見えない道標

地図の魔力に囚われた私は、まるで夢遊病者のように「見えない道標」を辿る日々を始めた。


それは、退屈な日常という名の分厚い壁に、新たなドアを次々と見つけるようなものだった。一つ目の道標で感じた興奮は、日を追うごとに、心の渇きを癒す清水のように、私の中に染み渡っていった。


地図が示す次の場所は、「時間の遅い喫茶店」という印がつけられた、普通のカフェだった。


その扉は、まるで日常と非日常を隔てる境界線のよう。

扉を開けると、そこには時間が澱のように沈殿していた。


壁にかかった古時計の針は、信じられないほどゆっくりと進み、カフェのマスターは、まるで時の流れから切り離されたかのような穏やかな笑みを浮かべていた。店内に漂うのは、古紙と焙煎した豆の香りの混ざった、どこか懐かしい匂いだった。


「いらっしゃい。ここへ来る者は、皆、時間に追われている。君も、そうかい?」


マスターの声は、温かいスープのように心に染み渡った。私は、カウンター席に腰を下ろし、まるで言葉を紡ぐことを忘れていたかのように、ゆっくりと話し始めた。


「……はい。いつも時間に追われて、息をするのも忘れてしまいます。気づけば、一日が終わっていて、何も変わらない、そんな日々です」


マスターは、静かに私の言葉を聞いていた。

その瞳は、深い井戸のように、私を全て受け入れてくれるかのようだった。彼は、温かいミルクティーを丁寧に淹れながら、微笑んだ。


「ここは、心に絡みついた時間を、ほどく場所です。時間は、流れるものだと思っているだろう? だが、それは、心で感じるもの。君が、君自身の時間を生きることを選べば、時間は、もっとゆっくりと君に寄り添ってくれる」


彼の言葉は、私の心をそっと撫でるようだった。

私たちは言葉を交わすよりも、互いの存在を感じ合う時間の方が長かった。


ただミルクティーを飲み、止まった時計を見つめる。すると不思議なことに、私の心臓の鼓動も、ゆっくりと、そして確かに、その時計の針の動きと同調していくかのようだった。


日々の喧騒が、遠い幻聴のように消えていく。


私はそこで、日々の忙しさに追われて見失っていた、自分の本当の気持ちと向き合うことができた。マスターの言葉の通り、自分の時間を生きることを選べば、世界はもっと色鮮やかになるのだろうか。


私は、その可能性に、胸の奥で小さな光が灯るのを感じた。






次に辿り着いたのは、「忘れられた芸術家のアトリエ」という印。


それは、地図がなければ見つけられないような、裏通りの古びたビルの二階にあった。


扉を開けると、そこには、無数の絵がひしめき合っていた。どの絵も、未完成のまま、まるで時間が止まってしまったかのようだ。色鉛筆の削りかすや、乾いた絵の具の匂いが、時間の経過を物語っていた。


そこで、私は一人の老いた女性に出会った。彼女は、かつてこのアトリエの持ち主だった芸術家の娘だった。


「あら、珍しいお客さんだね。ここは、もう何年も誰も来ない場所なのに」


彼女は、微笑みながら私に話しかけた。


「この絵は、全部、父の作品。でも、一枚も完成していないの」


私は、未完成の絵の一つを指差した。

それは、街並みを描いた絵だったが、空だけが空白のままだった。


「なぜですか? とても美しいのに」


彼女は、少し遠い目をして、壁にかかった絵を見つめた。


「父はね、完成を恐れていたの。完成は、物語の終わりだから。彼は、いつも未完成のまま、次の物語を描こうとしていた。そうすれば、物語は永遠に続くからって」


彼女の言葉は、私の心に深く刺さった。

私は、何事も完璧に終わらせなければならないと、自分に課していた。

仕事でも、プライベートでも、いつも「完成」というゴールを求めていた。


でも、未完成のまま次のステップに進むことの美しさを、このアトリエで知った。人生も、未完成のままでいいのかもしれない。そう思えた途端、私の心の中に、新しい扉が開く音が聞こえた気がした。


私は、地図の隅に書かれた「T.M」というイニシャルを何度も指でなぞった。それは、まるで謎めいたパズルを解くように、私を惹きつけてやまなかった。


「この地図の製作者は、一体誰なんですか?」


私が尋ねると、彼女はふっと笑った。


「さあね。でも、父はいつも言っていたわ。『本当に大切な道は、地図には載っていない』って。だから、彼は自分だけの地図を作ったのよ」


その言葉を胸に、私は地図の次の印を辿った。


地図が示す最後の道標が、私自身の心臓を射抜くように、私の住むアパートの屋根裏部屋を指し示していることに気づいた。


その場所には、「私の、物語の始まり」と書かれていた。私は、これまでずっと、誰かの物語をなぞってきた。


しかし、この地図は、私自身の物語を、私自身の手で綴り始める時が来たのだと、告げていた。


私の旅は、まだ終わっていなかったのだ。

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