第2話


 足音が聞こえて来た。


伯言はくげんさま」


 呼ばれて、しゃがみ込み目を閉じていた陸議りくぎは顔を上げた。


叔達しゅくたつ殿」


「兄上……司馬懿しばい殿から詳細を聞いて来ました。

 此度のことで、処罰を受ける覚悟でお戻りになったと」


徐庶じょしょ殿を山中で見失いました。司馬懿殿は私を信頼し、徐庶殿を牢から出して下さったのです。その彼を見失ったのは、私の咎です」


「徐庶殿の力と、お人柄を信じてのことだと司馬懿殿に嘆願しようかと」


 陸議は冷たい牢の鉄柵を握りしめながらそんなことを言って来た司馬孚しばふを優しく見遣った。


「ありがとうございます。叔達殿。

 しかし此度のことは司馬懿殿の副官である私の失態。

 実弟の貴方がこれを庇っては、かえってあの方が身内贔屓をしておられると軍において批判されかねない。

 軍規に照らし、相応しい処罰を受けるのが最も良いことだと思います」


「……。あの……地下牢は冷たく、この季節は冷えます。

 風邪を召されては傷にも障りますから、どうぞこれを」


 脇に抱えて持って来た毛布を、鉄柵の間からくぐらせている。

 陸議は立ち上がると「ありがとうございます」と微笑んでそれを受け取った。


「貴方もずっとここにいては風邪を引いてしまう。

 部屋に戻り、休んで下さい」


「……徐庶殿も、伯言様もいなくなられて、部屋には私一人になってしまいました。

 不思議です。私は一人で黙々としているのは割と得意な方なのですが。

 なんだか寂しくなりました」


 陸議は優しい司馬孚しばふを慰めるように、柵に掛かった彼の手に、手を重ねてやった。


「心配をお掛けして、申し訳ありません。

 しかし司馬懿殿の許に行く時に、全てを覚悟して行きました。

 どのような処罰があろうと悔いはありません」


「……、」


 何かを言おうとした司馬孚だが、やめた。


 陸議は本当に、投獄されたことに悔いなど無いようだ。

 自分は司馬懿の身内なので、彼の言うことが正しい。

 司馬懿が身内を罰せない甘い人間だと思われることは、今後にとって良くない。


 司馬懿の側近として、魏に仕えると司馬孚は決めたのだ。

 

 今回陸議がしたことは、捉えられ方によっては死罪も有り得る、非常に重い罪にあたる。

 しかし、司馬孚は陸議の才を信じていた。

 同じように彼を評価している人は、軍にもいるはずだと思った。

 今回賈文和かぶんかは徐庶と馬岱ばたいの逃亡を助けたことを非常に問題視して厳罰を求めているが、陸議の命まで彼が望んでいるとは思えない。


 きっと自分以外にも声を上げ、出来る限り軽い処分になるよう働きかけてくれる人がいるはずだと、司馬孚しばふは心を落ち着かせる。自分も強くなるのだ。司馬懿と陸議のように。

 でなければ彼らを支えることなど出来ない。


「傷が悪化しないよう、毎日軍医には見てもらうよう頼んでおきます」


 陸議の手を両手で包み込んでから、司馬孚は一礼すると地下牢を後にした。

 門兵が牢の鍵と扉を確認し、去って行く。


 陸議は毛布を抱えたまま、暗い牢の奥に戻った。

 ここは窓などないので、外の時間が全く分からない。

 朝なのか。夜なのか。

 処罰を受けたことはあるけれど、牢に入れられるのは人生で初めてだった。

 

 

 徐庶達は今頃、どのあたりまで逃れられただろうか。



 あの三人ならば馬岱が重傷を負っていても、上手く定軍山ていぐんざんの防衛線をすり抜けられるだろうとは思うのだが。


 徐庶は成都せいとについたらどうするだろう。

 劉備りゅうびの許ならばと軍籍に今度こそ尽くすのか。

 それとももう戦には関わらず、穏やかに生きていくのだろうか。


(分からないな)


 そういえば、と考える。

 徐庶の中には力のない人が脅かされた時に、助力してやりたいという義侠心のようなものはあるのだが、

 自分の、剣で人を傷つけた過去を疎む気持ちも強くあり、

 結局剣を捨てて穏やかに生きることを望むのか、

 苦しんでも平穏な世が来るまで戦うことを望むのか、

 どちらを結局選ぶのか、分からないような所があった。


 強く、願わないのだ。


 何となく、自分はこうありたいというものは持っているのだが、猛然とそのために願い、力を尽くしてそうしていこうというような所が見えない。

 だからこそその時々で、他者からの影響を受け、迷ったり道を変えたりせざるを得ない状況に追いやられることがあるのだろうけれど。


 ただ【水鏡荘すいきょうそう】に戻って学びの道に進み、縁ある近くの人達を守れる程度であればと話していた時の、徐庶の穏やかな表情は覚えていた。


 あれは本当の、彼の夢であったとは思う。


 徐庶が何を選ぶのかは分からない。

 だが何となく、陸議はどのような道を彼が選んでも、二度と徐元直じょげんちょくと会うことはない気がした。

 

 彼が争い事を疎んでいることは確かで、

 自分は戦の最も深い所で剣を振るい、力を発揮することを望んでいる武官だ。


 恐らくこの先に、彼との縁はないだろう。


 ……だが穏やかな生活に憧れる、徐庶の気持ちは分からなくも無いのだ。



(本当に今まで苦しんだから)



 争いの中に身を置いて孤独に苦しんだから、きっとそれを願うのだ。

 穏やかな生活を。


 陸議も戦ばかりの人生を歩んで来たが、


(私は今までの全てに悔いは無い)


 これからも戦の中に身を置き、武官として国のために尽くし、誰かを守ったり誰かの役に立っていると、強く感じられる生を生きたいと思っている。



(それだけは確かだ)



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