黄金の草原

「お父さん、今日はどんなお話?」


 小さな声が、枕元から聞こえた。


 父は椅子に腰を下ろし、微笑む。


「今日はね、ある子狐の話をしよう。」


 少女はうなずき、まぶたを閉じた。

 静かな機械の音が、部屋の奥で淡々と響いている。

 父の声が、その音に溶けるように流れはじめた。



【子狐の物語】


 深い森の奥に、一匹の子狐がいた。

 春の嵐の夜、仲間たちとはぐれてしまったのだ。


 目を覚ますと、風の匂いも、鳥の声も、どこか違っていた。

 子狐は寂しさを胸に、ひとり歩き出した。


「黄金の草原に行けば、きっとみんなに会える」


 母狐がかつて語ってくれた、遠い場所。

 陽の光が絶えず降りそそぎ、草は金のように輝くという。



「お父さん、黄金の草原って、ほんとにあるの?」


「あるさ。見つけるのは少し難しいけどね。」


 父は笑い、少女の髪をそっと撫でた。



 旅は長かった。

 雪の山を越え、乾いた谷を渡り、夜の冷たさに震えながらも、子狐は歩きつづけた。

 途中、傷ついた小鳥を助け、老いた鹿に道を教えられた。

 誰もが同じことを言った。


「黄金の草原は、遠くにはないよ。君の中にある」


 けれど子狐は首を振った。


「僕は仲間に会わなきゃいけないんだ。あの草原で。」



 ある夜、子狐は丘の上で倒れた。


 寒さと疲れで、もう足が動かない。

 星空を見上げると、風がやさしく毛を撫でた。


 ――もう、怖くないよ。


 そんな声が、どこかで聞こえた気がした。

 瞼を閉じると、闇の向こうに光が差しこんだ。


 辺りが金色に染まり、草が揺れていた。


 そこには仲間たちがいて、笑って手を振っていた。



「お父さん……子狐は、草原にたどり着けたの?」


 娘の声は、もうかすれていた。


 父は一瞬、言葉を探すように目を伏せ、それから静かに答えた。


「うん。たどり着いたよ。みんなが待ってた。

 あたたかくて、まぶしくて、悲しみなんて一つもない場所だった。」


 娘は微かに笑みを浮かべた。


「……よかった。あの子、もう寂しくないね……」



 ――ピ――――ッ。



 甲高い音が、空気を裂いた。


 部屋の機材が一斉に光り、淡い緑のランプが点滅を止める。


 父の肩が震えた。

 音の意味を、彼は理解していた。


 それでも、彼の口は止まらなかった。


「……そして子狐は、風に包まれて旅に出た。

 もう一度、春を迎えるために。

 光の中を、駆けていったんだ……」


 声は掠れ、涙が頬を伝う。


 目の前の少女には、もう届かない。

 それでも、語りは続いた。


 まるで、語り終えるまでは彼女がどこにも行かないと信じているかのように。


 窓の外が、ゆっくりと白みはじめた。


 夜の名残を払うように、淡い朝の光が差しこんでくる。

 黄金の草原のような、やさしい光だった。


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たちまち終わる短編 イチゴパウダー🍓 @ichigopowder

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