track2「誰かと食べるとおいしいもの」
「……具合が悪いので病院に連れていきたいと言っているだけで。有給が余っていればそれを使えればと。撤退は許可できないって……あの、撤退って有給のことですか? いや、普通は出来ますよね、有給。私のバイト先だってできるのに。どんな関係かって……まあ、そのようなもの……ひゃっ! いきなりなんですか、ちょっと! ……切れちゃった」
誰かの声で目が覚めた。知らない天井だ、という言葉がすぐに出てきそうなほど見慣れない天井ではあるものの、周囲を確認すると自宅アパートの部屋であることは、すぐに理解した。窓から茜色の光が差し込んでいることから今は夕方。
「……って、ヤバい仕事っ!」
慌てて起き上がる。夜に片付けておくはずだった書類が手付かずな上に大遅刻。睡眠を長時間取ったお陰だろうか。少しだけスッキリしている脳で溜まったタスクをどうするのか考えていると、隣から申し訳なさそうな少女の声が聞こえてきた。
「……あの。そのこと、なんですけど」
「君は、帰り道で肩を貸してくれた子?」
あの時はよく確認していなかったが高校生くらいだろうか。整った顔立ちの少女。銀髪と呼ぶにはやや白すぎる白色の髪が腰まで伸びている。日本人の感覚として表現するのなら老人の色。しかし、この少女の場合は異国風の髪色に見えてしまう。
「あっ、はい。あなたに肩を貸した人です。それでその、あなたの会社のことなんですけど、私の伝え方が悪かったみたいで」
歯切れが悪い。まるで悪いことをしてしゅんとした子猫のようだ。
「ついさっき、あなたのスマホに会社から電話が来たので代わりに出たんです。それで、急に倒れたことと明日病院に連れていきたいから、有給が使えないかを聞いてみらですね……」
「なんだ、そんなことか。俺の会社は有給が通らないから気にしないで。君のお陰で体調もだいぶ良くなったから明日出勤できるだろうし」
「ち、違うんですっ! 明日から出勤しなくてもいいと言われて。その、お前の彼氏はクビだって」
「……は?」
その言葉に頭が真っ白になる。やりたい仕事ではなかったものの責任感は人並みにある。同期はすぐに転職して新人はすぐに辞めていく。その上、無能な上司――もといクソ野郎は自分のミスを認めず、そのしわ寄せが毎回のように俺にくる。俺を辞めさせたら、次は誰に自分の失敗を押し付けるのだろう。
というか退職するにしても引き継ぎをする必要がある。いや、そもそも誰に引き継ぐんだ。引き継ぐための社員を雇うまでクビは延期……いや、明日から来なくてもいいと、この少女が電話で言われたんだったか。そこまで考えて、ようやく気になる発言があったことに気がついた。
「……彼氏っていうのは?」
「えっと、どんな関係かを聞かれて、その場しのぎにあなたの彼女だと嘘をついたんです。そしたら、お前の彼氏はクビだと怒鳴られて電話を切られてしまって」
「あー、なるほど。あのクソ野郎、先月こっぴどく彼女にフラれて機嫌が悪かったから、どうせ逆ギレでもしたんだよ。君が気にすることはないから」
「それでも、私が電話に出てしまったからこんなことに。本当にごめんさいっ!」
この先、あの会社は同じ業務ができるのだろうか。
いや、それを気にする必要はもうない。
俺はクビになったのだから。
ようやくクビという事実を噛み締めることができた俺は、腹を抱えて笑ってしまった。こんなに大笑いするのは、いつぶりだろう。お笑い番組でも、ここまで笑ったことはない。もっとこう、重いことだと思っていたのに退職はこんな簡単にできたのか。
「ああ、クビになって頭がおかしく……ごめんなさい……」
「ああいや、ごめんごめん。俺の頭は大丈夫。今の生活に限界を感じていたから助かったよ。むしろ、ありがとうと言いたいくらいだ!」
「そ、そうなんですか? どういたしまして?」
クソ野郎は後先考えずに言ったのだろう。それなら俺だって後先考えない。
「そうそう、戻ってきても寝ていたので驚きました。ちゃんとご飯は食べましたか?」
「いや。実は今さっき起きたところで……」
「もしかして、あれからずっと寝ていたんですか!?」
「まあ、そうなるのかな?」
「ご飯を食べないと体に悪いですよ。でも、ちょうどよかったです。夕飯の準備をしたので、ちゃんと食べてくださいね」
目の前に見覚えのある食器が並べられていく。一人暮らしを始めた頃に揃えたものだ。数年間ただの置物だったそれの上に、湯気の立った料理が盛られている。どうやら酢豚を作ってくれたようだ。パインの入った本格的な中華。見た目からして既においしい。それに加えて、ご飯に味噌汁まで運ばれてきた。
「さあ、召し上がれ」
少女に言われるがまま一口食べる。こんなに温かいご飯はいつぶりだろう。
「辛くはないはずですが。もしかして、嫌いな食べ物でもありましたか?」
心配するように少女に言われて、目から涙が流れていたことにようやく気づいた。気づけば視界が歪んでいる。一口食べるたびに涙がポロポロと落ちていく。
「温かい料理を食べたのが本当に久しぶりで。いや、カップラーメンとかは食べていたんだけど。そういうのじゃなくて……」
「わかります。ご飯って、誰かと一緒に食べるとおいしいものですよね」
「ほんと、手料理なんていつぶりだろう」
手に持っていた味噌汁を飲んでから顔を上げると、少女は恥ずかしそうに俺の言葉を否定した。
「ごめんなさい。実はそれ、レトルトのもので……ご飯もレンチンのご飯です。炊飯器は見つかったんですが、使い方がわからなくて」
「この酢豚は?」
「……スーパーで買った惣菜を温めただけ、です。家ではいつもお母さんが料理をしていて、料理は学校の調理実習でしかしたことがなくて……」
「そ、そうなんだ」
フォローするつもりで酢豚のことを話題にしたら失敗した。本格的な酢豚だとは思っていたのだから、少し考えれば気づけたはずだ。ただでさえ気まずい空気が更に悪くなる。
「あのっ! 今度何か作ってみてもいいですか? おいしくないかもしれませんが」
「ああ、その時を楽しみにしているよ」
俺に気を使ってくれたのだろう。今度が来ることは来ないかもしれないが、どうしてここまでしてくれるのだろう。
「ところで初対面の俺に、なんで親切にしてくれるの?」
今まで感じていた疑問を投げかけると、少女は一瞬だけ落胆した表情を浮かべた。
「えっと、昨日のあなたが死にそうな姿で……その……」
少女は何かを閃いたのか、声を出さずに口を動かした。
『そうだ、タマちゃん。あの時、天国って言っていたから……』
口パクで、そう言っている気がした。少女はまっすぐ俺の顔を見ると、俺の問いにこう答えた。
「わ、私はタマだにゃ! 天国でご主人様のことを見ていたら、ご主人様が死にそうになっていて、だから心配で転生したのにゃ!」
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