ベランダ菜園と「育つ感情の実」
第1話:感情の芽生え
私の日常は、水槽の中を漂うプランクトンのようなものだった。
会社と自宅を往復し、人間関係の波を静かにやり過ごす。特に大きな喜びもなく、かといって深い絶望があるわけでもない。
ただ、漠然とした不満が、胸の奥で常に澱のように溜まっていた。
それは、小さなストレスの集合体。些細なことでイライラし、どうでもいいことで落ち込み、そのくせ、誰にもそれを悟られたくないと必死に平静を装う。そんな自分に、時々嫌気がさすのだ。
このままでは、私は感情のプールで溺れてしまう。
そう思った私は、ある日、ふと思いついた。ベランダ菜園だ。生命を育てることで、この淀んだ感情を濾過できるかもしれない。
そう期待して、ホームセンターで小さな鉢と、ミニトマトの種を買ってきた。
選んだのは、よく熟れた赤いミニトマト。
可愛らしいその姿が、私の心をほんの少しだけ躍らせた。
土を触るのは、何年ぶりだろう。
ひんやりとした感触が、手のひらから全身に伝わってくる。
説明書に従って、小さな種を丁寧に植え、水をやる。
これだけのことで、私の心は少しだけ満たされた気がした。
これからは、毎朝ベランダに出て、この小さな命の成長を見守る。
それだけで、私の生活は少しずつ変わるだろう。
最初は何も変化がなかった。
芽が出るまで、毎日鉢を覗き込み、水をやる。そんな日々が続いた。
二週間ほど経った頃、ようやく土の中から、双葉が顔を出した。その小さな緑の芽を見た時、私は思わず「よし、頑張れ」と声をかけていた。
それから数日、芽はぐんぐんと成長し、本葉をつけ始めた。
順調だ。
私は嬉しくなって、毎朝写真を撮るようになった。
ところが、ある朝、私は異変に気づいた。葉の形が、ミニトマトらしくないのだ。丸い葉ではなく、少し歪んだハート形をしている。そして、茎の色が、ほんのりとピンク色に染まっている。
「あれ?これってミニトマトなのかな…?」
不安に思いながらも、私は栽培を続けた。
すると、茎はさらに伸び、小さな花を咲かせた。花もまた、ミニトマトのそれとは違っていた。薄いピンク色の花びらが、五枚。その中心には、まるで宝石のような、透明な雫がついていた。
そして、その花が散った後、実がなった。
それは、私の知っているミニトマトとは全く違うものだった。球体ではなく、まるで涙の形をしている。色は、淡い水色。私は目を凝らした。まさか、こんな実ができるなんて。
私はその実を、「感情の実」と名付けた。
なんとなく、そんな気がしたのだ。
私の感情と、この実が繋がっている。
そんな馬鹿げた考えが頭をよぎった。
その日は、仕事で少し嫌なことがあった。上司に理不尽なことを言われ、モヤモヤとした気持ちを抱えたまま家に帰った。ベランダに出ると、「感情の実」は、先ほどよりも少し濃い水色になっていた。
次の日、友人と楽しい時間を過ごした。
くだらない話で笑い、美味しいものを食べた。心が軽くなり、足取りも弾んだ。ベランダに戻ると、「感情の実」は、透明感のある明るい水色に変わっていた。
「やっぱり…私の気持ちと、この実の色がリンクしてる」
私は確信した。それからというもの、私は自分の感情の起伏を、この実で確認するようになった。
朝、気分が良ければ、実は明るい水色。
寝坊して焦れば、実は少し濁った水色。
小さな発見に、私は夢中になった。
ある日、満員電車の中で足を踏まれ、思わず舌打ちをしてしまった。
すぐに後悔したが、怒りの感情は収まらなかった。
家に帰り、恐る恐るベランダに出た。
そこには、赤と黒のまだら模様に変化した実があった。しかも、表面には、小さな棘が生えている。
「うわ…これは…」
自分の醜い感情が、そのまま形になったようで、私はぞっとした。
この実を見ていると、自分の感情がいかにコントロールできていないかを突きつけられる。まるで、鏡を見ているようだった。
そして、その鏡は、私の見たくない部分まで映し出すようになった。
会社で、同僚が上司から褒められているのを見た時、私は素直に「おめでとう」と言った。
でも、胸の奥では、少しだけ嫉妬している自分がいた。
その日の「感情の実」は、ほんのりと緑色に濁っていた。
「あ…私、嫉妬してたんだ…」
自分でも気づかないうちに、こんな感情を抱いていたなんて。
私は自分の心の奥深くに潜む、ドロドロとした感情に驚きを隠せなかった。
それからも、様々な感情が「感情の実」に映し出された。
憂鬱な時は、実は灰色になり、カビが生えたかのように小さな黒い斑点ができた。寂しい時は、実の表面がひび割れ、中の水分が蒸発しているようだった。
「このまま放っておいたら、この実はどうなるんだろう…」
私は不安になった。感情を放置することの危険性を、この実が教えてくれている。そう思った私は、自分の感情と真剣に向き合う決意をした。
まずは、自分の感情を言葉にすることから始めた。
「今日は、ちょっとイライラしてるな」
「寂しいな、誰かに会いたいな」
心の中で呟くだけで、少しだけ気持ちが楽になる気がした。
すると、「感情の実」の色も、少しだけ穏やかになった。
「なるほど…これが、感情を受け入れるってことなのかな」
私はベランダで一人、静かに呟いた。
この「感情の実」は、私を苦しめるために現れたわけじゃない。私に、自分自身を深く知る機会を与えてくれたのだ。
そう気づいた時、私の心は、少しだけ光が差し込んだような気がした。
ベランダ菜園は、ミニトマトを育てる場所ではなく、私の心を育てる場所になったのだ。
この小さなベランダで、私は自分自身という未知の植物を、じっくりと観察し、大切に育てていこう。
そう誓った私は、そっと「感情の実」に触れた。ひんやりとした感触が、私の手のひらに、確かに伝わってきた。
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