第2話 歪んだ幸運
「…だから、もう大丈夫だよ。理久のおかげで、発表、大成功だった!」
数日後、理久は友人の感謝の言葉を、ただ頷いて聞くことしかできなかった。
友人の発表は満場一致で称賛された。教授も他の学生たちも、その内容の斬新さと、プレゼンテーションの巧みさに舌を巻いた。友人は何度も理久に礼を言い、その成功を心から喜んでいるようだった。
だが、理久は友人の成功を心から喜べなかった。
彼の心に、かすかな不安の影が差し込んでいた。
発表の直後、友人の発表内容と似たテーマで研究をしていた別の学生が、突然、授業を自主退学したと聞いたからだ。その学生は、友人と違い、地道な努力を重ねていた真面目な人間だった。
「まさか…俺がペンで書いたせいで?」
理久の頭の中に、嫌な予感がよぎった。彼は震える手で、ノートの隅に書き付けた。「真実」。
ペンから不気味な光が放たれ、彼が書いた文字の周りに、血痕のように別の文字が滲み出た。それは、彼の無意識の傲慢さを暴く、恐ろしい真実だった。
「(他の学生を蹴落とし、友人の才能を際立たせる)」
ペンは、彼の願いの裏にある、最も醜い部分を具現化していたのだ。
数日が経ち、理久は読書サークルでアカリと顔を合わせた。
アカリは、理久の沈んだ表情にすぐに気づいたようだった。
「理久くん、最近元気ないね?何かあった?」
アカリの優しい声に、理久は胸の内に渦巻く葛藤を正直に話すべきか迷った。
だが、結局「卒論のテーマで悩んでて」とごまかした。
アカリは彼の嘘を見抜いていたようだったが、それ以上は何も聞かなかった。
その日の読書サークルは、インド神話に関するテーマだった。アカリはいつものように、静かに、しかし熱心に語り始めた。
「インドの古い哲学に、カルマという概念があるの。カルマは、『行為』を意味する言葉で、私たちがしたことすべてが、未来の自分に返ってくるという考え方。良い行いをすれば良い結果が、悪い行いをすれば悪い結果が返ってくる。でも、それは単純な善悪の話じゃない。どんなに善意から起こした行動でも、そこに無意識の欲望や傲慢さが混じっていれば、思わぬ歪みを生むことがあるんだって」
アカリの言葉は、まるで自分の心を見透かしているかのようだった。
友人のためにした行動が、誰かを不幸にした。それはまさに、彼の無意識の傲慢さが招いた結果だった。
「その歪みは、いつか必ず、その行動をした本人に返ってくる。それが、カルマの法則」
アカリはそう言って微笑んだ。
彼女は何も知らないはずなのに、理久の心の葛藤を正確に言い当てていた。理久は、アカリの知識の深さに改めて驚くと同時に、彼女がこのペンの恐ろしさを理解しているかのように感じた。
その夜、理久はペンを捨てるために夜の街を彷徨った。
冷たい風が、彼の頬を突き刺す。ペンを川に投げ捨てようとしたその時、背後から突然声がかけられた。
その声は、理久の背筋を凍らせた。
「そのペンは、君が持っていてはいけない」
振り返ると、そこに立っていたのは、黒いスーツを着た男だった。
男の眼差しは、理久の持つペンを一心に見つめている。その眼差しは、まるでペンに込められた秘密のすべてを知っているかのようだった。
「そのペンは、かつて『サティヤム・レクカ』と呼ばれた、世界の根源を記す筆だ。それを扱うには、覚悟と資格が必要だ」
男はそう言いながら、理久に一歩ずつ近づいてくる。
その一歩一歩が、まるで理久の心の壁を崩していくかのようだった。
理久は恐怖に足がすくみ、後ずさりした。
男は続けた。
「我々は『アーカーシャ』。宇宙の記録を守護する者たちだ。そのペンは、過去に幾度となく人々の欲望を増幅させ、世界を滅亡の危機に追い込んできた。我々の目的は、その筆を破壊し、この世界からその力を完全に消し去ることだ」
男の言葉に、理久は自分の想像をはるかに超えた事態に巻き込まれていることを悟った。
男は、理久からペンを奪おうとする。理久は咄嗟にペンを握りしめ、逃げ出した。
しかし、男は理久の動きを完璧に読み、彼の行く手を阻む。
「無駄だ。君にはそのペンを使いこなせない。我々に渡すんだ」
理久は逃げ場を失い、絶望的な状況に追い込まれる。その時、彼の頭に、アカリの顔が浮かんだ。彼女の言葉が脳裏をよぎる。
「本当に幸せな人生は、誰かに与えられるものじゃない」
理久はペンをポケットにしまい込み、男に向かって叫んだ。その声は、恐怖に震えながらも、彼自身の意思を込めたものだった。
「これは、僕が手に入れたものだ!僕がどうするか決める!」
理久は、初めて、自分の意思で運命に抗おうとしていた。
ペンを巡る、理久の逃亡劇が始まった。
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