第2話 ドはドンビのド
午後の鐘が鳴り出した。
ちょうど「序文」が書き上がったところだった。(注1)
沼崎は自作の潜望鏡〈
静かに窓を開き、細長い円筒の先端をカーテンの隙間に差し込み、もう片方から下を覗いた。
丸い世界が地上を捉えると、高圧送電用の鉄塔の太い鉄骨にゆっくりと頭突きをしている男が映し出された。
大家の
本職は表具屋だが、沼崎が住むこのアパートも経営している。
西機氏は短く刈り込んだ白髪の頭を、ごーん、がーん、ごーんと、ゆったりとしたリズムで鉄塔の支柱に打ちつけていた。
元国体のボート競技の選手だったというだけあって、
これが潜望鏡ではなくスコープつきのライフルなら、一発で終わらせられるのだが。
沼崎は潜望鏡を左手で支えながら、右手で実在しないトリガーを引いた。
丸い視界の中でごま塩頭がパーンと赤く弾ける様子が、沼崎の脳内で映像化されていた。
一階の窓が開く音がした。
小さく「お父さん……」と呼ぶ声がして、窓から伸びた白い手がアルミのトレーに載せた
中には茶色い物質が山盛りになっている。
頭を支柱に打ちつける運動が止まった。
西機氏は振り向くと、妻が差し出す丼鉢のほうへ歩いていった。
受け取った丼鉢にこんもりと盛られた味噌のようなものを手づかみで食べ始めた。
送電線の鉄塔が立つこの空地は、四方を家々の壁や
ドンビを放し飼いにするには打ってつけの場所だ。
西機氏は日がな一日そこを
西機氏は茶色い物質を脇目もふらず食べつづけている。
茶色い物質は、赤茶色の
関東ローム層ならすぐ足下からダンプカー数台分は掘り出せそうだが、なぜかドンビはスーパーで売っている加工された園芸用の土しか食べない。
赤玉土と鹿沼土が人気で、これに砂やピートモスを混ぜて与える人もいる。
〈
呼び方はいろいろあれど、どれもSES(土食症候群)の患者を
ドンビがまだ
ある研究者の説によると、モンパクは遺伝子組み換え種子と、ある種の土壌と、ある種の農薬の「絶妙なる不適切な出会い」から生まれた「狂った果実」「狂野菜」によって人へと伝染する。
そうなると、何を食べればいいのだろうか。
穀物、野菜、果物はとりあえず全部危ない。
魚はどうだろうか。
ダメだった。
魚類には水銀のように、田畑から溶け出して、川から海へ流れ込んだ「不適切な出会い」物質が蓄積している可能性がある。
肉は?
動物性の餌で育った家畜なら平気だろう。
肉だ。
肉を食うしかない。
牛脂で焼いたステーキなら大丈夫。
ラードで揚げた唐揚げもOK。
ラードで揚げたトンカツは、しっかり衣を外すこと。
ハンバーガーもレタス、ピクルス、パン抜きが基本。
牛丼チェーン店では「牛丼牛のみ」「牛皿ネギ抜き」が正式メニューに。
人々が肉に群がった。
食肉の値段は軒並み二倍まで跳ね上がった。
特に
逆に
この「肉なら安全」が、不思議なことに、いつしか「肉が病気に効く」に変わるのだ。
狂った農産物の毒を中和するためには肉だ、肉しかないとばかりに、すでに消化能力の衰えた患者の体内に鶏・豚・牛・羊の精肉が詰め込まれた。
患者の腸内で生肉が腐敗した。
患者がバタバタと朽ち果てて、これはダメだという話になった。
見た目や動きが似ているからといって、肉食のゾンビとはやはり違うのだ。
ところが、ある患者の家族が何を考えたのか園芸用の土を与えたところ、肉よりも断然食いつきがよかった。
肉食から土食への大転換の始まりだ。
土食は消化器官のデトックスになるという説に家族も
患者はどんどん土を求め、スーパーやホームセンター、百均の園芸棚が空になる事態へと発展した。
鹿沼土や赤玉土がなぜ効くのかについては、産地で今も秘かに行われている土葬にヒントがある、などという説も
ともかく原理は解明されないものの、土を与えておけば現状維持は可能となった。
やがて土を食べて土を
何しろ土とは実に
☜ここにペットやドンビさんのフンを捨てないでください
この手の貼り紙も増えすぎて違和感もなくなった。
こうなってしまうと残土を処理するため、それなりの費用をかけて業者に頼むか、自宅の庭に
特に土地を持たない都市生活者にとって問題は深刻で、高層マンションのベランダに意味もなく増えていくプランターや、アパートの部屋の隅に
患者に患者の排泄物を食べさせるというタブーを乗り越え、
「……(音楽スタート)(ナレーション)美食と飽食の現代に忍び寄る土食症候群。SESはわれわれに何を訴えかけているのでしょうか。(タイトル)『土を食べる病~急増する土食症候群~』(エンドロール)……制作N〇K」
〇HKのドンビ特集は好評につき都合四回再放送された。
奇病の噂に
AIDS(
人々の口からドンビが遠のいていった。
穀物、野菜、果物に次々と安全宣言が出され、肉類もまた
牛丼チェーン店のメニューから「牛のみ」も消え、メディアでモンパクの危険性をあれほど
代わりに新たな噂が
山梨の廃村に造られたゴミ処分場に夜な夜なトラックがやってきて大勢の人が下ろされるのだが誰も外へ出て来ない。
それは都内を徘徊中に警察や保健所に保護されたSESの患者たちで、高名な僧侶でもあらせられる
逆にお隣の千葉ではドンビの政治利用が本格化、全国から患者を受け入れ、アイドル出身の県知事の
まだまだある。
神奈川県、横須賀軍港に停泊中の米軍マーシー級病院船が、実は金持ち専用のドンビ病棟なのだとか。
一般家庭ではリフォームで
* * *
泥沼にぶくぶく
ブロガー・沼崎六一郎が真相究明と警鐘を鳴らすために立ち上げ、活動の拠点としてきたウェブサイトは、嵐のようなスパムメールと冷やかしの書き込み、サイトの更新時を狙ったように接続が突然切られる謎のブロッキング現象などもろもろの「妨害活動」により、運営開始から二十か月目で閉鎖を余儀なくされた。(注5)
しかし、本日、沼崎は晴れて孤立した。
プロバイダーとのADSL契約を打ち切り、愛用のノートパソコンはスタンドアローンのワードプロセッサーへと退化した。
固定電話も解約した。
テレビもすでに地上波アナログ放送終了とともに処分してある。
携帯電話、スマートフォンの類はもとより所持していない。
大量情報通信時代の遺物はスリーバンドの小型ラジオのみとなった。
* * *
一心不乱に土食にふける西機氏がやや前屈みになって股を開くと足元へぽと、ぽと、ぼとぼとぼとっと土が
(
沼崎は顔を
西機氏はいつ排泄しても平気なように作業ズボンのうしろが切り取られていて常時尻を露出させていた。
ときどき夫人がホースで温水をかけた。
この家では土のリサイクルは行われていない。
常に新しい土が与えられているのがせめてもの救いだった。
(つづく)
(注1)非公開ブログ『白昼の生存者』序文
古今東西、地獄が罪人でいっぱいになると、あふれた死者が地上を歩き出すものらしい。
それ自体は理に反してはいるものの実はたいしたことではないのかもしれない。
気をつけなければならないことは、この異常な光景が日常に溶け込んでいくことだ。
誰も異変を異変と受け取らずにどんどん慣れている。
問題意識が薄れていくことこそが大問題なのだ。
おれは日本を
そのたびに心ない人々に
ネットで未来は救えない。
おれの網は目が
世界の壁は厚くおれを
いつまでたっても日本に夜明けは来ない。
ただ
実りのない
人々はガスが充満した
万民の救済など土台無理なことだ。
まずは最も身近な一人を救うことに専念しよう。
エヴァンジェリストからサバイバリストへ────(*)
撤退戦には違いない。
だがこれは大きな転機だ。
逃げられる人は幸いだ。
逃げよ、逃げよ、すべての
逃げた先からまた逃げろ。
おれはぎりぎりまで踏み止まる。
誰もが
おれがやるべきことはもはやこれしかない。
すべての自分よ。
自分で生きろ。
世界を救うな。
自分を救え。
いつの日か手記の最後をこの言葉で
*エヴァンジェリスト 元はキリスト教の伝道者のこと。何か啓蒙活動を行う人全般を指す。
*サバイバリスト あらゆる危機から生き残ることを至上の目的とする生存主義者。
*
逃げよ逃げよ、すべてのジュネーブから逃げ出せ
黄金のサチュルヌは鉄に変わるだろう
巨大な光の反対のものがすべてを絶滅する
その前に大いなる天は前兆を示すだろうけれども(『諸世紀 』9章44番)
沼崎六一郎は1973年発売の大ベストセラー『ノストラダムスの大予言』を信じて1999年に地球は滅亡すると思っていたが、そうはならなかった。しかし、それは年代が少しズレて、状況も少し変わっただけだと今では考えている。
(注2)沼崎六一郎サバイバル7つ道具・その1〈千里眼CHIZCO〉
掃除機のパイプと手鏡とレンズを組み合わせた自家製の
(注3)
例によって心ない人々は〈
(注4)
コミック版『風の谷のナウシカ』は日本の未来を予見した。沼崎はこの説を
(注5)
沼崎はこのブロッキング現象について、ドンビ関係の陰謀ではなく、ADSLから光ファイバーへ接続サービスのグレードアップを拒んだためプロバイダーが嫌がらせをしている、という説にかなりの説得力を感じていた。
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