの「ウィーン…ガチャン」という乾いた音が響く。


 新聞部の活動日。しおりは新聞部にいた。だが今日は、いつものようにいかなかった。印刷機が、動かないのだ。


 「…まじか…ほんまウチ、この機械と相性悪いわ」


 しおりがぼやきながら、印刷室の機械を覗き込む。プリンターがフリーズしていた。


 彼女は明るい茶髪のショートボブを揺らしながら、腰に手を当ててプリンターに睨みをきかせる。制服はゆるく着崩していても、その立ち姿には凛とした存在感があった。


 しおりは新聞部のエース記者。


 今日も完成した「黎進高校新聞」6月号を印刷するはずだった。しかし、印刷してみたら全く別の記事が上がっていた。


 「え?なにこれ…こんな記事書いた覚えないし…」しおりは首を傾げる。


 そんな彼女の背後に、ひょっこり現れる影――帰野玖郎。


 「ふむ…つまり、謎の“印刷不可能事件”か…」


 「いや、そんなたいそうなもんじゃないけえ…」


 「否、それは始まりに過ぎない。これは陰謀の匂いがする。記事の差し替え…報道されては困る情報に闇の力が干渉してきたのだ。新聞部という情報操作の拠点に、何者かが干渉したのだ!」


 「いやいや、ウチの部活、陰謀とか絡むほど影響力ないし…」


 「すみません、データ、僕が昨日のまま上書きして消しちゃいました…」


 犯人は山口だった。


 「すんません!昨日USB借りて、自分の課題データ入れたまま返しちゃってて…」


 「……」


 「……」


 「ほらー、やっぱりただのミスじゃないの!」


 ──だが玖郎は、静かにうなずく。


 「いや、これは表の顔にすぎない…新聞部の“本当の顔”を隠すためのカバーストーリー…!」


 「しつこいわ!もう、ただのUSBの間違えじゃろ!」


 ……だが。


 「──それがトリックだとしたら?」


 玖郎は、机に肘をつきながら、瞳を細めた。


 「違うな、山口。お前の言葉、何かがおかしい……いや、いやいや、これはあまりにも出来すぎている」


 しおりが呆れたように額に手を当てる。


 「また始まった……玖郎の妄想タイムじゃ…」

 

 「いいか? まず、なぜ新聞部の大事な原稿が、山口のような“ただの善人”によって簡単に消される? ありえん。そんな凡ミス、警戒心の強いしおりが見逃すはずがない!」


 「え? うちのせい!?」


 玖郎は静かに立ち上がり、教室を見渡す。


 「この事件には、裏がある。そう……新聞部が“何か”を報じようとしていた。誰かが、それを止めたんだ」


 「止めたって……なにを?」


 玖郎は印刷室の扉を見つめる。


 「おそらく、新聞部が手に入れてしまったんだ。生徒会の不正を暴く、爆弾級のスクープを!」


 「いやいや、そんなのないし! うち、今月の特集“昼休み購買戦争の実態”じゃし!」

 

 しおりのツッコミを無視して、俺の妄想は加速する。


 「生徒会は焦った。『購買の列が長すぎて、生徒の生産性が下がっている』という記事は、購買部と生徒会の癒着を暴く第一歩……そこで、情報を消すために刺客を送り込んだ!」


 「刺客言うな、山口じゃし!」


 「いや、山口は囮だ。やつは利用されたのだ。まさに“影の組織”によって!」


 「組織ってなんなんよ……」


 「つまり、これは――報道を封じようとする力との戦いだ!我々は今、“真実”と“情報統制”の狭間に立たされているッ!」


 玖郎の目がギラついていた。


 その目には、ただの放課後の部室が、「抹殺された記事の陰謀」をめぐる戦場に見えていた。


 しおりは、ため息をついた。


 「“影の組織”て、生徒会のことなんか…はいはい、じゃあうち、ちょっと“影の組織”に掛け合って、消えたファイルの復元頼んでくるわ…」


 「なっ、しおり……危険だ!あいつらに接触したら戻ってこれないかもしれないぞ!」


 山口がつぶやく。


 「あ、クラウドに保存されてました」


 「……」


 「……」


 「山口GJ!!」


 玖郎は震える手で、胸元を押さえた。


 ――だが。


 「──それがトリックだったとしたら?」


 「またぁ?」


 しおりが、もう完全に聞く気のない顔をしているが、関係ない。謎は、今まさに深まったのだ。


 「クラウドに保存されていた“ことにされた”可能性……あるな?」


 「いやいや、されたっことてなんなん?」


 「考えてみろ。最初から“クラウドにあるから大丈夫”という安心感を演出することで、我々の追及を封じる作戦……まさに“記憶の改ざん”、いや、“データのすり替え”という高度な技術!」


 「ねぇ、それただの自動保存機能じゃないん?」


 「ちがうッ!! それは生徒会が仕掛けた“デジタルの罠”だッ!」


 玖郎は勢いよく机を叩いた。響き渡る音。山口がビクッと肩をすくめる。


 「つまりこうだ。新聞部が生徒会の暗部を暴く特集記事を作成。それをクラウドに保存した。いや、したと錯覚させられた。だが生徒会はそれを察知、データを上書き――いや、“似たような記事”と差し替えた!」


 「いやもう、記事のタイトル“購買部の行列と私”って完全にうちの書いたやつじゃけど……?」


 「それがフェイクだ!!」


 「えっ?」


 「考えてみろ。“購買部”の話に見せかけて、本当に暴こうとしていたのは、“購買部と生徒会のパン利権の癒着”!」


 「確かに、生徒会はちょっと絡んどったけど…パン利権!?うち購買のあんぱん推しじゃけど、それ関係ある!?」


 「もちろんあるとも! 購買で異常にあんぱんの入荷数が少ないことに気づいた記者・福山しおりは、密かに取材を始める――その矢先、データが消される! 偶然か? 否! 必然!」


 「あの…それ僕があんぱんを買い占めただけです…シールが欲しくて」


 「……」 


 玖郎は背を向け、窓の外を見つめた。


 「すべては……あんぱんが、熱すぎた」


 「それは購買で出来たてを買ったからじゃろう!」


 「だが、その“出来たて”がなぜ常に“生徒会役員”の手に渡るか――考えたことはあるか?」


 しおりの表情が一瞬固まった。


 「……それは、早く並んでるからじゃ……」


 「それが“並んでいるように見せかけて、裏から横流しされている”としたら?」


 「……ないけぇ!!」


 

 ふと、新聞部の部室の扉が開いた。


 「……あれ? なんでアンタがおるん?」


 しおりの視線の先には、印刷室の扉にもたれかかるように立つ一人の女生徒――葛城静だった。


 「生徒会の“管理担当”として来ただけよ。印刷室のログ、不正アクセスがあったか確認に」


 「“管理担当”って、生徒会にそんな役職あったっけ!? ていうかなんでそんな詳しいん!?」


 玖郎が目を輝かせて叫ぶ。


 「フフ…出たな、影の組織の幹部……! 君が“記録抹消者レコード・イレイサー”葛城静か!」


 「勝手に異名つけんでええんよ!」


 

 印刷室の空気が、ピリリと張りつめる。


 葛城静――クールな眼差しに黒髪ロングストレート、ぴしっと整った制服の着こなし。


 生徒会で“情報管理”を担当しているという噂の女子生徒が、まるで時間を凍らせるように現れた。



 「なんじゃ、静…まためんどくさいタイミングで…」


 しおりがショートボブをかき上げ、眉をひそめる。


 静は涼しげな目で印刷機に歩み寄ると、USBポートに何かの端末を接続した。


 「ログを確認しに来ただけよ。最近、印刷室のアクセス履歴におかしな動きがあって。生徒会としても見逃せないの」


 「ログて…アンタ、ほんまに何でも覗けるんじゃな…」


 だが、その瞬間。


 「やはり来たか……!」

 

 玖郎が教室の机をバンと叩いて立ち上がる。


 「やはりおまえが“記録抹消者レコード・イレイサー”、葛城静か!」


 「え? ちょっ……なにそれ、厨二!?」


 「ふふ……ようやく姿を現したな、“影の組織”の中核にして、情報操作のスペシャリスト!」


 「いやいや、静はただの生徒会やし……ログ確認するだけじゃけえ!」


 「いや、違う……奴は“記録を消すことで、真実を葬る”ことを仕事にしている!つまり、新聞部の原稿が消されたのは、やつの手によるものだ!」


 「もう…なんなん?」


 

 静は端末を操作しながら、ちらりと玖郎を見る。


 「……あなた、相変わらずね。前にも購買のレシートで陰謀説を唱えてたわね」


 「貴様……やはり、すべて知っていたのか!」


 「知っとらんて! 静はただの常識人じゃけえ!」


 「くっ……その冷たい目……まさに心の奥底で“真実を焼却する者”の眼だ……!」


 「設定変わってない?」


 

 静は作業を終えると、クールに言い放つ。


 「消えた記事のデータ、復元できるかも。最近の操作履歴が一部残ってたわ。印刷されなかったのは、PDFの設定ミス。おそらく、“この男”のせいね」


 「……はい、僕が変なフォント入れてました」


 山口がまたしても手を挙げる。


 「山口、ウチもう怒る元気もないわ……」


 玖郎は静に詰め寄る。


 「だがな……まだ一つ、謎が残っている……。なぜ、“生徒会の人間”であるおまえが、こんなにも素早く異常に気づけたのか?それはすなわち、“監視していた”ということではないのかね?」


 「ただのルーチン作業よ」


 「……そうとも言える……。だがその平静な声こそ、“嘘をつき慣れた者”の響きだッ!」


 「じゃあ何? 私が“情報を統べる黒幕”って言いたいわけ?」


 「その通り!」


 「設定が適当じゃあ!」


 「つまり、静は“第七図書室の奥にある秘密会議室”から、学園のあらゆる動きを操っていたんだ!」

 

 「この学校、そんなに図書室あるん?」



 玖郎と静の視線がぶつかり合う。かたや妄想探偵。かたや氷の参謀。バチバチと火花が散るその狭間で、しおりは盛大にため息をついた。


 「……はあ、なんなら、何の話しよるんウチら……」


 また、いつものように放課後の無駄な時間が過ぎようとしていた…。


 静が、ふと口元に手を添えた。


 「でも……妙ね。消えた記事、“購買パン戦争”ってタイトルだったけど。内容、ほとんど白紙だった。ファイルの作成時間も、データの容量も――不自然に小さすぎる」


 「え……? そ、そうだったの?」


 「この端末に“未送信データ”が残っていたわ。 そのファイル名は《購買部と生徒会の微笑ましい関係.pdf》」


 「“微笑ましい”…つまり“癒着”の隠語だな」


 山口が小声でつぶやく。


 「あの…それ僕が書いてた小説のタイトルなんですけど。恥ずかしので消しちゃって…」

 

 「なんでPDFで保存するん?紛らわしいんよ!」


 「つまり……誰かが“ダミーデータ”を作って、削除したように見せかけた可能性もある」


 「いやいや…」


 その瞬間。


 玖郎の脳内で何かが“カチッ”と音を立てて噛み合った。


 (まさか……そうか! そうだったのか!!)


 彼は机の上に登って、ビシッと天井を指さした。


 「ようやくつながったぞ……全ての点が!」


 「また始まったわぁ……」


 玖郎の目がギラリと光る。


 「いいか、しおり……静の言うように、“本当の記事”は最初から存在しなかった。つまり――誰かが、架空の記事を使って、新聞部の“発行権”そのものを消そうとしていたんだ!データは二重に改ざんされていたのだ!!」


 「え、うちの新聞部、そんな危機感なかったけど……それに山口が書いた小説じゃし…」


 「いや、気づいてないだけだ! すべては、“生徒会広報部”による情報一元支配のため……!」


 「そんなディストピア?」


 玖郎はさらに目を見開いた。


 「この事件の目的はただ一つ……“報道の自由”の抹消! そして黎進高校を情報統制の独裁国家へと変える……!」


 「え、ウチら、そんな高校生活しとったん!?」


 「そしてその裏で動くのが……“コードネーム:K”――葛城静、貴様だッ!」


 静は淡々と返した。


 「なかなか鋭いわね……だけど証拠は?」


 「ない!! だが、直感はある!」


 「駄目じゃろそれ!!」


 玖郎は息を整えると、壁の掲示板に貼られた「生徒会主催・避難訓練ポスター」を見やった。


 「このポスターのQRコード……なぜ“校内Wi-Fi”しか読み取れないようになっている?」


 「電波干渉よ。校外から読み取れないのは仕様」


 「その仕様を決めたのは誰だ!?」


 「……私だけど」


 「なるほどね…」


 「そこはちょっと突っ込んでいいとこじゃない?」


 しおりが机をバンバン叩く。アクセサリーもじゃらじゃらと音を立てる。


 玖郎の妄想はさらに加速する。


 「つまり校内に“閉じられたネットワーク”を構築し、外部情報を遮断し、やがて学内SNSを乗っ取り、最後には……“帰宅部までも、統制下に置く”!」


 「どうやって帰宅部狙うん!?」


 静は眉をひとつ上げて、わずかに笑った。


 「盲点だったわね……帰宅部なんて、最初から存在しなかった… 学校の公式記録には、そんな部活、登録されていないし…」


 沈黙。


 玖郎の目が点になった。


 「……え?」


 「言ったでしょ? 記録は私が管理してる。帰宅部なんて項目、正式には存在しないわ」


 「…………」


 「……………………」


 「つまり……われらは“無記録の存在”!すなわち、“サイレントマジョリティー”!!」


 「おみゃあがさぼっとるだけじゃろ!」



 玖郎は腕を組み、静に向き直る。

 

 「ふふ……わかったぞ、静。おまえはこの学園の“記録者”にして、“消去者”……だが、“記録に存在しない者”であるこの帰宅部こそ、唯一おまえに対抗できる“バグ”なのだ!!」

 

 静は一歩だけ近づいて言った。


 「完敗ね。そう。だから私は――あなたを見ていたのかもしれない」


 「……」


 玖郎、フリーズ。


 「って、なんでちょっと恋愛フラグみたいなりよるん?」


 しおりの絶叫が、印刷室に響いた。


 「つまり……静、お前も知っていたんだな?」


 玖郎がゆっくりと、後ろ向きに立つ葛城静に向き直る。放課後の部室。窓から差し込む夕陽が、彼女の眼鏡の縁を光らせる。

 

 「フッ、くだらない妄想ごっこをここまで膨らませるとは……相変わらずね、帰野くん」


 静は、さりげなく前髪をかき上げると、鋭い視線を玖郎に返した。


 「じゃけえ、なにその謎のバトル構図!? なんなん!?」


 しおりのツッコミが飛ぶが、ふたりの世界は止まらない。


 「静。君が校内LANの“裏アカウント”で、生徒会にアクセスしていたログはすでに確認済みだ」


 「その程度の証拠で私を追い詰めたつもりかしら?」


 静が冷たく笑う。その表情には、わずかに焦り……のようなものが浮かんでいた。ように見えた。たぶん。


 「そんなアカウントあったん?」


 しおりがついに立ち上がって止めに入る。


 「いいや、しおり……君は何もわかっていない」


 玖郎は机を指でトントンと叩いた。


 「静は“あえて”山口に間違ったパスワードを教えた。いや、それどころか“正しいパスワード”を入力できないように、キーボードのキー配置を地味に変えていた可能性すらある」


 「……なんでそんな小細工すんの!? 山口の操作ミスじゃろ!」


 「静……新聞部と裏で繋がっていたな?」


 「なぜ即決めつけるのよ。証拠があるのなら、出してごらんなさい」


 「いや、証拠はない……だが確信はある!」


 「さっきの話関係ないん?」


 しおりの怒号が、また印刷室にこだまする。


 しおりは思わず机を叩く。


 そのとき、カチャリ、と小さな音がして印刷機が突然動き出した。


 「──あ、直った。さっき再起動してみたんですが、今やっと反応したみたい」


 山口が無表情でつぶやく。


 「なにい……!!」


 玖郎が、思わず壁にもたれかかる。


 「じゃあ……じゃあ、今までのは……」


 「ただのプリンターのフリーズじゃけ!!」


 しおりの怒声が炸裂した。


 「くっ……しかし……陰謀の可能性がゼロになったわけでは……ないッ!」


 「ゼロじゃなくても、限りなくゼロに近いんよね!」


 ついに玖郎は、新聞部の部室の床に膝をついた。


 その背中に、静が静かに声をかけた。


 「……妄想も、極めれば事件になる。だけど、真実を見ることも忘れないで」


 その言葉に、玖郎はわずかに振り向き、笑った。


 「それでも……この世界には、語られぬ事件がある」


 「いや、もう、探さんでいいわ!」


 しおりが再び怒鳴ったとき、ようやく「黎進高校新聞・6月号」の印刷が始まった。


 「“購買戦争の実態”……なかなか良い記事じゃない」


 静がそう言って、しおりの原稿に目を通す。


 「まあ、陰謀とか癒着とかないけど……購買部が、チョココロネしか置かなくなったのは、“パンの仕入れ担当がチョココロネ推しだったから”っていう、ただの主観やし」


 「その事実こそ、もっとも恐るべき“個人の暴走”だ……!」


 玖郎の目が、再び鋭く光る。


 「パン祭り始まったわぁ……」


 しおりはまた、ため息をついた。


 

第八話

 放課後の教室は、部活帰りの生徒の声と、どこか名残惜しげな夕陽の赤に染まっていた。


 その静けさを破ったのは、ひとりの男子生徒の声だった。


 「ヤバい……誰か、俺の上履き隠した!?」


 悲鳴にも似た声の主――山本が、ロッカーの前でうろたえている。


 「右足だけない!なんで!? おれ今日、体育館シューズも持ってきてないのに!」


 教室にざわめきが広がる中――


 「……事件の匂いがする!」


 ぴたりと立ち上がったのは、制服の裾を無意味に翻しながら席を立つ男、「帰野玖郎」だった。


 ───人呼んで、「放課後探偵」。


 眼鏡の奥の瞳に宿るのは、妙な輝き。


 「これは黎進学園七不思議の一つ、“靴泥棒のファントム”……!」


 「また始まったんか……」と、机に突っ伏したクラスメイト・福山しおりがショートボブのかき上げながらぼやいた。


 ミニスカートに指定外のベルトを巻いているいつものスタイルだ。


 玖郎は止まらない。


 「七不思議その四――放課後、誰もいないはずの教室で靴が一つだけ消える怪異……!」


 「それ都市伝説じゃし、去年は“消えたおにぎり”とかじゃなかった?」


 「それも同一の存在による仕業だ。靴を盗む霊、それが“ファントム”! 人の足跡を記録し、模倣する――つまり、履かれることで存在をこの世に固定する、靴の呪霊!」


 「人じゃなくて、靴の呪霊なん?」


 しおりが机をばしっと叩くが、玖郎の推理は止まらない。


 「見たまえ、ロッカーの前のこの足跡の乱れ……そして、わずかに引きずった跡!」


 「それは山本くんが必死に探してた時のじゃろ?」


 「いや、違う……この軌跡は不自然な角度で交差している……まるで、誰かの“もう一つの足”が割り込んだかのような!」


 「三足歩行の霊なん?」


 「つまりこれは“靴を失った霊の悲しみ”がこの場に痕跡として――」


 「……あ、それ僕が間違えて履いて帰りました」


 唐突に挙手したのは、クラスメイトの山口だった。


 「え?」


 「昨日、上履き間違えてて。山本のだったかも……ごめん、いそいでて。今日ちゃんと持ってきてる」


 ごそごそとカバンから、やけにぺったんこになった上履きを取り出す山口。


 「あ、俺のじゃん!」と山本がそれをひったくり、ほっと胸をなでおろす。


 しおりがそっと玖郎の肩に手を置いた。


 「玖郎。事件、終わったよ」


 「……いや、終わっていない」


 玖郎はそっと眼鏡を押し上げ、低くつぶやく。


 「──それがトリックだとしたら?」


 「またなん?」


 「“なぜ”、山口は間違えて履いたのか。その背後には、黎進学園創立時の封印が関わっているのだ……!」


 「関わってないじゃろ!?」


 

 ――果たして、くだらないはずの事件が、玖郎の妄想によって再び動き出す。


 「つまりだ――これは偶然などではない。山口、お前が間違えて履いたことすら、“計画”の一部なのだ」


 そう語る帰野玖郎の目は真剣そのもの。


 傍から見れば、ただの空想癖の強い男子高校生にすぎない。しかし本人は至って真面目だった。


 「……また始まったわ…」と、福山しおりはため息。


 「山口。お前が上履きを間違えたその“瞬間”……何か奇妙な気配を感じなかったか?」


 「え? いや、特に……あ、でも……なんか背中ゾワッとした気が……」


 「やはり……!」


 玖郎の目がギラリと光った。


 「それが“靴ファントム”の接触だ」


 「こじつけじゃろ…」


 「靴は“足跡の記録媒体”だ。人間の歩いた歴史、記憶、行動――すべての情報を吸い取っている。そして、一定の条件が重なると……“過去の持ち主”の意識が呼び起こされることがある」


 「え、どんな?」


 玖郎は黒板の前に立ち、ひとつの図を描く。


 【靴ファントム構造図】


 (古代の足跡)→(現代の靴)→(人の記憶に干渉)


 「つまり、この上履きは山本の足跡を吸収し、彼の“放課後のルーティン”を記録していた。だがそれを山口が履いたことで、山本の人格情報が一時的に“移植”されたのだ!」


 「そんなんあったら靴脱げんようになるじゃろ!」


 しおりの突っ込みも華麗にスルーし、玖郎は続ける。


 「ここで思い出してほしい。“ファントム”の語源は、古代ギリシャ語の“ファントマ”……意味は“亡霊”!」


 「なんか出典あやしいけど……」


 「そして黎進学園が建つこの土地は、かつて“備後靴塚”と呼ばれた古墳群の跡地……!」


 「そんな話初耳じゃけど!?」


 「この地に眠る“足の記憶”が……今、現代の上履きを通じて蘇ろうとしている!」


 「また壮大に広がったわあ!」


 玖郎は教室の隅へ向かうと、ひとつの机の下にそっと手を差し入れた。


 「見たまえ、しおり。ここに……白い粉がある」


 「またチョークなん?」


 「これは“踏まれた地霊”が宿る印……白亜紀の亡霊たちが、この上履きに憑依している証拠だ!」


 「また白亜紀なん?」


 その時だった。


 廊下の窓が、カタン……と鳴った。


 びくっ、と山本が肩を跳ねさせる。


 「うわっ、今なんか鳴った……!」


 「ついに来たか……“靴ファントム”!」


 玖郎がすっくと立ち上がる。


 「山口!その上履き……脱げ!」


 「え?今、履いてないけど……?」


 「では、掲げろ!」

 

 「えっ、こう……?」


 山口が上履きを掲げると、夕陽の赤がその布地を照らした。


 「しおり、目を凝らして見ろ。このインソールの擦り切れた文字……“M”と“Y”の文字が見えるだろう?」


 「いや、たぶん“YAMAGUCHI”のロゴがすり減ってるだけじゃけど……」


 「いや、それは“ムカデ”の封印名だ。古代備後王朝に伝わる、“多脚神・ムカージャ”の象徴……!」


 「強引すぎるじゃろ……」


 玖郎は黒板に踵を向け、掲げたチョークを天に向かって構える。


 「この上履きに宿る霊よ……今こそその真名を明かせ!」


 「やめーや、召喚すな!」


 だがすでに、玖郎の妄想は教室という現実を超えて、時空の裂け目へと突入していた――。


 「……現れよ、古代の靴霊!」


 そう叫んだ帰野玖郎の背後で、黒板がギィィと音を立てる。風のような気配が、教室を駆け抜けた――気がした。


 「……うわっ、なんか今、涼しい風きた……」


 山本が顔を青ざめさせて言う。


 「それが靴ファントムの“吐息”だ……」


 「エアコンじゃろ、設定24度じゃけ!」


 しおりが冷静にリモコンを掲げるが、玖郎のテンションはもはや神域に達していた。


 「ムカージャ……それは、千年前、備後の地に君臨した“多足の神”。彼は千のサンダルを履き替え、時の王の夢に現れ、こう告げたという」


 玖郎がチョークで黒板に不思議な図形を描き始める。謎の曲線、謎の矢印、そして何かを表す“ム”の字。


 「“再び人が靴を履き違えしとき、我は蘇らん”と!」


 「神様、器ちっちゃすぎない!?」


 「その兆しが今……この上履き間違いという形で現れたのだ!」


 「だから、山口が山本の上履きを履いたのが原因なんじゃろ!出席番号近いし!」


 しおりの鋭いツッコミが炸裂するも、玖郎はまっすぐ黒板に向かって呟く。


 「ならば、儀式を行うしかないな……」


 「いや、なんの?!」


 玖郎は机の上に立ち、山口から受け取った上履きを頭上に掲げる。


 「ムカージャよ……! そなたの封印を再び閉じるには、“履き間違えた者”自らが“正しき持ち主”の前で土下座し、返却の儀を執り行わねばならぬ!」


 「えっ!? 僕、そこまでするの……!?」


 「もうした方がええわ。それで気が済むんじゃろうが、ほれ、ぺこりして終わりじゃ!」


 しおりが促すと、山口はやや照れながら山本に上履きを差し出した。


 「ごめん……僕が間違えて履いてっちゃってた……」


 「……ああ、いいよ。気づいてくれてありがとう」


 山本が上履きを受け取り、ほっと息をつく。


 その瞬間――


 「……やった、封印完了だな」


 玖郎が静かに言い放ち、教室に差し込む夕陽が彼の横顔を照らした。


 「黎進学園に再び平穏が戻ったな……ムカーニャも、これでまた千年の眠りにつくだろう」


 「…名前変わってない?」


 しおりがため息をつきながら歩く。


 「はぁ……まったく、なんなんその“靴ファントム”……。でも、玖郎の話、まあまあ面白かったけぇ、今日だけは許したげる」


 「ふっ……“事件”は待ってるだけじゃ見つからない。“事件は見つける”ものなんだよ」


 「いや、帰宅部やろあんた。早よ帰らんと日が暮れるで…」

 

 「……おう、今日は晩ご飯に“ねぶとの唐揚げ”が出る予感がする!早く帰らないとな!」


 「…アニメまでの暇つぶしじゃないん…?」


 「!しまった!今日もメカメカ☆アイドルがあるんだった!」


 ……その背中に、夕暮れの風が優しく吹いた。


 「放課後探偵、次なる事件に備えて!一時撤退!」


 「いや、帰宅じゃろ…」


 しおりのつっこみが、空に溶けていく。


 今日もまた、ほんのささやかな「事件」と、果てしない妄想劇の一幕が、放課後の教室に咲いたのだった――。


第九話

 放課後の教室は静かで、ほのかに消毒液のにおいが漂っていた。


 窓際の席で、玖郎は腕を組みながら仁王立ちになっている。


 「事件の匂いだ」

  

 唐突な宣言に、福山しおりは思わず雑巾を取り落とした。


 「またなん?今度は何が起きたん?」


 しおりはあきれたような表情で腰に手を当てた。


 髪は明るいショートボブ、腕には銀のアクセサリー、制服はゆったり着こなしていて、腰には校則違反のベルトが巻かれている。


 「聞け、しおり……この教室で、未来が破られた」


 「……だれの?」


 玖郎が指さしたのは、ひとりの男子生徒──森川の机だった。


 机の上には、一枚の紙が載っていた。破れ、端が汚れ、ところどころしわくちゃだ。


 「これは……進路希望票?」


 「そう。誰かが彼の“未来”を破ったんだ。ここに、壮大な陰謀の気配を感じる……!」


 「感じとるのはあんたの頭の中だけじゃないん?」


 しおりはふうとため息をつきながらも、その進路希望票に目をやった。確かに紙は中央から斜めに破れ、テープで応急処置がされている。


 「森川くん、何書いてたん?」


 「『調理師専門学校に進学したい』って。料理の道、目指してるらしいな」


 「……そういえば、調理実習の時もずっとサラダの盛り方こだわってたもんね」


 しおりが思い返して笑っていると──


 バタン、と教室のドアが開いた。


 やってきたのは、ちょっと猫背で、髪が寝癖だらけのクラスメイト──山口だった。


 彼はおずおずと、頭をかきながら歩み寄ってきた。


 「……その進路票、オレが破りました……」


 「事件解決だね…」


 「……」

 

 「いや、違うんすよ! 掃除の時間に、机の下拭こうとして、ちょっと前かがみになったら……勢いで机ごとひっくり返しちゃって。で、中に入ってた紙とかばらけて、慌てて拾ったんすけど、すぐに紙はもどしたんだけど。もしかしたらびりびりになってたかもしれなくて…」


 「なるほど……つまりこの事件、犯人は“重力”。共犯者は“お前の運動神経”だな」


 「また始まったわ…」


 「破かれた進路希望票……それはまるで、料理人になる夢が、ざるそばのように水に流された瞬間……」


 「ざるそば…て」


 しおりがぽつりとつぶやいた。


 「でも、山口くん。机は倒して、進路表はばらけたかもしれないけど、破ってはないでしょう?」


 「……えっ」

 

 山口の顔が凍りつく。


 「……ってことは、オレ……身に覚えない罪を自白しとる!?」


 「どんだけ自白慣れとるんよ、あんた……」


 その場の空気が一瞬にして凍りついた。


 「だが、これはチャンスだ……!」


 玖郎の目がぎらりと光った。


 「なんなん…なんのチャンス?」


 「──それがトリックだったとしたら?」


 「それ言うの遅くない?」


 「これはただの事故じゃない……破かれた進路票、そこには恐るべき“時間犯罪”が隠されていたのだ!」


 玖郎はチョークを持ち出し、黒板に奇怪な線を引き始める。


 「時は掃除時間……誰もが無防備な時間帯。森川の机の中には、進路票が置かれていた。だが、それは──昨日の森川によって、すでに出されたはずのものだったのだ!」


 「え、意味がわからんし」


 「つまり! この破れた進路票は、“過去から送り込まれた進路票”だったんだよ!」

 

 しおりがぐっと顔をしかめる。


 「いやそれ、どうやって送るんよ。ポストに“昨日”って書いとるん?」


 「聞け! 今回の事件のキーワードは、“折り目”!」


 玖郎は進路票の中央を指差した。


 「この破れ目をよく見ろ。なぜ真っ二つに裂けたのか……それは、“時空が歪んだ”からに他ならない!」


 「他にいくらでも理由あるじゃろ…」


 「森川は、こう言っていた。『希望票は昨日書いて、提出した』と。だが──今日、同じ票が彼の机から発見された。これは二重提出でも、印刷ミスでもない。“時間の反復”……つまり、“タイムループ”の兆候だ!」


 「出し忘れただけじゃね?」


 「むしろ、学園全体がすでに“ループ内”にいるのかもしれない!」


 「ループ警察、出番じゃあ!」


 しおりが思わずツッコむが、玖郎の暴走は止まらない。


 「この破れた票こそが証拠。“前のループ”で提出された票が、なぜか現ループに持ち越された──だが、世界のバランスを保つため、時の守護者がこの進路票を“破壊”した!」


 「その守護者……それ掃除当番じゃないん?」


 「違う。“破かれた未来”……それは、時間の修正力による結果。つまり山口は、知らず知らずのうちに“時間修正機構の使徒”となっていたのだ!」


 「山口どこに就職するん?」


 「しかも注目すべきは、森川の進路。“調理師”……!」


 玖郎はチョークで「調理」と書いた。


 「“調理”──すなわち、素材を切り刻み、再構成し、新たな形を与える行為……!つまり森川は、無意識のうちにこの世界を“再構築”しようとしていたのだ!!」


 「どこの学校に進学する予定だったん?」


 「だが、それを危険視した世界が、進路票を破壊し、森川の夢を阻止した。すべては、“世界の自動防衛機構”の仕業だッ!!」


 「それ…なんなん…?」


 「犯人は──地球」


 「デカすぎるんじゃぁぁ!」


 

 そこに森川が教室に入ってくる。


 森川がぽつりと口を開く。


 「進路票、出し忘れてて。さっき見たらなんか汚れてて。それで破ってしまって。……先生に言ったら“新しいのもらえるよ”って。で、新しいのさっき職員室で書いてた」


 「……そうか」


 玖郎はゆっくりとチョークを置いた。


 「では、我々が今行っていた30分の推理は……」


 「“時間の無駄”じゃね?」


 「いや、“時間への冒涜”だな……!」


 玖郎がそう呟くと、誰からともなく笑いがこぼれた。




 その日の夕暮れ、誰もが忘れかけていた進路希望票の事件は、ただの“掃除中の事故”として幕を下ろした。


 だが、玖郎は窓の外を見つめながら、小さく呟く。


 「……気づかれなかったか。もう一枚の破れた票が、まだこの教室に存在しているということに──」


 「…もう帰えろうや…」


 「メカメカ☆アイドルが始まるしな!」



第十話

 黎進高校の図書室は、放課後になるとひっそりとした静寂に包まれる。


 古い木の机に差し込む夕陽が、まるで時間の流れを忘れさせるような場所だ。


 

 「おかしいな……昨日ここにあったのに」


 本棚の前で首をかしげているのは、1年生の女子生徒だった。


 隣にいた男子生徒が同じく棚を覗き込みながら言う。


 「“購買戦争・外伝”……だっけ?俺も途中まで読んだのに。しかも作者も不明なんだよな」


 「なにそれ、知らんし。そんな本、図書室に入っとらんよな?」


 明るい髪色のショートボブにミニスカートにベルトを巻いた――新聞部の福山しおりが、暇そうに頬杖をついたままツッコむ。彼女の備後弁混じりの口調が、場に不思議な緩さを生み出す。


 

 そこへ、ひとりの男がスッ…と静かに姿を現した。


 「なるほど……事件の匂いだ…」

 

 決めポーズを取りながら現れたのは、――帰野玖郎だった。


 「うわ、出た。探偵ごっこ始まったわ…」


 「いや、これはごっこではない。断じて“真実を追う旅”――なんだ!」


 玖郎はスッと人差し指を上げて、ぴしっと本棚を指さす。


 「図書室から消えた謎の本。“購買戦争・外伝”。それは誰かが読まれてはいけない情報を封印した証拠。……我々は、“闇の禁書”に触れてしまったのかもしれない――!」


 「あのぉ…」


 静かに手を挙げたのは、ぽやんとした表情の山口だった。


 「あの…それ、僕が作ったやつです」


 「…………作った?」


 図書室の空気が一瞬止まる。


 「購買のことを記録してたら、楽しくなって……つい文章にまとめちゃって。印刷して、ちょっと装丁して……」


 「製本……したん?」


 しおりがぽかんとして表情を見せる。


 「うん。中綴じも頑張ったし、貸出カードもつけたら、本っぽくなって。置いたら誰か読むかなーって思って……」


 「……」


 図書室の司書、倉本先生がぽつりとつぶやく。


 「表紙もタイトルもしっかりしてたから、誰かが寄贈したのかと……」


 しおり、がくりと膝をついた。


 「……犯人は山口。しかもただの“自作”……」


 こうして、事件はあっさりと解決した。


 ――はずだった。


 玖郎の目が、にわかにギラリと光る。


 「──それがトリックだとしたら?」


 「いやいやいや!山口が作ったいうたじゃろ??」


 「いや、待ってくれ山口。……君は“作らされた”んだ。記憶を操作されたんだよ!誰かに!」


 「はぁ…」


 「君の記憶は改ざんされている!この本――見れば見るほど、不自然すぎる!人気パンの動向、売上グラフ、価格の変遷……これはただの作文じゃない!」


 玖郎は懐からスライド棒を取り出すと、黒板を叩いた。


 「これは“購買戦略研究書”!もはや経済学だ!さらに、ページの隅……見てみたまえ!」


 「これ……ドーナツの絵じゃない?」


 「そう!ドーナツ。だが、これはただのイラストではない。“シンボル”なのだ!」


 しおりが小さくつぶやく。


 「なんのシンボルなん?なんなんこの展開……」


 玖郎は熱に浮かされたように、まくし立てた。


 「つまりこの本は、“パンに秘められた錬金術”を記した書――」


 「ライトノベルなん?」


 「……“パンの錬金術書”ッ!!」


 図書室に衝撃が走る。いや、主に玖郎の中に。


 「司書がこの本の存在を否定したのは……その知識が、学校の秩序を揺るがすからだ!」


 「いや、登録してなかっただけじゃろ!?」


 「違う!これは“禁書”だったんだ!」


 玖郎は熱を帯びた声で続ける。


 「購買の秘密が暴かれれば、学校経済は崩壊する!購買戦争・第二章が始まってしまう!」


 「そもそも購買に戦争なんか起きたことないんよ…山口が買い占めただけじゃし…」


 「今こそ、回収しなければならない!この“ブレッド・アルケミスト”の遺産を!」


 「なんか中二病入ってわぁ……」


 玖郎の妄想は止まらない。しおりと山口は呆れながらも、どこか楽しそうにその様子を眺めていた。


 「……で、山口。あの本、何冊くらい作ったん?」


 「え?一冊だけだけど……あとで恥ずかしくなって…図書室の棚に置いただけです」


 「……まぁそれはやりすぎだと思うけど…」


 しおりがつぶやく。


 倉本先生は手に取ったその一冊をじっと見つめながら、ぽつりと言った。


 「……でも、よくできてますよ。丁寧な装丁、紙もいいもの使ってる。印刷のズレもないし……」


 玖郎はその言葉に深くうなだれた。


 「……禁書が……褒められている……」

 

 その日の夕暮れ、図書室で無駄な放課後が過ぎようとしていた…。


 だが、玖郎はその背中にひとつの決意を秘めていた。


 ――この本は終わりではない。必ず第二第三の“禁書”が、学校に忍び込んでくるはずだ。


 

 ──そして数日後。


 黎進高校の昼休み。


 購買部の前には、異様なまでの行列ができていた。


 カレーパン、焼きそばパン、チョココロネに至るまで、すべての棚が一瞬で空になるという異常事態。


 「ま、まさか……これが、“購買戦争・第二章”……!」


 玖郎が目を見開き、口元を引き締めたその瞬間、隣から声が飛んだ。


 「いや、違うって。しおりさんが記事書いたんよ。“購買の人気ランキング”って」


 「記事?」


 「うちの新聞部でな。山口の本の内容、まんま引用して。『今、熱い!購買パン特集』って載せたら、購買が混雑してな」


 「なんということだ……つまり、“禁書”は拡散されたのか……!」


 玖郎はふらふらと壁にもたれかかり、空を仰ぐ。


 「この世界は、すでに“パンの錬金術”に支配されていたんだ……!」


 「いや、ただの購買人気特集なんじゃけど」


 しおりがぺたんと地面に座り込んだ玖郎の頭をぽんぽんと叩きながら、笑う。


 「でもまぁ、あんたの変なノリのおかげで、山口の本が目立ったのも事実だしね。まあそのおかげで新聞部の記事の人気もうなぎ上り」


 山口はちょっと照れくさそうに笑った。


 「実はさ……また続きを書いてて……。次は“購買戦争・第二巻”、あと、スピンオフで“焼きそばパンの系譜”も……」


 「……マジか。完全にシリーズ化しとるわ」


 しおりが呆れたように眉をしかめる。


 しかし玖郎は、目をきらりと光らせて立ち上がった。


 「そう……それだ!それこそが“学校に忍び寄る禁書”第二波……!」


 「また始まったわ……」


 玖郎はスッと手帳を取り出し、まるでエージェントのように書き込む。


 《第二の禁書、“焼きそばパンの系譜”を追跡せよ。購買の裏に潜む組織“ソース同盟”との接触も視野に入れる──》


 「もう妄想がとまらんのよこの人……」


 しおりは頭を抱える。


 だが玖郎の妄想劇には、もはや止まる気配はなかった。


 「……パンの裏には常に陰謀がある。ドーナツの穴が、すべてを語っているんだ……」


 「もうわからん。ドーナツの穴って何の話!?」


 

 しおりはそっと購買部を抜け出した。


 そんなこんなで、黎進高校には今日もまた、くだらなくもどこか心に残る“謎”が生まれ続けていた。


 そして図書室の奥の棚には――今もそっと置かれている。


 山口の手製の一冊、“購買戦争・外伝(第一巻)”。


 その背表紙には、彼のこだわりで金色の小さな文字が刻まれていた。


 《黎進アーカイブ001 購買戦記シリーズ》


 「続巻、近日登場」

 

 その文字が、次なる“事件”の予感をにおわせていた。


 そしてこれが話題になり、地元の新聞にのり、出版社からお声がかかり、出版し、ベストセラーに…。


 ……なったかならなかったかは――まだ、誰も知らない。



第十一話

 ――その放課後、黎進高校は奇妙な静けさに包まれていた。

 

 チャイムが、鳴らなかった。

 

 就業時間はとっくに過ぎているはずなのに、校内に響くはずの“キーンコーンカーンコーン”の下校のチャイムが、一向に鳴らない。


 教室内では、生徒たちがそわそわと時計を見たり、スマホをちらっと確認したり、教師の顔色をうかがったりと、まるで時の流れそのものが狂ったかのような空気が漂っていた。


 「なんか……チャイム、鳴らんよね」


 しおりが眉をひそめながら、隣の玖郎に声をかけた。


 ギャル風のメイクに、今日は肩の開いた私服風セーター、相変わらず指定外のベルトでホックを通さずスカートを留めている。ほのかにバラの香りと漂わせている。今日も校則ギリギリを突き抜ける存在感である。


 「ふふ、面白くなってきたな……」


 帰山玖郎は顎に手を当て、なぜか満足げにうなずいた。


 「いや、帰れんし…迷惑なだけじゃろ?」


 「これは事件だ。時間そのものが封じられたような、そんな異常事態……!」


 「いや、単に鳴らんだけじゃけぇ…」


 玖郎は立ち上がり、黒板の時計をじっと見つめる。


 秒針は、きちんと動いている。つまり、時計は正常だ。


 ということは――


 「下校チャイムが鳴らない。それは“誰かが意図的に鳴らさなかった”ということではないか?」


 「でたわ、無駄な推理の時間じゃ…」


 そのとき、教室のドアが開いた。


 「すみませんでしたああああああ!!」


 駆け込んできたのは、例によって例のごとく――山口である。


 肩で息をしながら、彼は叫んだ。


 「僕が……放送室のチャイム設定、いじってしまいました! 今日の掃除中、校内放送のBGM設定しようとして……そのまま予鈴の時間、消してしまってて……!」


 しーん、となる教室。


 玖郎はまだ黒板を見つめていた。


 「……いや、ちょっとは驚くとこじゃろ…」


 しおりの的確なツッコミが、教室内の静寂を打ち破った。


 生徒は下校の準備を始める。


 かくして事件は、あっという間に終わった。


 だが――玖郎の頭の中では、事件の幕が、いままさに上がろうとしていた。


 ──止まった予鈴…。


 「いや、待て……待ってくれ、山口」


 玖郎はゆっくりと立ち上がり、眼鏡をくいっと押し上げた(※伊達眼鏡である)。


 「──それがトリックだとしたら?」


 「また始まったわ…」


 「本当に君が“間違えて設定をいじった”だけなのか? いや、そうではない。そうであってはならないのだ……!」


 「いや、そうなんだけど……」


 「この学校で、もっとも時間を操れる場所はどこか? それは……放送室!」


 玖郎は教室の机をバンと叩いた。


 「時を告げる音を止めることで、生徒の動きを制御し、混乱を誘発する。誰がそれを望む? それは、すなわち――」


 彼はゆっくりと前を向く。


 「“生徒会”だ……!」


 「またあ!? 山口が間違えただけじゃろ!?」


 「おかしいとは思わんないか?チャイムが鳴らないだけで、校内は“時間”を見失い、全体が混乱状態になる。そう、これは一種の“心理実験”……!」


 「してないじゃろ?」


 「つまりこうだッ!」


 玖郎は教卓の上に飛び乗った。


 「生徒会は、黎進高校を“時間で統治する”ために、まず予鈴という名の“時間の律動”を破壊した! 時計ではなく、音で人々を動かす“音響支配”!」

 

 「かっこつけとるん…?」


 「さらに、もし今後もチャイムが鳴らなくなったとすれば……次に生徒たちはどうする? スマホを見る! そう、時間の確認手段が“個人化”するのだ!」


 「いや、現代っ子やけんそれは普通じゃろ?」


 「それこそが、生徒会の狙い……!」


 玖郎は空を仰ぐように手を広げた。


 「“共通の時間”を破壊することで、生徒たちの行動を“自己責任”に変え、最終的にはすべての規律を“通知アプリ”に置き換える……!その通知を制御するのが、生徒会――つまり“時間の神”!」


 「またディストピア構想なん!?」


 「生徒会の静……いや、“時間管理者クロノマスター”こと白鐘静、ついに動き出したというのか……!」


 「名前変わっとるやん!」


 玖郎の脳内では、既に校内全体が巨大な時計仕掛けと化し、生徒会室の奥に鎮座する静が、銀の懐中時計を持って不敵に笑っていた。


 「時間は、我ら生徒会のもの。――さあ、決断せよ。お前の下校時間も、息をするリズムも、すべて我らの“スケジュール”のうちにあるのだ……」


 「なんなん…」と、言いつつも、静なら若干そんなこと言いそうと思うしおりだった。


 玖郎の妄想は止まらない。


 「だが……この帰野玖郎、“時間の亡命者”として、その支配には屈しない……!時の牢獄から生徒たちを解放するために、俺は戦う。俺が今から押す、この“チャイムのスイッチ”でッ!」


 「いや放送室入れんじゃろ…」

 

 その時教室のドアが開いて、静が入ってきた


 「帰野玖郎。あなたね、また余計なことしてくれたのは」


 「来たな、葛原静!」


 「葛城です」


 バチンと空気が弾けるような声。静の視線は、冷たいけれどどこか呆れていた。


 「また、余計なんが来たわぁ…」 


 葛城はため息をつく。


 「今回は山口くんのミスってことで、特に処罰はないけど……。帰野くんは、自分の妄想で無関係な生徒を疑ったでしょう?その謝罪として」


 トン、と彼女は机を叩いた。


 「あなたの推理聞かせてもらおうかしら?今回の件、“推理”で解決してもらうわ。頭の中で」


 玖郎は、一拍の間を置いて、静かに笑った。


 「静…ちょっと楽しみにしてるじゃろ?」


 「つまり、妄想の中でなら何をしても……」


 「……怒られないとは言ってないわよ?」


 こうして、放課後の無駄な時間が過ぎていく…。


 それは静寂の中で始まった。


 「――時計塔。黎進高校には、存在しないはずのその塔が、忽然と現れていた」


 玖郎は窓の外を見つめながら、物語を語り始めた。


 「それは霧の朝だった。チャイムは鳴らなかった。いや、正確には“時間が封じられた”のだ。何者かが、時を止めた。だがそれは単なる物理的な異常ではない――精神的、心理的な干渉だった。すなわち“人間の認識”をねじ曲げる力……」


 「うわ、始まったで……」


 しおりがそっとつぶやくが、玖郎の妄想は止まらない。


 「その犯人の名は――“時の番人”」


 ──彼はそう呼ばれていた。生徒会に潜み、すべての時間割を支配する男。誰よりも早く登校し、誰よりも遅く去る。職員室の鍵すら自在に操る、謎多き存在……。


 「そして奴は、チャイムを止めたことで、何を得たのか? ――それは、“無限の昼休み”だ」


 「それただのさぼり魔じゃろ?」


 「無限の昼休みの中で、パンを何個でも食べ放題……購買を一人で支配できる……そう、パン好きによる革命だったのだ!」


 「パン好きすぎん?」


 「止まった時間の中で、真に動いていたのは――パンの袋だけだった……!」


 玖郎の表情は真剣だった。推理というより、もはや詩人。いや、パンへの熱狂的信仰者。


 「購買の棚は空だった。売る者はいない。だが、買う者もいない。そこに存在するのは、“無限”――時の牢獄だ」


 「山口が買い占めたんじゃろ…」


 しおりの冷静な声にも、玖郎は応じない。


 「つまり、“時を止めることで購買のパンをすべて独り占めする”という狂気の計画……それを実行したのが、【生徒会の闇】というわけだ!」


 バンッ!


 机を叩き、立ち上がる玖郎。


 「犯人は、生徒会書記・葛城静香。またの名を“時の牢獄の看守クロノ・ジェイル”。昼休みのパン争奪戦に嫌気が差し、ついにチャイムを封じることで、無限昼休みを作り出し――」


 「パン好きすぎるじゃろ…それに、時の番人とかじゃなかったん?」


 冷ややかな声が、玖郎の幻想を打ち砕いた。


 「犯人は山口くんで確定です。パンの独占計画なんてありません。」


 「そうだよ。僕が間違えてチャイムの設定消しちゃったんだよ。」


 玖郎はそっと視線をそらした。


 「……やはり、真実というものは、いつも容赦ない」


 「その前に、自分で作った嘘から目ぇそらすな…」


 「時を操る者は存在しなかった……しかし、時間に翻弄される人間の愚かしさだけは、浮かび上がった」


 「はあ…なんなん…」


 「ふふ……だが安心するといい、しおりくん。僕がいれば、黎進高校の時は止まらない」


 「いや今日、止まったんじゃけど……」



 こうして、玖郎の“無駄推理”はまだ続く──、と思われたが…。


 「お前ら早く帰れよー」


 体育の松永先生が入ってきて、玖郎は“時間停止ポーズ”を取ったまま、連行されていった。


 事件は解決していたが、玖郎の戦いは、まだ終わっていない。


 連行される直前、玖郎は静かにこう呟いた。


 「……時は、止まったままが一番平和なんだよ。放課後みたいにね」


 「おみゃあがサボりたいだけじゃろ!」



第十二話

 体育の授業が終わり、みんなが着替えを済ませてロッカーに向かっていると、突然、福山しおりが大声で叫んだ。


 「うちのピアスがない!」

 

 彼女の周りにいた友達が驚き、次々に振り返る。

 

 しおりは焦った様子でロッカーを開けたり、床を探したりしたが、どうしても見つからなかった。


 「大丈夫?どこで落としたんだろう?」


 友達が心配そうに声をかける。


 「落ち着いて、しおり。もしかしたら、誰かが拾ったかもしれない」


 その言葉に、しおりはほっとした表情を浮かべ、周囲の床やロッカーを見渡し続ける。


 しかし、なかなか見つからない。その時、山口が手を挙げた。


 「あのぉ…これじゃないですか?」


 山口はしおりのピアスを手に持っていた。


 「えっ!それ、私のだ!」しおりは目を輝かせてピアスを受け取り、感謝の言葉を口にした。


 「ありがとう、山口!助かった!」


 山口はにこやかに笑いながら言った。


 「体育の時、床に落ちていたのを拾っておいたんです。急いで持ってきました!」

 

 しおりはピアスを耳に戻し、胸をなでおろした。しかし、その時だった。


 「ふむ…」突然、静かな声が響いた。


 振り向くと、帰宅部の帰野玖郎がいつの間にか現れていた。


 玖郎はしっかりとした表情で、まるで大きな事件が起きたかのように、しおりと山口をじっと見つめている。


 「何?もう解決したんじゃ…」


 しおりは少し困惑しながらも、玖郎がまた何かを始める予感がした。


 「いや、しおり、まだ事件は終わっていない」

 

 玖郎は、重々しい調子で言った。


 「え?だってピアス見つかったじゃん?」

 

 しおりがつぶやく。


 「その通り、確かに見つかった」


 玖郎は頷いたが、次の瞬間、表情が一変した。


 「だが、問題はそこだ。なぜ、ピアスは山口の手にあったのだろう?」


 「は?」

 

 しおりは目を丸くした。


 「山口が拾ったから、何も問題ないじゃん」


 「──それがトリックだとしたら?」


 玖郎は自信満々に言い放った。


 「まず、体育の時にしおりはピアスを外した。しかし、問題はその時、誰もピアスを拾わなかった…そして、なぜか山口が後から現れてピアスを見つけた。これは単なる偶然ではない」


「それ、ただ拾っただけでしょ?」しおりは呆れ顔で言った。


「俺、体育館の掃除当番だったんだけど…」


「…待ってくれ。問題はもっと深いところにある」


玖郎は無視するように話を続けた。


 「ピアスが失われた原因を考えてみろ。もしこれが偶然であれば、なぜ山口だけがそれを見つけたのか。仮に、誰かが故意にピアスを隠したとしたら、その犯人は一体誰だ?」


 しおりはさらに困惑した。


 「だから、山口が拾ったんだってば!」


 「待て」玖郎は指を立てて言った。


 「ここに重要な手がかりがある。それは、ピアスのデザインだ」


 「デザイン?」しおりが眉をひそめた。


 「しおりさん、普段からバラの形のピアスしてるから、しおりさんのピアスだとおもったんだけど…」


 玖郎は山口を無視して真剣な表情で続けた。


 「…それに気づいていたのは、僕だけではない。ピアスが落ちていたとき、他の誰もそれを見逃したが、山口だけがそれを拾い、しおりのピアスだと認識した。なぜなら、それがバラの形だからだ」


 「うん…まあ…」


 しおりは微妙な表情を浮かべた。


 「だからうちが普段からバラの形のピアスをしてるから、山口がすぐに気づいたっていってるじゃろ??」


 「…そうとも言う…」玖郎はニヤリと笑った。


 「だから、ピアスが失われた瞬間、それを拾うべくして拾ったのが山口だったんだ。偶然ではなく、必然だった」


 玖郎は腕を組み、眉間にしわを寄せて立ち上がった。


 その目は、妙にキラキラしている。


 「やはりそういうことか……!」


 机をバンッと叩いた音に、しおりと山口がびくりと肩を跳ねさせた。


 「待てよ、山口くん。君が“たまたま拾った”というその言葉、本当に信じていいのかな?」


 帰野玖郎が突然、鋭い目つきで山口に迫る。


 山口は驚きのあまり、目を大きく見開いた。


 「えっ……?」


 「しおりが大切にしていたピアス。それが体育の時間中に“たまたま”落ちて、君が“たまたま”拾う……偶然が、あまりにも重なりすぎているとは思わないかい?」


 玖郎の声は次第に高まり、やる気に満ちていた。


 しおりは少し困ったように肩をすくめ、「いや、ただ拾っただけじゃろ? ありがとね」と呆れた声で答える。


 しかし、玖郎はそんな言葉には耳を貸さず、しっかりと黒板に向かって歩み寄り、手にチョークを取ると、次の瞬間にはその手が止まることなく、猛烈な勢いで図を描き始めた。


 「いや、ここが事件の起点なんだ!──では、再現してみよう!」


 玖郎は黒板に、体育倉庫の位置関係やピアスを外したタイミング、山口の動線を無駄に図解し始めた。


 しおりと山口は無言でその様子を見守る。

 

 「まず、ピアスが失われた“正確な時間”を特定する必要がある。ピアスは……重さ約3.2グラム。風に飛ばされるには軽すぎる。ならば誰かの“意志”が関わっていたはず!」


 玖郎は勢いよく話を続ける。


 「いや、体育のときタオルで汗拭いたら引っかかって落ちたんよ。たぶんそれじゃと思うけど」


 しおりが淡々と反論すると、玖郎は軽く笑みを浮かべながら、きっぱりと言った。


 「ふっ……それもまた、“情報操作”という可能性がある!」


 山口は一瞬、恐怖に目を見開いた。


 (ピアス……もう返したのに……)


 その表情を見て、玖郎はますますヒートアップしていく。


 「そして、拾ったとされる場所……そこにいたのは山口、だけじゃない。もうひとり……“彼”もいたはずだ……!」


 そう言いながら、玖郎は次のターゲットを探し始める。


 「え、俺? いや、偶然近く通っただけなんだけど、掃除当番だし」


 クラスメイトAが、手を上げて不安げに声を上げると、玖郎はすぐに鋭い眼差しで彼を見つめた。


 「君の“偶然”を、僕は信じない……!」


 「えっ!」

  

 登場人物が増えるごとに謎の容疑者がどんどん増えていく。


 どれが本当の犯人なのか、誰もわからない。


 しおりは呆れた顔でため息をつき、「……ほんま、ようやるわ……」とつぶやく。


 山口はただただ困惑していた。


 「これ、どのタイミングで止めたらいいんですか……?」


 しおりは少し肩をすくめて、ため息をつきながら言う。


 「もう放っといてええよ。どうせそろそろ、『真犯人は校長じゃ……!?』とか言い出すけえ」


 「──そう! 校長のあの鋭すぎる視線……あれが薔薇のピアスを狙っていたのでは──」


 玖郎は次々と不自然な推理を繰り広げ、さらにその勢いを増していった。


 「……ほんまに校長なん……」


 しおりは呆れたように呟き、横で無駄に熱心に推理を繰り広げる玖郎を見つめる。

 

 「これ、どのタイミングで止めたらいいんですか……?」


 山口は、何度目かの困惑を顔に浮かべながら、しおりに視線を送る。案の定、玖郎の推理は止まらない。教室が再びその声に支配され、ひとしきり騒がしくなる。


 しおりはもう、この流れに慣れた様子で、ため息をついた。


 玖郎は目をキラリと輝かせ、にやりと笑みを浮かべた。


 「ピアスはただの装飾品じゃなかった……それは《国家機密が封印された極小メモリチップ》だったんだ!」

 

 教室が急に静まり返る。誰もがその言葉の意味を理解できず、妙な間が生まれる。


 「……は?」


 しおりが、あきれた顔でその言葉を繰り返すと、玖郎は得意げに言葉を続けた。


 「つまり、あの薔薇の形。あれはただのデザインではない。極秘組織花びら機関のシンボルです。そしてその中心には、黎進高校における10年分の“生徒指導記録”と“校内恋愛統計”が詰まっている……!」


 しおりと山口は目を丸くして、互いに視線を交わす。


 玖郎はゆっくりと上着の内ポケットに手を伸ばす。その動作に周囲の空気がピリッと張り詰めたが、次の瞬間、玖郎が取り出したのは空っぽの手だった。


 「そ、それを狙っていたのが……校長先生だ!」


 「……校長…?」


 山口が声を震わせて問い返すと、玖郎はうなずく。


 「うむ。彼は自らの黒歴史――1982年の運動会仮装大会で《タイツマン》として出場してしまった過去を葬りたかった。その記録が、あのピアスの中に……!」


 しおりは手にしたピアスを、再びじっと見つめた。彼女の顔には驚きの表情が浮かぶ。


 「うちのピアス、そんなすごいもんだったん……?」


 玖郎は胸を張って言い放つ。


 「しかもこれは序章にすぎない。あのピアスを巡って、世界規模の諜報戦が始まる可能性がある。だからこそ、我々は今すぐ――!」


 その時、突然、職員室からくしゃみの音が聞こえてきた。


 「……!」


 玖郎はその音に反応し、顔を引き締める。


 「やはり動き出したな、校長……!」


 しおりはその発言にすぐに反応した。


 「いや、風邪じゃろ、ただの!」


 しおりはピシャリとツッコむと、何とも言えない表情で玖郎を見つめる。


 その目はあきれと笑みが入り混じり、優しさが感じられた。


 「うちはただ、ピアスが戻ってきてよかったんじゃけえ。ありがと、山口くん」


 「い、いえ……なんかすみません……!」


 山口は申し訳なさそうに頭を下げる。


 それでも玖郎は、窓の外をじっと見つめ、真剣な表情を崩さない。


 「……真実はいつも大体一つ……」


 しおりはその言葉を遮るように、鋭いツッコミを入れた。


 「頭が子供なんよ!」


 その一言が、教室に爽やかな風のように響き渡る。


 しおりはそこで、急に話題を変えた。


 「……あのピアスな、実は――中3んとき、ある人にもろうたんよ」


 「“ある人”?」


 玖郎は一瞬、目を細めてその言葉に反応した。


 「ふふ。……ほんまは、ちょっと特別な人からのプレゼントなんよ」


 しおりは少し照れくさそうに笑う。


 玖郎はその言葉に驚き、顔を赤くしながらも、心の中で興奮が高まっていく。


 「それはまた……恋の香りだな」


 しおりはすぐに首を横に振って、「そんなんじゃないし……」とぼやきながら少しだけ照れた表情を見せた。


 玖郎はその微妙なニュアンスに気づき、ふっと顔をほころばせる。


 「……つまり! そのピアスが失われるということは、しおりの青春の欠片が消えてしまうというじゃないか!」


 しおりはその言葉に思わず目を伏せる。


 「……そんなん言われると、ちょっと泣きそうになるやん」


 と、少し感情を抑えきれずに言った。


 山口はその姿を見て、心の中で安堵した。


(やっぱり拾ってよかった……なんかしおりさんの『恋愛メモリー』ぽいし…)


 「ん?山口、なんか言った?」


 「いえ、なんでもないです!」


第十二

 黎進高校――学園生活の規律と厳格さに包まれたこの学校には、ただ一つ、特例のような校則が存在する。

 

 成績上位者には、服装にある程度の自由が認められるというこの規定は、すべての生徒に平等に適用されるわけではない。要するに、「勉強ができる者」だけが享受できる特権だ。

 その特権を最も巧妙に、かつ攻めた形で活用しているのが、新聞部兼帰宅部の福山しおりである。


 昇降口の扉が開き、光が差し込む。しおりが一歩足を踏み出すと、周囲の空気が自然と変わる。彼女が登校するたびに、その制服姿は一種の“視線の渦”を引き起こす。なぜなら――そのスカート丈が、ただのスカートではないからだ。

 

 通常、黎進高校の制服のスカート丈は、膝上十センチほどと定められている。しかし、しおりのスカートは明らかにその規定を逸脱している。丈は、すでにホットパンツに近い。ホックは外され、穴を通さず、上からベルトが回されて留められている。スカートの裾は、まるで“狙って”そのままフリルのようにひらひらと揺れる。その足元には、白いルーズソックスとローファー。まるでこれ以上の制服の制約など、無視しているかのように歩き続ける。耳にはバラの花のピアス、口元には余裕の笑み。


 しおりの姿を見た瞬間、周りの男子生徒たちは必ずと言っていいほど目を奪われ、何かを言おうとするが、決して彼女に話しかけることはない。


 「いやぁ、眼福、眼福」

 

 ぼそっとつぶやかれたその声は、しおんの隠れファンの男子生徒のものだった。


 だが、しおりはその声は届くはずもない。


 しおりは、そのまま自信満々に歩き続ける。まるでこの世界は、彼女がどんな風に歩くかを待っているかのようだ。


 「ほいじゃけ、勉強がんばるんよ。自由の代償は、成績じゃけぇね」


 肩をすくめて笑みを浮かべながら、しおりは余裕の表情で答える。まるで服装や態度が、全ての規則を乗り越えているかのようなその言葉に、周囲の男子たちもまた言葉を飲み込み、黙って視線を外す。


 そして、その時だった。


 「――福山っ!!」


 大声で呼ばれたその瞬間、しおりは動かず、その場で立ち止まった。


 その声の主は、黎進高校の風紀委員、榊先生だった。彼の姿を見た瞬間、生徒たちは自然とその場に足を止め、気配を消す。風紀の鬼と恐れられるその教師が、どんな問題でも許さないと知っているからだ。


 しおりはその動じない態度で振り向いた。彼女の足元のスカートが、ほんの少しひるがえっただけで、まるで挑戦的にその場に立っていた。


 「そのスカート丈……明らかに規定外だろう。ベルトもホックも外れている。どういうつもりだ、福山?」


 榊は厳しい表情で指摘した。


 しおりは、あっけらかんと笑って言った。


 「うち、体型に合わん制服しか支給されとらんのじゃけど……。まさか先生、うちの成長期を阻止しようとしとる?」


 その言葉に、榊の表情はさらに険しくなる。


 「詭弁だ! そんなことは関係ない! これは校則違反だ!」


 「いやいや、先生。これが成績上位者の特権ってやつじゃけぇね。自由の代償は勉強にあるんよ」


 しおりの笑みはさらに広がる。全く動じる気配がない。その姿勢に、何度も冷や汗をかきながら、榊はますます苛立ちを募らせる。


 だが、次の瞬間――


 「お待ちください」


 ふいに、どこからともなく声が響いた。


 それは、しおりと榊の間に割って入るように現れた、また一人の男子生徒の声だった。


 「おや、帰野玖郎か。お前はまた何か変な理屈を言い出すのか?」


 榊が振り向き、玖郎を見つめた。


 「そうです。変な理屈ですが、必然です」


 玖郎はやはり、片手をポケットに突っ込みながら、ゆっくりと歩み寄った。彼の目は真剣そのもので、しおりのスカートをじっと見つめながら、話し始めた。


 「先生、よく考えてください。福山しおりは今、校内に潜む『ファッション・スパイ』を炙り出すため、あえて規定ギリギリの丈で囮となっているんです」


 「な、なんだって?」


 榊が目を見開いた瞬間、玖郎はそのまま一歩前に進み、しおりのスカートをじっと見つめて言い切った。


 「ピアスもベルトも、この丈も、すべてが巧妙に計算された『罠』です。つまり、これこそが誘いの一部。これで校内に潜んでいる『違反者』たちを引き寄せる作戦なんです」


 「君……本気で言ってるのか?」


 「もちろんです」

 

 しおりがその言葉に合わせて、ふふっと笑みを漏らした。


 「うち、命がけで着とるけぇ」


 その言葉に、榊はしばしの間、言葉を失った。しおりのスカートを見つめ、玖郎を見つめ、そして再びしおりのピアスを見つめた。深いため息をつきながら、彼はようやく口を開いた。


 「……今回は、注意にとどめておく。だが、二度とこんなことをするな」


 そう言い残し、榊は足早にその場を去っていった。


 その瞬間、しおりは玖郎に向き直り、ぱっと手を振った。


 「助かったわ、玖郎」


 「だが、しおり、その丈は眩しすぎる。私の推理力にも限界がある。今後、三センチだけでも下げてくれ」


 「それが目的なん!?」


 しおりはまんざらでもない表情。


 玖郎は肩をすくめ、まるであきらめたような表情を浮かべる。


 周囲の生徒たちは、ふたりのやりとりを微笑ましく、そして少し驚きながら見守っていた。


 その日から、黎進高校内ではこんな噂が立った。


 「福山しおりのスカート丈には、何か意味があるらしい」


 これが、学校内に広まる都市伝説となり、いつしか学生たちの間で話題になっていった。


 「ファッション・スパイって、ホントにあのスカートの丈で校内の違反者を見つけようとしてるんだろうか?」


 「でも、ピアスもベルトも、確かに全部計算してるように見えるよな」


 「うわ、あれが計算されたファッションなのか……すごい!」


 しおりのスカートは、ますます謎めいて、そして魅力的なものとして語られるようになった。


 彼女の制服は、ただの服ではなく、もはや一つの『武器』であり、自由を手に入れるための戦略そのものだ。今後、彼女がどんな風にその自由を使いこなしていくのか――それはまだ、誰にも分からない。


 だが、間違いなく一つだけ言えることがある。それは、この学校の中で、一番自由な存在は、福山しおりだということだ。そして、彼女の隣には、いつも何かを解決しようとする探偵、帰野玖郎がいる。


第十三話

 終業式を終えた放課後、黎進高校2年A組の教室では、どこか解放感のある空気が漂っていた。


 「……あれ?」


 そんななか、教室の隅で声を上げたのは森川だった。


 「……え、ない……通知表、置いてたはずなのに……」


 机の中を何度ものぞき込み、引き出しを開け閉めしながら森川は焦り始める。


 「どうしたん?」


 心配そうに声をかけたのは福山しおりだ。


 今日も茶色のショートボブに校則違反の服装でスカートのホックを留めずに上からベルトで留めている。


 「……終業式のとき、ちゃんと通知表、封筒に入れてもらって……机の上に置いたまま……そのまま体育館行って、戻ってきたら……ない!」


 教室に緊張が走る。まさかの通知表紛失事件である。


 しおりが周囲の机を見渡して、ふと疑問を口にした。


 「そういえば、さっき山口が何か捨てに行っとったの見たで?」


 視線が、ゆっくりと一人の少年に集中する。

 

 「……あ、あの、もしかして……それ……」


 山口が挙手しながら、おそるおそる発言した。


 「なんか、机の上に“《破棄してください》”って書いたメモが貼ってあって……」


 「……それ捨てたん?」


 「うん……職員室横のシュレッダーに……」


 森川、絶叫。


 「俺の通知表ぉぉぉぉぉ!!!」


 「……たぶん、“破棄してください”のメモって、先生用の封筒に書かれたやつを、間違えて持ってきて、それに通知書をいれたんじゃろうな。……それで封筒の裏まで見んと裏返したまま教室をでていって…」


 事態は、山口の“親切な勘違い”によって起きた悲劇だった。


 だが、その沈黙を破ったのは、ひとりの男――


 「なるほど。つまり――“森川の通知表”は、意図的に葬られた……」


 帰野玖郎がすっと立ち上がった。


 「この学校には何かがある。成績データを握りつぶすことでしか守れない“闇”がな……!」


 「いやいやいや、犯人もう出とるじゃろ…」


 「されど、それもまた人間の味……罪なき日常にこそ、名探偵は舞い降りる」


 「そんなんで舞い降りんでええから、ちゃんと帰れ!」


 夕日を浴びながら、玖郎はロッカーから鞄を取り出す。


 「それでは諸君、また来学期――」


 しおりの声が響くなか、帰野玖郎は静かに、しかしどこか得意げに教室を後にした。


 こうして、黎進高校の夏休みは幕を開ける。


 

 事件は、いつだって唐突に、そして無駄に始まり――何ごともなかったかのように、静かに終わる。


 

 しおりは思いだしたかのように突っ込む。


 「今回はあっけなく終わるん?」 


 だが、ひとつだけ確かなのは――


 帰宅部探偵・帰野玖郎は、今日もどこかで無駄に推理しているということだ。


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誰がために、花は咲く 星路樹 @seiroitsuki

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