第21話 ドはドンビのド⑧
オペラグラスで千葉みなとのマンションを観察する沼崎。
口をもぐもぐ動かしているのは少し腹が減ったのでサバイバル7つ道具・その7〈チョコの実〉を一掴み口へ放り込んだからだった。(注1)
オペラグラスの中で部屋番号〈1420〉の窓はカーテンに閉ざされている。
隣の〈1419〉のベランダには洗濯物が干してある。
ハンガーに赤ん坊の服がかかっていた。
住人は知っているのだろうか。
知らないわけはない。
事件から十一年たったとはいえ、調べればすぐに出てくる怪事件だ。
世の中には縁起を気にしない人間もいる。
あんなことがあったせいで、このマンションは相場よりも割安なのかもしれない。
しかし、こんな偶然があっていいのだろうか。
女子高校生監禁の現場となった部屋は、
建物の裏からの観察を終えると、沼崎は正面に回った。
オートロックの玄関の前で待機する。
出入りする住民に
個室の鍵がディンプルキーなどの特殊なシリンダーでさえなければ、サバイバル技術を駆使して部屋の中まで侵入することも可能だ。
しばらく待ったが、こういう時に限って住人も宅配業者もやって来ない。
マンションの正面は、高さ一・八メートルほどの厚い生垣が邪魔になってオペラグラスでは観察できない。
沼崎は潜望鏡に切り替えた。
ナップサックから〈
潜望鏡は〈1420〉のドアを捉えた。
ドアが開いてあの少年が顔を出さないだろうか。
勘の鋭い少年のことだ。
潜望鏡で隠れ見ている、こちらの熱い視線にすぐに気づくに違いない。
鋭い眼光で
いや、こちらの視線に気づいても気づかないふりをつづけるかもしれない。
ふと気まぐれを起こして、己が放射するこの世ならぬ美しさに惑わされる人間の存在を許す気になるかもしれない。
沼崎が妄想を
「何かご用ですか?」
作業着を着た
ニコニコしながら、潜望鏡の先を大きな手で押さえている。
このマンションの管理人のようだ。
「ええと、ですね……」
沼崎は老人を見上げ、笑顔を浮かべた。
老人もまだ笑顔だ。
生垣の上からじっとこちらを覗き込んで、沼崎の返答を待っている。
「決して、怪しい者では……」
沼崎は次の瞬間、潜望鏡を引き抜いてダッシュしていた。
やれやれ今日はよくよく老人に捕まる日だった。
こういうこともあろうかと、〈千里眼CHIZCO〉の先端部分は着脱式でトカゲの尻尾のように切り離せるのだ。
マンションの管理人というものは、だいたい午後四時か五時には勤務を終える。
それまで、どこかで時間を潰すとしよう。
沼崎はマンションの敷地に沿った歩道を八分目のスピードで走りながら、ふと生垣のほうを見上げた。
沼崎は驚いて、もう一度よく見た。
さっきの老人の顔がまだそこにあった。
老人の首が生垣の上を自分と同じ速さで動いているのである。
(ば、馬鹿な……)
うだ。
しかも相当な
沼崎はもう全力で走っているのだが、老人はまだついてくる。
逃げ足には自信があった沼崎だが、さすがに息が切れてきた。
持久力はないのが、自宅スポーツマンの哀しさである。
だが、逃げ切れそうだ。
もうすぐ生垣が切れるのである。
歩道はつづくがマンションの敷地はそこで終わりだ。
ラッキーサバイバル!
生垣の先へ出て逃げ切ったと思った途端、何かに足を引っ張られ、沼崎は路上へ、ビターンっと倒れ込んでいた。
全身を襲う打撲と摩擦。
声にならない声を上げる沼崎。
うっすらと目を開けると、足が宙に浮いていた。
両の足首に白いロープが巻きついて、ピンと張り詰めているのだ。
ロープの元をたどると生垣の隅にさっきの老人が顔を出していた。ロープはその老人の口の中から伸びていた。
老人はカメレオンのように舌で自分を捕えているのだ。
巻きつけていた足首を放し、ゆっくりと沼崎の喉元まで伸びてきた白い舌の先に、赤い小さな眼球らしきものが開いて
白くぬらぬらした巨大なミミズかアシナシイモリのような生きものが沼崎の目前で、とぐろを巻いたり捻じれたり
赤い目の下が、ぱっくりと深く裂けた。
その口から〝声〟が響いてきた。
「……ぼくらは成功した。怪しい人間を一名、確保した。繰り返す。怪しい人間を一名、確保した……」
直立不動で白目をむいている老人の腹話術にしては、やけに高く機械的な音声だった。
(つづく)
(注1)チョコの実
宮崎駿のマンガ、アニメ『風の谷のナウシカ』に出てくる「チコの実」のパクリ。沼崎が持参した巾着袋の中身は、ピーナッツチョコ、アーモンドチョコ、クルミチョコなど。拘りの強い沼崎にしては珍しく、豆か木の実が入ったチョコ菓子ならメーカーはどこでもよかった。
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