二時間の約束

共創民主の会

第1話 次善の策

【午前】


 八月二十五日、午前十時。市役所二十階の執務室で、私は副市長の石黒と向き合っていた。窓の外、北に聳える二村山の稜線が、夏の陽射しを受けて白く滲んで見える。クーラーの効きすぎた室内で、私は書類の端に置かれた「鉢花取引日本一」の表彰状に目をやった。豊明市の鉢花産業は古くからの誇りだが、今やその輝きも、スマホの画面の明かりに翳って見える。


「島田さん、説得できましたか?」


 石黒は、議会対策の最終報告を求めてきた。元自治会長の島田は、保守的な選挙区の重镇だ。私は頷いた。


「うん。孫の教育に不安を抱えていると言っていた。罰則なしという点を強調すれば、賛成してくれるはずだ」


 石黒は、名古屋のベッドタウンとしての豊明の特性を熟知している。境川を挟んで隣接する名古屋市への通勤ラッシュ、朝の駅前で缶コーヒーを片手にスマホを操作する高校生の姿を、私たちは何度も目にしてきた。


「でも、市長。教育委員会との調整は本当に大丈夫ですか?」


 私は、窓の外に目をやった。三崎水辺公園の方角だ。先日、PTAの実験的な取り組みを視察した。スマホを没収して、子どもたちに自然と向き合わせようという試みだった。しかし、子どもたちはすぐに「ゲームの約束がある」と騒ぎだし、保護者も困惑していた。


「教育とは、理想を追うことではない。現実をどうやって次世代に渡すか、だ」


 私は、自らの言葉に、少しだけ胸が痛んだ。


【午後】


 市議会本会議場。午後二時三十分、市役所の時計が重い音を立てて時を刻む。私は壇上に立ち、条例案を説明した。


「本条例は、児童・生徒の健全な育成を目的とし、スマホの利用時間を一日二時間までとするものです。ただし、罰則は設けません。家庭と学校の自主性に委ねるものです」


 議場は静まり返った。賛成三十二票、反対八票という見通しは、すでに私の頭に刻まれている。佐久間政策課長が用意したデータは、高齢化率二十・三%という現実を突きつけていた。子育て世代の流出を防ぎ、次世代を育てる「看板政策」として、条例は必要不可欠だった。


「市長、罰則なしでは効果が疑われますが?」


 反対派の議員が鋭く追及してきた。私は、深呼吸して答えた。


「市政とは、完璧な正解を求めることではありません。家族の会話を増やすきっかけに、これほどのものはないのです」


 採決の瞬間、私は隣接部局の高梨課長から、小声で報告を受けた。


「教育委員会との調整、まだ完全ではないそうです」


 私は、心の中で舌打ちした。だが、今さら引き戻せない。賛成多数で条例は可決された。


【夕方】


 記者会見。中村記者が鋭い質問を投げかけてきた。


「市長、この条例は、本当に子どもたちのためですか? それとも、高齢者の投票率を考えた政治的計算ですか?」


 私は、毅然とした表情で答えた。


「もちろん、子どもたちの未来のためです」


 しかし、エレベーターに乗り、一人になった瞬間、私はネクタイを緩めた。胸の奥に、小さな痛みが残る。


【夜】


 自宅の書斎。NHKの特番「桶狭間の戦い」がBGMのように流れている。織田信長が奇襲をかけたあの山々が、豊明市のすぐそばだ。私は、スマホを手に取った。孫からのLINEメッセージが届いている。


「じいちゃん、ゲーム友達と約束したのに、スマホ時間減らすってママに言われた。どうする?」


 私は、メッセージを削除しようとして、指を止めた。孫の顔が浮かぶ。私は、小さく呟いた。


「市政とは、完璧な正解より『次善の策』を選び続ける覚悟ではないか」


 私は、メッセージをそのままにして、スマホを机に置いた。窓の外、二村山の稜線が、夜の闇に溶けていく。明日も、私は「次善の策」を探して、市役所の執務室に向かうのだ。

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