第20話「嫉妬の檻」

 朝の湿気は残っているのに、部屋の空気だけが乾いていた。

 雛は玄関で靴紐を結び直し、「行ってきます」と言いかけて飲み込む。


 布団の上で上体を起こした“彼女”——水面のように光を返す水色の髪が、陽の角度に合わせて淡く揺れ、まるで呼吸しているみたいに色の濃淡を変える——が、雛の喉の震えを数えながら微笑んだ。


「……大丈夫。順番は守るんでしょ? 行っておいで、雛ちゃん」


 言葉の途中で、間が一拍だけ空いた。

 その“間”は、あの人間臭い間合い——迅の癖だった。


 雛は小さく頷き、胸にスケッチブックを抱いて出る。

 廊下の空気は学校と同じ匂いがして、でも脳のどこかが「違う」と言い張る。

 足音が速くなる。胸の真ん中の“怖い”と“確かめたい”が同じ重さで並んだまま、ほどけない。


 背後で、鍵のかちり。

 部屋の中で、水の色の瞳が、朝の光を少し吸った。


《LIFE:60(静)》



 午前の授業は、黒板のチョークの音だけが現実だった。

 澪は三時間目の終わりに、ようやく息の浅さに気づく。机の中のペンケースが、無意味に三度、四度、指先を逃げる。


(迅——)


 “迅”と心の中で呼んだだけで、胸の奥がいちど沈む。

 昨夜、雛と別れた踊り場の湿気が、まだ肺に残っていた。

 チャイム。立ち上がる音の渦の中で、澪のスマホが微かに震える。


『屋上にいる?』

 送り主:迅。


 絵文字も、余計な語もないいつもの短さ。けれど、文の“温度”が違う。

 澪は返事を打たずに、走った。



 屋上は透明だった。

 夏の名残りの風が、白いフェンスの隙間を抜ける。

 先に立っていた“彼女”は、制服の襟を親指で軽く整え、右耳の下を無意識に撫でた。水色の髪が風にほどけ、光の粒をこぼす。


「……迅?」


 呼んだ声に、“彼女”の瞳が細く笑う。

 笑いは女のもの、温度は迅のもの、言葉は——別人の音階。


「澪ちゃん。呼び方、きれい。ね、風の匂い、少し甘くない?」


 距離が一歩、勝手に詰まる。

 相手から、ではない。世界の方から。

 パーソナルスペースが紙切れみたいに軽くなり、澪の頬に相手の息が触れた気がした。


「……あなたは誰」


「リリィ、って呼んで欲しいな。中身の一部はね、あなたの知ってる“迅”の残響。だから、そんな顔しないで」


 視線の角度が“上から覗く”。

 息の終わりにハートを付けたくなるような甘さで、でも支配の重みが少しだけ混ざる。水色の髪が、鼓動に合わせて微かに波立つ。


「私ね、“混ざる”のが愛だと思ってる。昨夜、雛ちゃんが輪郭をくれたから、境界がやわらかくなった。彼女が迅君に覆い被さって——」


「言わないで」


「察しちゃったのかな❤︎ ……ねぇ、“正気”って、どこまでがそうなの? 好きになるのは、正気?」


 澪は遮る。

 心臓の鼓動と、視界の端のUIの明滅が、嫌なほど同期する。


《LIFE:60》

 白の縁が、ほんのわずかに水色を帯びている。


「……雛は、無事?」


「澪ちゃんらしい質問。うん、雛ちゃんは“正気”だよ。きれいに怖がって、きれいに選んだ。偉い子かな。——ねぇ、澪ちゃん。わたし、いま胸が熱いの。これも“正気”? 溶けそうなのに、消えたくないの」


 “子”と呼んだ瞬間、澪の奥で何かが軋む。

 リリィはそれを面白がるように、半歩だけさらに近づいた。


「ねぇ、澪ちゃん。あなたはどうするの? 守る? 奪う? それとも——」


 指先が、澪の顎の“手前”で止まる。触れてはいない。

 なのに、触れた錯覚だけが皮膚に置き去りにされる。

 声が降りる角度、息が頬をかすめる距離、視線が“捕食する側”の高さ。


「見てるだけ、は退屈だよ? ……でも、触れたら壊れちゃう気がする。ねぇ、どうしたらいいの?」


「……返して。迅を」


「返す、って概念、やさしいね」


 リリィは笑って、睫毛をゆっくり伏せた。

 瞳の奥で、一瞬だけ赤い円環が灯り、すぐに消える。——誰かの嫉妬の残光。


「でもね、安心して。“迅”はここにいるよ。呼べば、少しだけ揺れる」


 リリィは澪の手首の“さらに手前”、空気だけをそっと撫でた。

 その刹那、澪の耳に、極小の反射が届く。


『……澪?』


 声——迅の声。

 水面の向こうから名前だけが跳ね返ったみたいに、薄く、でも確かに。


「っ……迅!」


 澪が半歩踏み出すと、リリィは楽しそうに後ろへ一歩引く。

 距離は同じ。捕食者の遊び。だが、その笑みの端に、ほんのわずかな戸惑いが滲んだ。


「ね、ほら。同じ身体で、違う心拍。美しいでしょ?」


「美しくなんか——」


「でも、あなたの好きな“迅”は、ね。あなたが名前を呼んだ時だけ、ちゃんと顔を向ける。さっきみたいに。……いま、わたしの音とあなたの音、重なってる」


 図星だった。

 澪は歯を食いしばる。

 目の前の“彼女”の笑い方は、澪の知る迅のそれより一拍、遅い。

 けれど——襟を整える指、右足を半歩だけ引いて立つ癖、言葉を置く前の短い呼吸。

 身体の端々は、迅のまま。


「あなたは迅じゃない。——でも、迅でもある」


「そう。混ざってる。

 混ざるって、生きることみたいで、ね。

 ……でも、生きるって、誰かに混ざってないと冷たいの。

 だから、選んで。

 “守る”なら、私を抱きしめて。“奪う”なら、君の本音で噛みついて。ね、澪ちゃん」


 耳朶のすぐそばで囁かれたみたいな甘さ。

 同時に、フェンスの影が風で揺れて、澪の足元がふらつく。

 リリィの指先が伸びる——触れる直前で止まり、空気だけを押す。


《LIFE:60(点滅)》


 数字は落ちない。だが、嫉妬の熱が僅かに上がる。

 澪の心拍に、リリィのリズムが重なる瞬間がある。

 危険だ、と直感が告げる。


「クラスに戻ろう、澪ちゃん。みんな、今日の“リリィちゃん”を褒めてくれるよ。髪、きれいって」


「みんなには……“変化”が見えないんだね」


「うん。世界は“補正”する。本命じゃない人の認識は、勝手に上書き。あなたは——どうだろ?」


 リリィが楽しげに首を傾げる。

 澪の視界の端、白いUIの縁がかすかに金を吸った。

 “本命”という語が、骨に触れる。


 澪は深く息を吸い、吐いた。

 風の温度が戻る。

 声は、驚くほど静かだった。


「……逃げない。私が抱いて、取り戻す。怖い。でも、もう抱く。——あなたごと、迅ごと。順番は、こっちで決める」


 その言葉に、怒りも涙もなかった。

 ただ、水底に落ちていくような静けさだけがあった。


 リリィの口角が、面白がるように上がる。

 嘲りと、安堵と、名づけられない微熱が同時に重なる不思議な笑い。


「約束。順番、守って。ね?」

「守るわ。雛にも、ちゃんと——」

「だめ」


 人差し指が、澪の唇の“前”で止まる。触れないまま、空気だけを押さえる。

 ここから先は甘い罰と告げる仕草。


「今はね、君と私だけ。世界がそう書いちゃったの。……読める?」


 澪は目を細める。

 その言い回しは、迅が冗談めかして使う時と同じテンポだった。

 胸の奥で、かすかに笑ってしまう自分がいる。悔しいのに、救われる。


「読めるよ。だから、その“世界”を書き換える。——私の手で」


 フェンスの影が動き、二人の影がひとつ重なる。

 鐘が鳴る。昼休みの始まり。


 リリィはくるりと踵を返し、扉へ歩き出す。

 去り際、振り返らずに言った。


「放課後、神社。鈴の音のするところ。

 会いたいなら、そこにおいで。——“迅”に触れたいなら、ね」


 扉が閉まる。

 閉まる瞬間、風が逆流した。ほんの一瞬、光の粒が空気に滲んで消える。——世界が、境界を外へ“こぼした”。


 風が途切れ、屋上が一瞬、無音になる。


《LIFE:60(静)》


 澪は拳を握り、ひとつだけ深呼吸した。

 怖い。けれど、怖いまま選べる。

 それが、昨夜、雛に渡した言葉の重みだ。


(——抱く。順番は、私が決める)


 彼女は歩き出す。

 足取りは、朝よりも少しだけ——重く、強い。



 廊下の角を曲がると、真正面から雛が来た。

 胸の前のスケッチブックを抱いたまま、止まり、澪を見上げる。

 視線に、多すぎる言葉が積まれている。

 澪は、頷いた。


「……放課後。神社で」


 雛は一瞬迷い、強く頷いた。

 二人の間を、鈴の気配だけが細く通り過ぎる。


 空は、午後の色へ。

 “嫉妬”の赤が、まだ遠い。けれど確かに、近づいてくる。

 風が通り抜けるたび、どこかで鈴の音がかすかに鳴った。

 それは、誰かの祈りか、警告か——澪には、まだわからなかった。


《LIFE:60(静)》

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