プロローグ2:ちび佐和子、神獣ジェラスに会いにいく
北の砦から漏れ出た瘴気を浄化しながら、
沈んだ谷へと舞い降りる小さな影があった。
──身長よりも長い黒槍を背負い、四枚の小さな光翼をきらめかせる者。
ちび佐和子である。
「……ここだ。すごく、苦しい声……」
足元の黒土が腐敗し、ねじれた蔦が絡みつく。
浄化の術式が地脈に触れるたび、わずかに漏れ出す柔らかな光が、
汚濁の深さを物語っていた。
だが──
(助けて……わたしを)
どこか懐かしい祈りの旋律が断片的に響いた、そのとき。
「……にゃあ……」
瘴気の奥から、よろめくように銀の毛並みの猫が姿を現す。
額に天の紋章、八本足に蒼銀の瞳──明らかにただの猫ではない。
「あなた……神格持ち? どこかで見た猫ちゃん……」
ちび佐和子はそっと膝をつき、その額に小さな手をかざした。
静かに、猫の体から瘴気が抜けていく。
「わたしは銀の女神。クレタ島で“乙女の祈り”を受け継いだ
……でも、ここで力を使い果たしたの」
「もう大丈夫。浄化は終わった」
佐和子の掌から桜色の光が放たれる。
それは“回復”ではなく、“還元”──穢れを帯びた神霊を、
本来の姿へと戻す癒しの光。
「二人で次元回廊を渡ろうとして……この惑星に引き込まれたんだにゃ。
忘海に落ちたセリアのことも……助けてほしいにゃ……」
「にゃーにゃーうるさい。もう一匹いるってことね」
──忘海ぼうかい。
記憶も祈りも沈む、神獣ジェラスの棲み処。
この空間では、あらゆる天使の加護が打ち消される。
「神域に入ってから神力が減衰していくって、天使達どれだけ嫌われてるのか」
だが、佐和子は躊躇なく神域に踏み入る。
小さな体で白衣の裾を揺らし、光輪をぼんやり浮かんだ。
──ミュリアが鳴き声で誘導していくと、確かな気配を感じる。
「金の御使い……ここにいるんでしょ?」
佐和子の言葉に答えるかのように、空間が震える。
──ドウゥン。
深海から、巨大な影が浮上する。
水を裂いて浮上したのは、鱗と黒海藻に覆われた巨獣──神獣ジェラス。
その姿は空をたゆたう白銀の鯨。都市すら丸呑みにできる巨影だった。
「セリアの反応、腹部付近」
銀の猫──ミュリアが冷静に告げる。
「あなたが……金の御使いを囚えたの?」
「……ボォォォォォォ」
(えっ、勝手に入って来たって?)
次の瞬間、水蛇のような触手が、音もなくちび佐和子に襲いかかる。
「うわ、呼吸もできない!? 吸い込まれてるし!」
空間が歪み、触手が無数に展開される。
「来るよ、佐和子!」
ちび佐和子は瞬時に跳躍し、 背中の小さな四枚羽を羽ばたかせて空中へ舞う。
「ナース・フラッシュ!」
ちび佐和子一人での不完全な必殺技。小さな掌から放たれた閃光は
──本来の“看護師天使”の力には遠く及ばない。
掌から放たれた閃光が水蛇を焼き払うが、ジェラスの鱗には傷一つ付かない。
ジェラスの声が震え、空間全体が濁る。
ちび佐和子の小さな身体が水圧に押され、
空中から海面へ叩きつけられる──
「……っ、まだ……っ」
そのとき。
──封印解除。
金色の猫が、ジェラスの体内からふわりと飛び出した。
額には男神テレノアの紋章。
佐和子の体が光に包まれる。
小さな姿が一瞬だけ、本来の神力を取り戻す。
「異世界術式・黒星の輝き」
浮かぶ黒槍に光柱が落ち、ジェラスの胸を貫いた。
海が金色に染まる。
「セリア!」
「馬鹿で、短気で、おっちょこちょいで……でも、ちょっとだけ良い奴」
──自分で言ってどうするの?
静かな突っ込みが、彼女の胸の奥をえぐった。
「なぜ私はこうなんだぁぁぁ!」
「どうでもいい。早くこっちにおいで!」
ちび佐和子とミュリアが二人で手を伸ばす。
だが、次の瞬間。
ジェラスの体から伸びた濃紺の触腕が空間ごと抉るように襲いかかる。
「セリア!!」
返事は──ない。
銀猫耳をぴくぴくさせながら、粘液だらけの顔でミュリアが必死に叫ぶ。
「逃げるよ、セリア!」
「やだ、ぶっ叩く! 吸い込まれた仕返しぃぃぃ!!」
セリアはどこからか巨大な金のバトルアックスを引っ張り出し、
怒りの咆哮を上げる。
「このクソ鯨ぁぁぁ!! 頭カチ割ってやる!!」
「口悪っ!」
「……セリアだから」ミュリアがぼそりと呟く。
──数分後。
ジェラスは中枢を麻痺させられ、大気の中を静かに眠りに落ちた。
「は〜、満足。お休みなさいジェラスくん」
セリアは佐和子の膝を枕にしてふにゃりと笑う。
「別に助けなんていらなかったにゃ。ただ寝てただけだし」
ミュリアが猫耳メイドの姿に戻ってポカリと小突く。
「佐和子様、助けていただき感謝します。この馬鹿には、よく言い聞かせますので」
「ふーっ……久しぶりに呼吸した気がする」
セリアは猫の姿のまま、ちび佐和子の肩に飛び乗る。
だが、その静寂も束の間。
膜の奥でジェラスが呻き、自己修復を開始する。
「だめ、外壁閉じるわ!」
「脱出口どこ!?」
「知らない!てか神格持ちでしょ!?」
「うわああ! 潮があああっ!!」
圧倒的な潮吹きにより、三人は忘海の外へ弾き飛ばされた。
* * *
二人を逃がした後、ちび佐和子は再びジュラスの元を訪れる。
「えっ、分体がいなくなって格納の力が無くなり、成長もできなくなったって?」
「ボォォォォォォ!」
「それは……仕方ないよ。ここはもう異世界だから。諦めて」
「ボォォォォォォォォォォォ!!」
「……うん。でも、いつか元の世界に帰す。看護師天使佐和子が約束する」
ちび佐和子が小指を差し出す。
ヒレと指が触れ合い、不格好な“ゆびきりげんまん”が交わされる。
その瞬間、空気がふわりと揺れた。
神獣ジェラスは、静かに忘海の奥へと退いていく。
(看護師天使といったか──あのような天使も、誕生していたのか)
──忘海の波紋が静かに広がる。誰にも気づかれず、
神獣はゆっくりと、夢の底へ沈んでいった。
* * *
小さな後日談
「なんで、私たちも一緒に冒険したいにゃ!」
「あなたたちは、神格位持ちでありながら、
異世界転移に失敗した落ちこぼれの猫姉妹」
ちび佐和子は二人のメイドを順番に指差して言った。
「ひどっ!とんだ風評被害!」
「まあ……ここに拠点を作られるのも悪くはありますまい」
騎士団長がやれやれといった様子で口を挟んだ。
「この町にも小規模ながらダンジョンがあります。
私が紹介状を書きますから、不安であれば、一度探索してみては?」
双子の猫耳メイドはぱっと顔を輝かせた。
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