第19話 ドはドンビのド⑦

 沼崎六一郎ぬまざきろくいちろうは千葉みなと駅で京葉けいよう線の快速電車を降りた。


 千葉へ来たのは何年振りだろうか。

 西船橋より東に来たのはおそらく初めてのことだ。


 駅ビルを出た沼崎は、まずあたりにうっすらと漂う異臭に気づいた。

 やしに似たオーガニックな臭いだった。


 沼崎は念のため防塵ぼうじんマスクを取り出し装着した。


 駅前を歩く人、建物、車、すべてが薄茶色のフィルターがかかったようにくすんで見えた。

 街全体にかすかに土埃つちぼこりが舞っているのだ。


 千葉では不穏な空気とは鼻で感じ目で見てわかるものらしい。


 沼崎はサバイバル7つ道具・その5〈昭文社ライトマップル関東道路地図〉を開いたまま歩き始めた。


 タクシー乗り場で運転手が客とめていた。


 羽箒はねぼうきを振り回して乗り込もうとする客を追い払っている。


 客の動作が鈍い。


 ドンビだ。


 ロータリーをざっと見渡しても、五、六名がゆっくり動いていた。

 もしかするとサバイバル7つ道具・その3〈六一式串刺銃ろくいちしきくしざしじゅう〉の出番もあるのだろうか。


 横断歩道の前で沼崎はもう一度メモを広げ、現実の風景の中で目的地であるマンションの位置を確認していた。


 気配を感じて振り向くと、近寄って来る者がいる。


 老婆だ。


 歩みは亀より少し早いくらいで、目はあらぬ方角を向いていた。


 沼崎は道をけた。


 おおよそ建物の見当がつき、そちらへ歩き出そうとすると、避けたはずの老婆が向きを変えてまた自分のほうへ向かってくる。


 沼崎はまたその場を離れた。


 すると、老婆が亀からヘビにスピードアップしてついてくるではないか。


 さすがは千葉。

 東京よりもドンビの足が速い。

 沼崎は少し驚きながらも、先を急いだ。


 まだ数百メートル向こうにあるマンションを見上げたまま歩いていると、沼崎の横にピタッと寄り添って同じ速さで進む物体があるのに気づいた。


「あなた様は神についてどうお考えですか?」

 ドンビがしゃべった。

「本当の神についてお話しさせてください」


 老婆のドンビは先ほどの振る舞いが嘘のようにきびきびと動き、語りつづけている。

 しかも、満面の笑顔ではないか。

 ずいぶんと人懐ひとなつっこいドンビの老婆だ。


「そろそろ神について真剣に考えるべき時が来たとは思いませんか?」

「思いません」


 沼崎はまっすぐ前を向いたまま答えた。


 やっとわかった。

 老婆はドンビじゃない。

 この街の宗教家だ。

 ドンビのふりをして説教する相手を物色していたのかもしれない。


 老婆を振り切ろうと、沼崎が早足に替えると、向こうもギアチェンジしてきた。

 沼崎はさらに早く歩いた。

 靴から煙が出そうな勢いだ。

 沼崎と老婆は、歩道を並んですごいスピードで歩いている。


「あなた様は知っていますか? 神には二種類います。神は良い神だけではありません。悪い神もいます。良い神と悪い神の違いは……」


 沼崎は走り出した。

 五十メートル六秒九の逃げ足をここで使うとは思わなかった。

 しかも老婆相手に。

 必死になって引き離した。


 距離は十分すぎるほど取ったつもりだが油断はできない。

 角を曲がって、建物のへいの陰からそっとのぞいた。

 老婆の姿はもうなかった。


 喉を潤そうと、ナップサックからサバイバル7つ道具・その6〈死霊のしたたり水〉を取り出した。

 沼崎はペットボトルに詰めた水道水を一気に半分ほど開けた。


 一息ついてふと、そばの建物を見ると、目標の十四階建てのマンションだった。


 これは、良い神様の計らいなのだろうか。


 いや、そんなことより重大な事実がある。


 沼崎は塀から下がってマンションの外観をよく見回した。


 見覚えのあるマンションだった。


 以前、自分のブログで取り上げたことがある。


 ここは、あの「千葉女子高校生秘書・監禁!緊縛!飼育事件」の現場だったのだ。(注1)



(つづく)











(注1)千葉女子高校生秘書・監禁!緊縛!飼育事件

別名「贋(にせ)・怪妖真相推(かいようしんそうすい)事件」。そこそこ名のあるミステリー作家がネットで「秘書」を募集。ところがそいつは偽物で応募してきた都内の有名私立の女子高校生が部屋に監禁され、油圧式のマニアックな椅子に縛りつけられしばらくの間「飼育」されたのである。当初は変態プレイの果てに殺害、とセンセーショナルに報道されたが、実際の死因は衰弱死だった。逮捕・監禁と未必の故意の犯人は事件発覚前にフィリピンへ渡航し現地で行方不明。海に面した崖の上に揃えた靴と運転免許証が入った財布が置かれ、二時間ドラマ風に自殺を仄めかしてはいたが死体は発見されなかった。偽装の可能性もあり、事件は未解決のままである。被害者の高校二年生、歌野潮里(うたのしおり)の父親は旧食糧庁の天下り官僚、母親は自宅で料理サークルを主催していた。潮里のブログ〈潮風のしおり〉には身辺雑記、読書感想文の合間にエリート家庭の闇を思わせる表現も散見した。

沼崎はブログ〈ドはドンビのド〉で事件を推理。「東京の名門女子高生」が「千葉の変質者」の餌食にされた点に注目。この事件は東京と千葉の対立を煽るためにでっち上げられたものであると断定。日本の東西分断ひいては内乱をもくろむ闇の組織の仕業と看破した。


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