第2話:実る感情、育つ心
「感情の実」は、私にとっての羅針盤になった。
朝起きて、一番にベランダに出る。その日の実の色を見れば、自分の心の状態が手に取るようにわかる。
今日は黄色い。きっと朝からワクワクしているのだろう。
昨日は灰色だった。気分が乗らず、一日中だるかったからだ。
この実のおかげで、私は自分の感情を客観的に見つめることができるようになった。まるで、もう一人の自分が、私の心の中を覗き込んでいるようだ。
「今、私は怒っている。なぜ怒っているんだろう?そうだ、彼氏との些細な喧嘩を、まだ引きずっているからだ」
「今、私は落ち込んでいる。なぜ?仕事でミスをした。でも、それはもう終わったこと。反省はしても、いつまでも引きずるのはやめよう」
自分の感情を分析し、受け入れることで、私は少しずつ心の平静を取り戻していった。
感情に流されるのではなく、感情をコントロールする。そんな感覚を、少しずつ掴み始めたのだ。
ある夜、私は仕事で大きなミスをしてしまった。
プロジェクトの根幹に関わるミスで、チーム全体に迷惑をかけてしまった。
上司に厳しく𠮟られ、同僚からは冷たい視線を浴びせられる。私は、会社帰りの電車の中で、人目をはばからず涙を流した。
「もうダメだ…私なんか、何もできない…」
自己否定の感情が、津波のように押し寄せてくる。
家に帰り、ベランダに出た。
月明かりの下、「感情の実」は、まるで血を流しているかのように、真っ赤に染まっていた。表面には、無数のひびが入り、今にも弾けそうに見える。
私はその実を見て、恐怖を感じた。
自分の感情が、こんなにも醜く、危険な状態にあるなんて。このままでは、本当にこの実が枯れてしまう。いや、この実ではなく、私の心が枯れてしまう。
私は慌てて、実の周りを囲むように土を掘り起こし、新しい土を足した。
そして、水をやる。
いつもより、ずっと丁寧に、優しく。
「ごめんね…ごめんね…」
私は、実に向かって何度も謝った。実に対して謝っているのではない。自分の感情をここまで放置してしまった、自分自身に謝っているのだ。
翌朝、ベランダに出てみると、実はまだ赤く、ひび割れは残っていたが、表面から毒々しさは消えていた。
そして、ほんのりと、薄いピンク色が混じっている。
「よかった…」
私は安堵の息を漏らした。感情を放置し、逃げようとしていた私を、この実が救ってくれた。
私は、感情を無視したり、抑え込んだりしてはいけないことを、改めて学んだ。怒りや悲しみ、嫉妬といったネガティブな感情も、大切な自分の感情の一部なのだ。
それを受け入れ、向き合うこと。それが、心を健やかに保つ秘訣なのだ。
それから、私は自分の感情と、もっと積極的に対話するようになった。
怒りが湧いてきたら、その感情に蓋をするのではなく、「ああ、今私は怒っているな」と認識する。悲しい時は、一人で泣く。嬉しい時は、心から笑う。感情を素直に表現するようになった。
すると、「感情の実」は、日を追うごとに変化していった。
怒りの感情も、以前のように真っ赤に染まるのではなく、深い赤色に。悲しみの感情も、灰色になるのではなく、少しだけ青みがかった紫に。喜びの感情は、鮮やかな黄色から、輝くような金色に変わっていった。
そして、ある日のこと。
私は、ベランダに出ると、目に飛び込んできた光景に息をのんだ。
「感情の実」が、虹色に輝いていたのだ。
赤、青、黄色、緑…様々な色が混ざり合い、美しく光を放っている。
その実の中心には、まるでダイヤモンドのように、透明で、強く輝く部分があった。それは、私自身の感情が、バランス良く、豊かになったことを表しているようだった。
「すごい…」
私は、その実を両手で優しく包み込んだ。実から伝わってくる温かさは、私の心をじんわりと満たしていく。
この実を育てたのは、私だ。
そして、この実が、私という人間を育ててくれた。
私は、もう、感情に振り回されることはない。感情を無理に抑え込むこともない。自分の心の動きを客観的に見つめ、受け入れ、乗り越える力を手に入れたのだ。
このベランダ菜園は、私にとっての心の癒しと成長の場所になった。
今日もまた、新しい芽が顔を出す。それは、新しい感情の芽。私は、その芽がどんな実をつけ、どんな色に変化するのか、楽しみにしている。
私の感情は、これからも変化し続けるだろう。
でも、もう大丈夫。このベランダ菜園と「感情の実」があれば、私はきっと、どんな感情にも向き合い、乗り越えていける。
そう信じて、私は、今日もまた、ベランダで、私の心に水をやる。
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